
1.日本で初めての社会主義政党の誕生
……結成直後に禁止された社会民主党……
■■■初期労働組合運動の隆盛と衰滅■■■
日本で労働組合運動や社会主義運動が本格的に展開されるようになるのは日清戦争(1894〜95年、明治27〜28年)後のことである。
それ以前にも、原始的蓄積期の資本の収奪に抗議する農民蜂起(1881年の秩父事件を頂点とする)と並んで、都市部では自由民権左派の運動から派生した「東洋社会党」(1882年、「社会公衆の最大福利」を目的に掲げた)や社会党をもじった「車会党」(同年、馬車鉄道の敷設に反対した人力車夫のラッダイト的運動)などが存在したが、いずれも近代的労働運動の範疇に入るようなものではなく、まもなく自然消滅してしまった。資本主義が未発展で、労働運動の成立に必要な前提条件が欠けていたからである。
日清戦争を前後しての産業革命の進行と産業資本主義の確立とが初めて労働者の独自の階級的運動を成立させるに足る客観的・主体的な条件を作り出した。その簡単な指標を上げておこう。
日清戦争をはさんだ1892年と96年を比べてみると、工場数では約2800から7700へ、資本金(株式会社のみ)も1億800万円から1億9000万円へとそれぞれ三倍弱、二倍弱の増加をみせ、これにともなって労働者数も29万人から1.5倍の44万人に達した。生糸・織物・紡績からなる繊維労働者(大半が女工)が依然として工場労働者の六割を占めているが、この時期の労働組合運動の主要な担い手となる軍需工廠を中心とした機械工をはじめ鉄道や活版印刷などの男子熟練職工もまた層として形成された。
こうした状況を背景に日本の労働者運動はまず労働組合の結成として始まった。1897(明治30)年、戦後の反動不況期を迎えるとともに、2年後に控えた「内地雑居」(不平等条約の是正と引き替えの外国資本の日本進出の自由化)への危機感も相まって、いわゆる「労働問題」「社会問題」が急速に浮上して来た。こうしたなか、米国で労働運動を学んだ高野房太郎やキリスト教社会主義に染まった片山潜らが相次いで帰国、労働組合期成会を結成して組合の育成に乗り出した。
期成会の指導と援助の下、労働組合が次々と組織されていき、ピーク時の99年には鉄工組合(砲兵工廠の鉄工など1800人)、日本鉄道矯正会(東北線の機関手など1000人)、活版工組合(2000人)を先頭に42支部、5700人を数えるに至った。彼らは賃金や労働条件の改善とともに、工場法制定運動なども活発に繰り広げた。
しかし、労働組合運動の隆盛は長くは続かなかった。高野、片山らがめざした組合運動はゴムパース率いるアメリカの労働総同盟をお手本に、熟練労働者を中心とした階級協調主義むき出しの運動であった。しかし、このような穏和なブルジョア的労働運動にさえ、労働者階級の急速な勢力の拡大とその階級的な成長を見てとった山県内閣は、1900年に治安警察法を公布し、労働者の団結権や争議権を禁止したのであった。
この「労働組合死刑法」によって、未だ幼児期を脱しない当時の労働組合運動はたちまち壊滅状態に追いやられてしまった。そして、凋落する労働組合運動と入れ替わるかのように表舞台に登場してくるのが社会主義運動である。
■■■社会主義研究会から社会主義協会へ■■■
「社会主義」の名を冠する研究組織が生まれるのは1898(明治31)年のことだが、これに先立って前年4月には社会問題研究会が発足している。これは「学理と実際により社会問題を研究」することを謳い文句に、当時のいわゆる進歩的知識人を200名ほど集めた組織で、幸徳秋水や片山潜なども参加しているが、その主導権は自由民権左派の中村太八郎らが握っていた。普通選挙、土地国有、無料教育などが会のスローガンであったが、中村の入獄などで1年ほどで消滅してしまった。
この社会問題研究会の会員のうち、賛否を別にして社会主義に関心を抱く人々を再組織し、「社会主義の原理とこれを日本に応用するの可否を考究する」ことを目的に掲げて、98年10月に発足したのが社会主義研究会である。会の主導権を握ったのは安部磯雄、村井知至らキリスト教社会主義を唱えるユニテリアン協会の人々であった。ユニテリアンとは18世紀後半にロンドンに成立し、アメリカで発達をみたプロテスタントの一派で、三位一体の教義を認めず、キリストの神性を否定して宗教的偉人とみなし、「地上に神の国を築く」ことを使命としていた。
村井を会長とした社会主義研究会は、サン・シモン、フーリエ、ルイ・ブラン、プル−ドン、ラッサール、マルクスなどの社会主義学説を会員が分担して紹介し、討論することを中心に、月1回の定例研究会を重ね、成果はユニテリアン協会の『六合雑誌』に発表された。幸徳は「現今の政治社会と社会主義」と題して報告、当時の政界(それは現在の政界そのものだ)の腐敗を痛烈に批判している。
さて、社会主義諸家の学説検討を一通り終える頃になると、「実地について研究し、かつ立ち働こう」との気運が会員の間に高まり、1900(明治33)年1月には名称を社会主義研究会から社会主義協会に改め、会長も村井に代わって安部が就任することになった。そして、これを契機に非社会主義者は脱会し、協会は社会主義の信奉者のみによって構成されることになった。また、新会員として木下尚江や西川光二郎らを迎え、会員数は30余名となった。
社会主義者の団体に純化するとともに、例会の研究テーマも「都市問題」「ビスマルクの強制保険法」「工場法制定」といった具体的な政策問題を取り上げるようになり、また自由民権左派を中心に99年に発足した普通選挙期成同盟との連携を深めるなど、政治的実践的な性格を強めていった。そして、翌1901年の3月には、社会主義を公然と世人に訴えようと、「社会主義学術大演説会」と銘打って初めて演説会を開催、当日は会場があふれるほどの盛況ぶりであった。
■■■社会民主党の結成とその歴史的意義■■■
こうした状況に意を強くした安部、木下、幸徳、片山、西川、河上(清)の6人は社会主義政党の結成に打って出る決意をした。
彼らは1カ月ほどの間に綱領、党則、宣言を作成、1901年5月18日、社会民主党を創立した。翌19日には神田警察署に結社届けを提出、20日には宣言が萬朝、毎日、報知などの各紙に掲載された。しかし、同20日、伊藤内閣はこの生まれたばかりの党に解散命令を下し、宣言を載せた各紙を販売禁止処分にした。かくして、わが国最初の社会主義政党はわずか2日間の短命に終わった。
社会民主党の綱領は、「最大限綱領」と「最小限綱領」からなるドイツ社民党のエルフルト綱領(1891年制定)にならって、「理想綱領」と「行動綱領」から構成されていた。「理想綱領」には次の8項目が掲げられた。
1、人種の差別、政治の異同にかかわらず、人類は皆同胞たりとの主義を拡張すること。
2、万国の平和を来すためにまず軍備を全廃すること。
3、階級制度を全廃すること。
4、生産機関として必要なる土地および資本をことごとく国有とすること。
5、鉄道、船舶、運河、橋梁のごとき交通機関はことごとく公有とすること。
6、財富の分配を公平にすること。
7、人民をして平等に政権を得せしむること。
8、人民をして平等に教育を受けしめるために国家は全く教育の費用を負担すべきこと。
一方、「行動綱領」はこれを当時の実情に合わせて現実的な要求に具体化したもので、鉄道・電気・ガスの市有、消費税の廃止、高等小学校までの義務教育化・無料化、工場法と労働組合法の制定、比例代表制による普通選挙の実施、貴族院の廃止、軍備縮小、治安警察法と新聞条例の廃止などの28項目からなっていた。
綱領は数年来の社会主義研究の成果を結集したものであり、その到達点を示すものだが、「理想綱領」は人類同胞主義と平和主義、平等主義と博愛主義といったキリスト教社会主義に彩られたもので、「社会主義」は遠い将来到達すべき「人類全体」の普遍的・抽象的な「理想」として掲げられているに過ぎない。
こうした特徴は安部磯雄の筆になる宣言書にいっそう明らかである。「いかにして貧富の懸隔を打破すべきかは、実に20世紀における大問題なり」との格調高い書き出しで始まる宣言書はこう強調する。
「我党はここに多数人民の休戚(喜びと悲しみ――引用者)を負うて生まれたり。しかれども貧民をかばって富者を敵とするがごとき狭量のものにあらず。而してその志すところは我国の富強をはかるにあれども、しかも外国の利益を犠牲にして顧みざるがごとき唯我的のものにあらず。もし直截にその抱負を言えば、我党は世界の大勢に鑑み、経済の趨勢を察し、純然たる社会主義と民主主義により、貧富の懸隔を打破して全世界に平和主義の勝利を欲するなり」
このいわば遠大な理想主義に対して、現実的な獲得目標を示した「行動綱領」はブルジョア民主主義と資本主義の枠内での社会改良の要求の域を出るものではなかった。こうした「理想」と「行動」の乖離は、当時の第二インターの諸党に共通の特徴であるが、それはまた当時の日本資本主義の発展段階とそれに照応した労働者階級の未成熟、ブルジョア民主主義的な課題が広範に残存していた政治状況などの反映でもあった。
マルクス主義の観点から社会民主党の綱領や宣言の欠陥や限界を指摘するのは易しい。しかし、そうしたものは社会民主党結成の歴史的な意義を、すなわち社会主義運動をそれまでの知識人による理論研究の段階から、「多数人民」の政治的組織的な運動へと脱皮させようと試みた最初の勇気ある挑戦としての不滅の功績を少しも損なうものではないだろう。
安部ら6人は翌月内閣が伊藤から桂に変わったことから、今度は「日本平民党」に名称変更して届け出たが、これもまた即時禁止であった。このため、彼らは当面結党の見込みなしと判断、社会主義協会を復活させて啓蒙宣伝活動を続けることにした。そして10月に第二回の「社会主義学術大演説会」を開催したのを皮切りに、「弁士中止!解散!」の警察の妨害をものともせずに、演説会、茶話会、伝道旅行などによる公然たる大衆宣伝を強めていった。また、労働組合期成会の機関誌であった片山編集の『労働世界』は『社会主義』と改題され、協会の機関誌の役割を果たすことになった。2年余にわたる協会のその後の粘り強い活動は平民社による社会主義運動の新たな時代を準備していくのである。
2.精彩を放つ国際主義の精神
……平民社の非戦運動……
■■■日露戦争の切迫と平民社の結成■■■
満州・朝鮮の権益と支配をめぐる日本とロシアの対立は1903(明治36)年に入ると一触即発の段階に達した。世紀の変わり目を前後して、世界資本主義は帝国主義の段階に移行し、領土と植民地の分割・再分割をめぐる諸列強の争奪戦は全地球規模でますます激化していった。日露の争いもまたそうした帝国主義的角逐の一環に他ならず、10年後に第一次大戦となって爆発する世界戦争に向けた序曲であった。
この年の秋に開戦必至の情勢を迎えると、それまで幸徳秋水や堺利彦を抱えて非戦(反戦)の論陣を張ってきた黒岩涙香の万朝報もまた「戦争やむなし」の主戦論に転向した。社内で非戦の言論を封じられた幸徳と堺は10月12日、「沈黙して所信を語らざるは、志士の社会に対する本分責任において欠くるところあるを覚ゆ」との「退社の辞」を発表して、そろって退社。二人は別々の途を進む予定だったが、相談のうえ、協力して新たな週刊新聞を発行することになった。名付けて『平民新聞』。
問題の資金調達も友人の医師らの協力で何とか解決し、同月23日には有楽町の一角に二階家を借り受けて平民社を設立、退社から一カ月後の11月15日には早くも歴史的な週刊『平民新聞』第1号の発行にこぎつけた。
創刊号には「一、自由、平等、博愛は人類世にある所以の三大要義なり」で始まり、平民主義(階級打破、圧制束縛の除去)、平和主義(軍備撤去、戦争禁絶)、合法主義(国法遵守、暴力否認)を謳った四項目の「宣言」が「平民社同人」の名で掲げられた。
これは平民社の唱える「社会主義」の基本的な内容を示すものだが、一見して明らかなように前回見た社会民主党綱領の水準を超えるものではなかった。労働者階級の独自の歴史的階級的な運動としての社会主義という観念はまだ明白には把握されておらず、依然としてキリスト教的な人類同胞主義の色彩が濃厚である。
また人的にも、平民社の「相談役」(4人)にはキリスト教社会主義派の安部磯雄、木下尚江が就任、寄稿家には同派の村井知至らが名を連ねていた。しかし、平民社の実際の指導部は幸徳、堺をはじめとする自由民権左派の流れを汲む人々が中心となっており、日本社会主義運動の主導権が当初のキリスト教社会主義派の一派(社会民主党の創立者6人の顔ぶれは幸徳を除いて他の全員が同派の人々であった)から別の潮流の手に移行したことを示していた。この点でも平民社の創立は運動史上の新たな段階を画するものであった。
ともあれ、幸徳らは平民社と『平民新聞』を日本における社会主義運動の「城」および「中央機関」と位置づけ、非戦論を中心環に社会主義の啓蒙・宣伝活動を公然と繰り広げようとしたのであった。平民社の「社会主義」の評価については後の日本社会党の結成と分裂(1906〜7年)に関連して総括的に検討することにして、今回は平民社の運動の真骨頂とも言うべき非戦運動についてみていくことにしよう。
■■■「吾人はあくまで戦争を否認す」■■■
政府・財界はもとより言論界あげての世論誘導によって「ロシア撃つべし」の好戦気分が横溢するなかで、反戦の立場を貫くことは弾圧と迫害を覚悟の大変な勇気を要することであった。
しかし、年が明けて1904(明治37)年1月、日露の交渉が最終的に決裂し、開戦が決定的になるや、1月17日付けの『平民新聞』第10号は敢然として「吾人はあくまで戦争を否認す」と高唱し、全紙面をあげて非戦論を特集した。
幸徳の筆になる社説は「吾人はあくまで戦争を否認す。これを道徳に見て恐るべきの罪悪なり、これを政治に見て恐るべきの害毒なり、これを経済に見て恐るべきの損失なり。社会の正義はこれがために破壊され、万民の利福はこれがために蹂躙せらる。吾人はあくまで戦争を否認し、これが防止を絶叫せざるべからず」として、「ああ、わが愛する同胞、今において本(もと)に帰れ、その狂熱より醒めよ、而(しか)して汝が刻々歩々に堕せんとする罪悪、害毒、損失よりまぬがれよ」と呼び掛けた。
また2月7日付けの第13号は、これもまた幸徳執筆の社説「和戦を決する者」を掲げ、次のように喝破した。
「日本の憲法は、宣戦・講和の大事が天皇の大権によって決せらるべきことを規定す。しかれども大権の未だ発動せざるの前、まず、これを決する者あるに似たり。誰かこれを決する者ぞ。いわく国民の世論か、あらず。いわく立法部の議員か、あらず。いわく行政部の官吏か大臣か、あらず。……実際において宣戦・講和の関鍵(カギ)を握る者は、一種の金貸業者にあらずや、かの銀行者と名づくる金貸業者にあらずや」
そして「ひとり日本のみならず、今や世界の政治はことごとく資本家のために支配せられざるなし」と敷衍し、キューバとフィリピンをめぐる米西戦争、イギリスによる南ア戦争などの例をあげて、今では「平和も戦争も同盟も分離も、小国論も大国主義も、自由貿易も保護貿易も、いっさい経済市場の利害をもってこれが標準となさざるべからず。而してこれら経済市場の利害や決して多数平民の利害にあらずして、少数富豪の利害ならざるべからず」と、諸大国の政治とその延長である戦争の帝国主義的な本質を鋭く衝いている。
では、このような「マンモニズム」(拝金主義)の支配を打破するにはどうすればよいのか。社説は「ただ資本家階級の全廃あるのみ」と強調し、「これ欧米社会党の大運動のある所以にして、而してまた実に吾人のこの主義を絶叫する所以と知らずや」と結んでいる。
この新聞が発行された翌2月8日、ついに戦争が始まった。2月14日付け第14号は、戦争の責任はあげて両国の政府にあると弾劾し、「戦争すでに来るの今日といえども、吾人の口あり、吾人の筆あり、吾人の紙ある限りは戦争反対を絶叫すべし」と非戦の決意を改めて明らかにした。そして、論説「戦争の結果」を掲げて再度国民に警告を発するとともに、「兵士を送る」の一文では「兵士としての諸君は、単に一個の自動機械なり」として、「諸君の行くは諸君の罪にあらざるなり。英霊なる人生を強いて、自動機械となせる現時の社会制度の罪なり」と出征兵士に深い同情を寄せた。続く15号の社説では「死生一擲、金鵄勲章を賭するが如き」の愚を避けよ、政府の扇動に乗せられるなと兵士に呼び掛けた。
また3月27日付け第20号では社説「ああ増税!」を掲げ、戦費調達のための6000万円に上る増税を激しく糾弾した。
「我々国民が国家を組織し、政府を設け、かつ、これを維持するために財富の一部を租税として納めるのは、国民生活の平和と幸福と進歩とを保証、持続せんがためではないか。もし苛重なる租税がこの目的に反して、かえって殺戮、困窮、腐敗をもたらすに過ぎなかったら、初めより国家なきにしかず、租税なきにしかず、単に増税の具たるに過ぎざる議会政党なきにしかざるなり」
そして、「国民がかくの如き災厄と苦痛とを脱却して、真に平和と幸福と進歩を得ようと欲するならば、現時国家の不良なる制度組織を除去すべきである。……換言すれば現時の資本主義、軍国主義、階級支配の制度を変更して社会主義制度を実現するにある」と説いた。
政府は新聞紙条例によってこの幸徳執筆の社説を掲げた新聞を発売禁止にするとともに、発行責任者の堺を起訴し、軽禁固2カ月に処した。堺は4月21日、日本における社会主義運動の最初の犠牲者として巣鴨監獄に下獄した。以後、政府の弾圧はますます凶暴化していく。
■■■今なお感動を呼ぶ国際連帯の精神■■■
このように戦争の本質や原因を資本主義と帝国主義の支配と結びつけて暴露し、その根本的な解決策として社会主義を押し出す(といっても、客観的・主体的条件の未熟さに規定されて、未だそれは言葉だけの抽象的な提起に過ぎなかったが)という原則的な観点が平民社の非戦運動の優れた特質の一つであったとすれば、これと不可分のもう一つの重要な特質はその一貫した国際主義の精神であった。
『平民新聞』には世界各国の社会主義者との交流・連帯を目的にして当初から「英文欄」が設けられ、毎号、重要問題を英語でアピールするとともに、「世界之新聞」欄を設けて各国の労働運動や社会主義運動の状況を紹介していった。
こんなところにも平民社の国際連帯重視の精神はうかがわれるのであるが、戦争勃発後の3月13日付けの『平民新聞』第18号には、平民社のプロレタリア国際主義を象徴する社説「露国社会党に与うるの書」が掲載された。
幸徳秋水の一代の名文と言われるこの檄文は「ああ露国における我らの同志よ、兄弟姉妹よ、我ら諸君と天涯地角、未だ手を一堂に取って快談するの機を得ざりしといえども、しかも我らの諸君を知り、諸君を想うことや久し」と書き起こし、ツァーリ圧制下で堅忍不抜の闘いを繰り広げるロシア社会民主党に心からの敬意と同情の意を表明した後、こう訴える。
「諸君よ、今や日露両国の政府は各その帝国的欲望を達せんがために、みだりに兵火の端を開けり。しかれども、社会主義者の眼中には人種の別なく、地域の別なく、国籍の別なし。諸君と我らとは同志なり、兄弟なり、姉妹なり、断じて闘うべきの理あるなし。諸君の敵は日本人にあらず、実に今のいわゆる愛国主義なり、軍国主義なり。しかり、愛国主義と軍国主義とは、諸君と我らとの共通の敵なり、世界万国の社会主義者の共通の敵なり。諸君と我らと全世界の社会主義者は、この共通の敵に向かって、勇敢なる戦闘をなさざるべからず。而して今日はこれその最重要の時機にして、また実にその最好時機にあらずや。我らは知る、諸君が決してこの最好の時機を逸する事なきを。我らもまた我らの最良(ベスト)をなすべきなり」
そして、終わりにあたって「マルクスの『万国の労働者よ団結せよ』の一語は、真に今日において実現せしめざるべからず」と強調し、こう結んでいる。
「ああ諸君、諸君が暴虐の政府に苦しめられ、深刻なる偵吏に追われて、我が大主義のために刻苦するの時、三千里外、はるかに満腔の同情をもって諸君の健在と成功とを祈れる、数千の同志、兄弟、姉妹のあることを記せよ」
この国際連帯の情にあふれた檄文は次号の英文欄にも訳載され、欧米各国の社会主義者に深い感銘を与えたのであった。そして、このような国際主義の精神がすっかり見失われて久しく、ブルジョア政党ばかりか日本共産党などに代表される似非(えせ)労働者党によって民族主義や愛国主義ばかりが盛んに振りまかれ、その害毒が蔓延している現在、率直に国際連帯を訴えた百年前のこの一文は我々の心をもまた揺さぶらずにはおかない。
ロシア社会民主党の機関紙『イスクラ』は5月14日付け第65号に「ロシア社会主義者への日本社会主義者の手紙」と題してその全文を掲載するとともに、これに対する『イスクラ』編集部の回答を発表した。ロシアからの返書は7月24日付けの『平民新聞』第37号に全文が訳載された。荒畑寒村著『平民社時代』の「大意」によると、そこにはこう述べられていた。
「普仏戦争に際してドイツのリープクネヒト(父)とベーベルとは、アルサス・ロレーヌの併合に反対して万国労働者同盟のために不朽の貢献をなしたが、この日本労働階級の進歩せる代表者がなしたところはまさにこれに劣らない功業というべく、我が党は日露両国の好戦的叫喚の間にあって、この遠来の声に接し、まさに真善美の世界から来た妙音に接するの感があった」
そして、この平民社の国際主義にもう一つの感動的な花を添えたのが8月にアムステルダムで開かれた万国社会党(第二インター)第六回大会であった。
この大会には渡米中の片山潜が日本の社会主義者の代表として参加、交戦国ロシアの代表プレハーノフとともに大会の副議長に選出された。登壇した二人は壇上で固く握手を交わし、満場の拍手と喝采を浴びたのであった。ちなみに、この時、片山が英語でした演説の通訳の労をとり、ドイツ語に翻訳したのがクララ・ツェトキン、フランス語に翻訳したのがローザ・ルクセンブルグであったと伝えられる。
そして、この模様を『イスクラ』は「これ以上美しい瞬間はこの大会にはなかった」と書き、『平民新聞』(9月18日付け第45号)は「記せよ、読者諸君。この握手や、これ実に世界の社会党発達の歴史において、永く特筆大書せざるべからざる重大の一事実なることを」と紹介した。
このように純粋・素朴な形ではあれ、プロレタリアートの国際主義と社会主義の原則に則って、断固として革命的な反戦闘争を繰り広げていったことこそ、平民社の非戦運動が国際社会主義運動史上に不滅の足跡を残すに至った理由であり、今なお我々に深い感動を呼び起こさずにはおかない秘密なのである。
3.迫害に抗して不屈の闘いを展開
……社会主義の理想に燃えた平民社……
■■■多彩で精力的な平民社の活動■■■
反戦運動の展開と社会主義の啓蒙宣伝活動とを両軸とする平民社の闘いはまことに精力的かつ多彩なものであった。
1904(明治37)年12月25日付けの『平民新聞』第五九号に載った集計によれば、平民社創立から一年間の活動状況は次のようであった。
▽『平民新聞』総発行部数20万部。
『平民新聞』(通常タブロイド版八頁)の印刷部数は一週平均4500部、うち3000部が売捌店に納められ、1300部が直接購読分であった。警視庁の調査によると、全国の社会主義者の数は三府一道四一県にわたり約3000人と言われていたから、およそ『平民新聞』の発行部数と一致していた(荒畑寒村『平民社時代』)。
▽『平民文庫』8種類、販売総数1万5270冊。
欧米の文献の翻訳やそれを基に構成した社会主義の通俗的な解説書(『社会主義入門』、『百年後の新社会』、『理想郷』、『ラッサール』、『マルクス』、『消費組合』等々)を中心としたもので、最終的には十数種類に達したが、木下尚江の『毎日新聞』の連載小説『火の柱』や『良人の告白』も収められ、これが一番の売れ行きであった。
▽社会主義と普通選挙の檄ビラ計4万枚。
▽集会数120回。
内訳は演説会61回(東京44回、地方17回)、社会主義研究会30回、社会主義婦人講演会13回、茶話会その他20回。
▽地方遊説40数回。
▽社会主義伝道行商。
これは当時、牛乳配達が用いていた小型の箱車を赤く塗ったものに『平民新聞』や『平民文庫』などの出版物やビラを積み込み、「社会主義伝道行商」の幟を押し立てて、沿道の都市・農村で書籍などの販売をしながら、社会主義協会員を募り、普選の請願署名を集めるというユニークな宣伝活動で、多くの青年によって試みられた。その白眉は04年秋に敢行された小田頼造と山口義三の両名によるもので、彼らは三カ月余を費やして東京から下関に至る1200qを踏破したのであった。「宣伝」でなく「伝道」という言葉が使われているところにキリスト教社会主義の名残が見られるが、ともあれ警察の陰険な妨害や文字通り石持て追われる迫害に耐え忍んで貫徹されたこの活動は、平民社の人々の社会主義の理想に対する燃えるような情熱、その革命的な気概と殉教者的な自己犠牲の精神とを象徴するものであった。全貌は寒村編著の『社会主義伝道行商日記』に詳しいが、彼自身も弱冠18歳で東北地方への伝道行商に挑んでいる。
これらの果敢な活動の結果、『平民新聞』の読者を中心とする地方の社会主義団体も北は札幌から南は鹿児島に至る各地に誕生し、その数は大小合わせて40余に達した。
わずかの勢力と乏しい資金のなかで、平民社の人々が一年間にこれだけの活動を成し遂げ得たことは驚嘆に値する。財政難で04年5月以降は専従社員は無給となったが、彼らは平民社に「籠城」して活動を支えたのであった。
■■■『平民新聞』の廃刊と後継紙『直言』■■■
平民社の闘いと影響力の拡大は支配階級に深刻な脅威を与え、権力の弾圧もまた日を追って熾烈なものになっていった。
そんな中、04年11月6日付の『平民新聞』第52号は教育批判を特集し、いくつかの論文を掲げたが、その一つに石川三四郎の「小学教師に告ぐ」があった。石川はこの中で国家主義教育を攻撃し、教師の劣悪な待遇を暴露して、教師たちに社会主義運動への結集を呼び掛けた。政府はこの論文が朝憲紊乱罪(国家存立の基礎となっている制度を侵害する罪)にあたるとして、『平民新聞』の発売を禁止するとともに、編集兼発行人の西川光二郎と印刷人の幸徳秋水を起訴した。
翌週の11月13日付の『平民新聞』第53号は創刊一周年に当たっていた。この記念すべき号を飾るため、全紙をあげて堺・幸徳共訳の『共産党宣言』を掲載することを計画していた。これが『共産党宣言』の最初の邦訳で、実は訳者も含めてそれまで誰も読んだ人がなかったというのが当時の実情であった。ところがこれを訳載した53号も発売禁止に処せられ、今度は西川、幸徳、堺の三名が起訴された。また記念行事の一つであった園遊会も禁止されたうえに、16日には社会主義協会(片山潜が03年末に渡米して以降は協会の本部もまた平民社に移り、両者は一体となって活動していた)に解散命令まで下された。
第五二号の控訴審判決は明けて05年の1月11日に下されたが、第一審に続き、幸徳に禁固5カ月、西川に禁固7カ月、それぞれ罰金50円、『平民新聞』の発行禁止、印刷業者所有の機械没収という厳しいものであった。
『平民新聞』はこの裁判責め、兵糧攻めの政府の迫害に断固抗議し、なおも「非戦論をやめず」と呼号した。だが、大審院での上告棄却が避けられない状況の中では、それにも限界があり、それならば政府によって禁止されるよりは自ら廃刊しようということになり、1月29日付の第64号をもって終刊とすることに決した。
終刊号は、マルクスの『新ライン新聞』の故知にならって全面赤刷にされ、「告別! されど永久の告別にはあらず。彼らは精神を殺す能わず」というフライリヒラートの詩も掲げられていた。
「ああ、我が平民新聞、短くして且つ多事なりし生涯よ、誰か創刊の当時において、しかく多事にして、しかく短き生涯なるを思わんや、独座燭を切って終刊の辞を草すれば、天高く夜長くして風気蕭索(しょうさく)たり」
幸徳の「終刊の辞」は例によって悲愴を極めたものであったが、あにはからんや翌週の定期発行日には「本紙は日本社会主義の中央機関なり」と大書した週刊『直言』が後継紙として直ちに姿を現わしたのであった。編集・執筆陣も、新聞の体裁も全く同じで、『平民新聞』が『直言』に名を変えただけであった。とはいえ2月末に主筆の幸徳が下獄した後の紙面が精彩を欠くものとなったことは否めなかった。
この時期の記事で注目されるのは、ロシアの労働者人民の革命的な決起、すなわち05年の革命に関する報道である。『平民新聞』の終刊号には「露国革命の火」と題して、奇しくもその一週間前(1月22日、露歴では1月9日)に起こった「血の日曜日事件」(僧ガポンに率いられた2万の労働者人民がツァーリに請願するため冬宮に向かったところ軍隊の発砲で多数の死傷者を出した事件で、05の革命の発端となった)が詳しく紹介されていた。『直言』もこれを引き継いで、かのプチロフ工場の労働者のゼネストから始まり戦艦ポチョムキンの反乱(7月)に至る革命的蜂起の模様を毎号のように掲載、ロシアの労働者人民の闘いの発展に胸を躍らせ、その勝利に期待し、熱い連帯を表明している。
平民社の国際主義の面目躍如だが、しかし、彼らもロシアの革命運動の内情について詳しくは通じておらず、ロシア社会民主党のボルシェヴィキとメンシェヴィキへの分裂はおろか、社会民主党と社会革命党の違いさえ明瞭には理解していなかった。
■■■日露戦争の終結と平民社の解散■■■
この時期の活動で言及しておかなければならないのは、社会主義運動史上初めて選挙闘争に取り組んだことであった。東京市選出の衆院議員・田口卯吉の死去に伴う補欠選挙が五月に行われることになり、平民社では木下尚江を候補者に立てて闘うことにしたのである。
木下の政見は社会主義実行のための手段としての普通選挙制の獲得というものであったが、政府の乱暴な選挙干渉で、チラシの配布も政見発表演説会も許されなかった。しかも有権者が百人に1人(総数約1万7000人)という制限選挙であったため、木下の得票は32票(得票率0.2%)に止まった。しかし、平民社の人々は「これ、あに厳然たる社会党の樹立に非ずや」(5月21日付『直言』第16号)と意気盛んであった。
選挙運動でさえこの有様なので、演説会を開催し、数百人の聴衆を集めても、たちまち「弁士、中止!」「解散!」の連発で成り立たず、怒った聴衆が警察官と小競り合いを繰り返すという状況であった。しかも、印刷代に加えて罰金や没収印刷機械の賠償金で財政は火の車であった。
こんななか、6月にはいると、米国の仲介で日露両国の講和への動きが始まった。燃え広がる革命闘争に手を焼いていたロシアはもとより、日本もすでに戦争継続の余力を失っており、両国はルーズヴェルト大統領の調停に渡りに船と飛びついたのであった。講和会議は8月10日、米ポーツマスで開かれ、日本は韓国・満州の利権、大連・旅順の租借権、樺太の南半分の割譲、沿海州の漁業権などを分捕ったが、賠償金は一銭もとれなかった。
このため反動派から「屈辱講和反対」の声が猛然と上がり、9月5日に日比谷公園で開かれた対露硬同志会主催の「講和反対国民大会」は政府の御用新聞社や警察署、電車などを焼き払う暴動へと発展した。政府は6日の夜、東京府下に戒厳令を敷き、講和反対と政府批判を掲げた新聞に軒並み一定期間の発行停止を命じた(東京朝日14日、読売11日等々)が、一人『直言』のみは無期発行停止であった。
万事休す。平民社同人は、西川の出獄を待って『直言』の廃刊と平民社の解散を決定し、10月9日には70余名の同志が平民社に集まって悲痛な解散式を挙行した。ここに、その革命的な反戦闘争で国際社会主義運動史上に輝かしい足跡を残し、また日本の社会主義運動を初めて公然たる政治闘争の舞台に登場させるという歴史的な役割を果たした平民社の一時代は幕を閉じたのであった。
こうして平民社は権力の凶暴な弾圧と財政難によりまさに刀折れ矢尽きる形で解散に追い込まれたのであるが、しかし、平民社の解散は単に弾圧と財政難といった外的要因によってのみ余儀なくされたのではなかった。そこには早晩、解体を不可避とする内的な要因もまた存在していたのである。
平民社を主導したのは幸徳、堺らの自由民権左派の流れを汲む唯物論派の社会主義者であった。しかし、内部には木下、石川らのキリスト教社会主義者から単なる人道主義者や博愛主義者に至るまでの雑多な傾向の人々を抱え込んでいた。彼らは明確な政治綱領に基づいて結集していた訳ではなく、せいぜい社会主義の抽象的な理想やその実現のための普通選挙制の獲得を共通の土台にしていたに過ぎなかった。そして、その彼らを打って一丸とさせていた紐帯は何よりも日露戦争に断固反対するという非戦の立場であった。
ところが日露戦争の終結はこの非戦の紐帯を解いてしまった。平民社に団結させていたこのほとんど唯一の紐帯が失われれば、それぞれが自らの本来の傾向や色彩にしたがって分離していくことは自然の成り行きであった。現に解散から1カ月後には早くも木下・石川らキリスト教社会主義の一派が雑誌『新紀元』を創刊したのに続き、西川、山口義三らの唯物論派も『光』を刊行し、日本の社会主義運動は二つの陣営に分裂した。
平民社の一時代が日露戦争の勃発とともに幕を開け、日露戦争の終結とともに幕を閉じたのは決して偶然ではなかったのである。
4.「直接行動」か「議会政策」か
……日本社会党の戦術論争……
■■■日本社会党の結成と緒戦の勝利■■■
1905(明治38)年10月の平民社の解散から一カ月後、木下尚江、石川三四郎らキリスト教社会主義派は月刊誌『新紀元』を創刊、他方、「マルクス派社会主義」を名乗る人々は半月刊誌『光』(この名称はロシア社会民主党の機関紙『イスクラ』をまねたもの)を発刊して、両派はそれぞれ別の道を進むことになった。
『光』は平民社直系の「日本社会主義中央機関」をもって任じたが、編集には西川光二郎と山口義三(孤剣)が中心になって当たることになった。というのは、幸徳秋水は11月半ばに静養と見聞をかねて米国に旅立ち、堺利彦は理論研究に力を注ぐことになったからである。堺の成果は翌年春から夏にかけて発行された1〜5号の雑誌『社会主義研究』に発表され、『共産党宣言』、『空想から科学へ』などの日本語訳が初めて日の目を見た。
『光』創刊号は第一面に「印絆天雑誌、凡人主義の新聞」と大書し、第2号の巻頭に「凡人主義とは何ぞや」と題する声明を掲げて、「凡人主義とは印絆天主義なり、草鞋脚絆主義なり、赤毛布主義なり、握り飯主義なり、木賃宿は我らの天国なり、貧民窟は我らの故郷なり、田子作、杢兵衛、熊公、八公の諸君は我らの親友なり、……」と呼号した。
西川、山口らは『平民新聞』や『直言』は少しく高尚・難解に過ぎたとして、もっと通俗的大衆的な新聞にしようと意図したらしいのだが、それは理論や原則を軽視し、卑俗な改良主義に陥りかねないものであった。
そうこうするうちに年が明けて1906(明治39)年1月、山県有朋系の桂軍閥内閣が日露講和条約をめぐる騒動の責任をとって総辞職し、代わっていくらか自由主義的な色彩を帯びた政友会総裁・西園寺公望を首班とする内閣が登場した。西園寺内閣は成立と同時に「社会主義取り締まり」の新方針を発表して、社会主義もまた世界の一大風潮であり、みだりに弾圧すべきでなく、その穏健なものは善導して、国家の推運に貢献さすべきであるとの態度を明らかにした。
そこで、『光』派の社会主義者たちは1月中旬、「普通選挙の期成を図るを目的とす」を綱領に掲げた「日本平民党」の結社届を提出したところ、受理された。この瀬踏みの成功に意を強くした彼らは、半月後、今度は「日本社会党は社会主義を主張す」との党則を掲げた結社届を出してみたところ、これもまた難なく許可された。
このため、彼らは2月24日、両党合同の形式で日本社会党の創立大会を開き、ここに日本で初めての合法的な社会主義政党が誕生することになった。大会は「本党は国法の範囲内に於いて社会主義を主張す」との党則を決定、評議員として堺、片山潜(1月に米国から帰国)、西川、山口、田添鉄二、森近運平ら13人を選出した。正式党員は約200名であったといわれる。
生まれたばかりの日本社会党が直面したのは東京市街鉄道三社の電車運賃値上げ問題であった。党は運賃値上げ反対運動に乗り出し、3月11日と15日には山路愛山の国家社会党と共同で「市民大会」を日比谷公園で開催した。15日の大会終了後は、有楽町の市街鉄道会社、東京市会に向けてデモをかけたが、群衆は3000名にも膨れ上がり、中には投石する者も現れるなど、大荒れとなった。このため、党員は暴動化を懸命に制止したにも関わらず、凶徒聚衆罪で西川、山口、大杉栄ら10名が逮捕、起訴された。
とはいえ、この結果、3銭から5銭への均一運賃の値上げは撤回され、市街鉄道を市有化する決議を市会で通すことにも成功した。このように運賃値上げ反対運動が大きな高揚をみせた背景には、日露戦争後も継続された増税や物価高騰に苦しむ大衆のうっ積した怒りがあった。結党直後の社会党はこの大衆の不満を組織し、緒戦を飾ったのであった。そして、これが社会主義政党が公然と指導した日本で最初の大衆運動であった。
■■■幸徳秋水の帰国と党内への衝撃波■■■
そんな中、滞在先のサンフランシスコが大地震に見舞われたこともあって6月23日、幸徳秋水が滞米半年余で急遽帰国した。秋水は6月28日の帰国歓迎会で「世界革命運動の潮流」と題して帰朝第一声を上げた。
秋水は「過去一年余の入獄と旅行とは、予の主義理想に何らの変化も与えざりき、予は依然として社会主義者なり。ただその主義理想は変化なしといえども、これを実現する手段方法は変転することなしと言うべからず。今や欧米における同志の運動方針は、まさに一大変転の機に際せり、我が日本の社会党たる者もまたこの新潮流を看取するを要す」と前置きして次のように述べた。
ドイツではビスマルクが「普通選挙の制を採用して民間不平の安全弁となすや」、ドイツ社民党は議会・選挙闘争に全力を注ぎ、「我らは議会に多数を制し、もってその志を行うべきのみ。社会党運動は平和的なり、立憲的なり、合法的なり」と揚言するようになった。そして、第二インターの諸党も皆これにならい、「我が日本の社会党も、従来議会政策をもってその主なる運動方針となし、普通選挙の実行をもってその第一着の事業となせり」。だが、その結果はどうか。
「三百五十万の投票を有せるドイツ社会党、九十人の議員を有せるドイツ社会党、果たして何事を為したりや、依然として武断専制の国家に非ずや、依然として堕落罪悪の社会に非ずや、投票なるもの甚だ頼むに足らざるに非ずや、代議士なる者の効果、何ぞ甚だ少なきや。労働者の利益は労働者自ら掴取(かくしゅ)せざるべからず、労働者の革命は労働者自ら遂行せざるべからず、これ近時欧米同志の叫声なり。
それ社会党たる者、一に議会政策にのみ重きを置かば、その勢力を得たる際において来たり投ずる者の多数は必ず常に議員候補たらんと欲する者のみ。彼の地位、名誉、権力の利益のために来る者、ひとたびこれを得れば直ちに腐敗し、堕落し、少なくも譲歩し沮喪せざる者まれなり。而して、その為したるところは、わずかに某法律の制定、某条項の改廃に止まりて、いわゆる社会改良論者、国家社会党の為す所と何の差違ある事なきに至らん。しかり、社会党の理想目的たる今の社会組織の根本的革命に至りては、到底これを議会内の賛否に求むべからずと、これ近時欧米同志の盛んに論道する所なり」
「ここにおいてか、欧米の同志は、いわゆる議会政策以外において社会革命の手段方策を求めざるべからず。……而して彼らはよくこれを発見せり、何ぞや、爆弾か、合口か、竹槍か、筵(むしろ)旗か。否、これらは皆十九世紀前半の遺物のみ。将来革命の手段として欧米の同志の執らんとする所は、しかく乱暴の物に非ざるなり。ただ労働者全体が手を拱して何事も為さざること、数日もしくは数週、もしくは数月なれば即ち足れり。而して社会一切の生産交通機関の運転を停止せば即ち足れり。換言すればいわゆる総同盟罷工(ゼネラル・ストライキ)を行うにあるのみ」
幸徳の演説は党員たちに天地のひっくり返るような激しい衝撃を与えるものであった。というのは、普通選挙制を獲得して、議会に多数を占めることで政権を握り、社会主義革命を遂行するという「議会政策」論、すなわち合法的なブルジョア議会主義の路線を、これまで彼らは誰一人としていささかも疑うことなく信じて来たからである。以後、党内は若い同志を中心に寄るとさわるとこの話で持ちきりになるという状態であった。
一方、幸徳の帰国をきっかけに日刊新聞を発行する計画が持ち上がり、準備が進められていった。彼らは『新紀元』派にも協力を呼び掛けた。木下尚江は結党後まもなく社会党に加入したが、石川三四郎は後に彼が行き着く無政府主義的な個人主義の立場から「政党不信」を表明して堺らの入党要請を拒否していた。その石川も最終的には協力することになり、こうして両派は年内をもってそれぞれの機関紙を廃刊し、再び合同して翌年1月を期して日刊『平民新聞』を発行することになった。岡山の平民社同人だった山川均が編集部入りを請われて上京するのもこの時である。なお、木下はこれを前後する母の死を契機に「心境の変化」を来たして隠遁生活に入り、社会主義運動から身を引いてしまった。
■■■日刊『平民新聞』紙上での論戦■■■
日刊『平民新聞』は明けて1907年1月15日から刊行され始めた。創刊号は秋水の筆になる「宣言」が掲げられ、「吾人は明白に吾人の目的を宣言す。平民新聞発行の目的が、天下に向かって社会主義思想を弘通するにあることを宣言す。世界における社会主義運動を応援するにあることを宣言す」と意気盛んであった。
新聞創刊から1カ月後の2月中旬には日本社会党の第2回大会が予定されていた。大会を10日後に控えた2月5日付の『平民新聞』第一六号に、幸徳秋水は「余が思想の変化(普通選挙について)」を発表し、大会に向けて「直接行動」論を提起した。
幸徳は前記「世界革命運動の潮流」と同様に、「代議政体」は「ブルジョア政治に固有の形式」であり、「故に労働者出身の議員といえども議会に入ると同時にブルジョア政治に感化され、堕落し去るのは当然である。社会党の議員はまじめで、民意に背く恐れはないと言われているが、いかなる党派も逆境にある間はまじめである。しかし、議会の多数を占むるを目的とした政党がその目的を達するや否や、直ちに腐敗し去るは当然である」(以下、発言は堺、田添のを含めてすべて大意)と喝破したうえで、こう強調する。
「労働者階級の欲する所は、政権の略取ではなくて、パンの略取である。法律ではなく衣食である。故に議会に対してはほとんど用はないのである。法律の改廃のみに依頼して安心するほどならば、これらの事業は社会改良論者や国家社会党に一任して可なり。これに反して、真に社会革命を断行し労働者階級の地位、生活を向上し保存せんと欲せば、議会の勢力よりもむしろ全力を労働者の団結訓練に注がねばならぬ。労働者自身も議員、政治家などに頼らず、自身の直接行動でその目的を貫く覚悟がなければならぬ」
そして、「我が日本の社会主義運動は今後議会政策を執ることを止めて、一に団結せる労働者の直接行動をもってその手段方針となさんこと」を提起したのであった。
幸徳の「直接行動」論には直ちに二つの批判が現れた。一つは堺利彦、もう一つは田添鉄二のものであった。
堺は2月10日付の『平民新聞』に「社会党運動の方針」を発表し、自分は「大体の考え方」で幸徳と同じだが、「異なるところは全然議会を否認すると、これを併せ用いることにあるのみだ」として、こう述べる。
「社会党の議員が議会に出て、議会をして真に平民労働者の噴火口たらしめるためには、我々は実力を持って政府と政党に肉薄して、普通選挙権を獲得しなければならぬ。そこに直接行動の必要がある」、「今後、社会党運動の大方針としては、一方に議会政策をとり、一方に労働者の団結をはかり、議会の内と外と常に相呼応して平民階級の活動につとめるにある」。
この堺の折衷的な併用論に対して、田添は幸徳の主張に真っ向から対決し、2月14、15日の2号に渡って「議会政策論」を展開した。
「余は労働者階級をもって現代社会の革命的動力であると信ずる。しかし単にパンに対する自覚、すなわち生活そのものに対する自覚だけでは、直ちに社会を根本から改革する勢力となるものではない。パンを直接に獲得するというだけなら、労働者は政治意識なき労働組合運動にとどまり、ストライキやその他の武器を擁して資本家に肉薄する行動も、賃金労働者の位置を改善するに止まるに過ぎない。現代社会の組織の欠陥を政治的に意識し、さらに新社会建設を人類の正義の観念の上に意識するに至り、すなわち労働者が階級意識に覚醒した時、はじめて社会の根本的改革を遂げ得る動力となるのである。そして、この点からすれば、議会政策も直接行動もともにこの階級意識覚醒の有力なる方便と見ることができる」、「社会党の運動は決して単純ではなく、ひとすじみちではない」
「社会改革を志すものの往々陥りやすい謬見は、社会革命が一活劇の下に実現しうるという観念である。……社会は人為の創造ではなくおのずからなる進化であり、原人時代の過去から進化してきた現在の社会が一個体、一有機体として新社会に入るまで進化せず、その用意が成熟せず、社会進化を構成する一動力すらも不用意である以上は、たとえいかなる天才英雄が焦っても、いかなる有力な団体の活動をもってしても、社会革命は行われない」
こうして三者三様の見解が出揃ったところで、2月17日、日本社会党はその歴史的な第2回大会を迎えることになった。
5.軟派と硬派への分裂と対立
……赤旗事件、大逆事件、そして冬の時代へ……
■■■左派の勝利に終わった社会党第二回大会■■■
「直接行動」か「議会政策」か――日刊『平民新聞』紙上での前哨戦を経て、これを決する日本社会党第二回大会が1907(明治40)年2月17日に開かれた。大会ではまず党則第一条「本党は国法の範囲内に於いて社会主義を主張す」を「本党は社会主義の実行を目的にす」と改めた後、決議案の審議に移った。
堺の提案した評議員会の原案は、第一項に「我が党は労働者の階級的自覚を喚起し、その団結訓練につとむ」と謳い、第四項で「左の諸問題は党員の随意運動とす」として、これまで「社会主義運動の第一着手」とされてきた「普選運動」を、治安警察法改正運動や非軍備主義運動や非宗教運動と同様に「党員の随意運動」に格下げするというもので、一見、両派に配慮した形のものであった。
予期されていたとおり、決議案には二つの修正案が提出された。一つは田添からのもので、第一項の後に、第二項として「我が党は議会政策をもって有力なる運動方法の一なりと認む」を入れ、「随意運動」の項から「普選運動」を削除するというものである。もう一つは幸徳からのもので、第一項の「我が党は」の後に「議会政策の無能を認め専ら」と加え、同じく第四項から「普選運動」を削除するというものであった。
田添と幸徳は持論に従い熱烈な弁舌を振るって、それぞれの修正案を擁護した。そして他の代議員の賛否の発言を含めて三時間余を討論に費やした上で採決に移り、田添案2票、幸徳案22票、評議員会案28票で、原案が可決成立した。原案が通ったとはいえ、これまで党の一枚看板であった普選運動を今後は党としては取り組まず、やりたい人がやるというのだから、その内容は本質的には幸徳案寄りであり、採決の結果は実質的には「直接行動」派の圧倒的な勝利を意味していた。
■■■秋水の「直接行動」論提起の歴史的意義■■■
秋水の「直接行動」論が理論的に見れば基本的にアナルコ・サンジカリズム以上のものでないことは明らかである。
彼が「直接行動」論に傾斜していった直接の契機としては、滞米中のI・W・W(世界産業労働組合、幸徳の渡米に先立つ半年ほど前の05年6月にヘイウッドらによって結成された)の急進組合主義者やロシアの亡命社会革命党員との交流、折からの第一次ロシア革命におけるゼネストの蔓延、さらには獄中で読んだクロポトキンなどの無政府主義的文献の影響等々をあげることができる。しかし、その根底には数年来の認識の深まりの中で明確となってきたドイツ社民党の議会を通じての革命という俗悪なブルジョア的議会主義に対する深い幻滅、ベルンシュタイン主義をはじめとする第二インター諸党における修正主義の台頭と、これに口先では抽象的・原則的な批判を浴びせつつも、実践的にはこれに妥協・追随するベーベル、カウツキーらの欺瞞的な正統マルクス主義派への激しい反発があった。秋水の持って生まれた革命的な性情・気質はこれらに敏感に反応したのであった。
「直接行動」論の提起で秋水が意図した核心は、これまで彼らがお手本としてきたドイツ社民党流の議会主義、合法主義、改良主義の路線を克服し、日本の社会主義運動を革命的な方向へと転換させることにあった。その限りで、秋水の提起は全く正当であり、歴史的な意義を持つものであった。実際、秋水の議会主義、改良主義に対する仮借ない批判は、あたかも戦後の社共のブルジョア的な腐敗、堕落を見通して、それを完膚無きまでに暴露しているかのようである。
しかし、彼がブルジョア的な議会主義、改良主義に対置したものはマルクス主義的な戦略・戦術論ではなく、「ゼネストによるパンの略取」というアナルコ・サンジカリズムでしかなかった。議会で多数を占めることで合法的にプロレタリア革命を実現するという議会主義のナンセンスは秋水の強調する通りである。それは究極的には労働者階級の組織された力、蜂起に至る革命的大衆行動によるブルジョア権力の打倒とプロレタリア権力の樹立によってのみ可能である。しかし、秋水の「直接行動」論では、労働者の革命的大衆行動がその一つの形態に過ぎないゼネスト(しかも多分に自然発生的な)に一面化されており、プロレタリアートによる権力の奪取という課題についてもあいまいであった。
また、こうしたアナーキズムに独特な見解と関連して、そうした革命闘争を最終的な勝利に導くために、労働者階級をいかに組織し、鍛え上げていくのか、そのためには何が必要かということ、つまり理論的にも組織的にもマルクス主義に基礎を置いた強固な革命的な党組織(合法的あるいは非合法的な)を作り上げていくことが何よりも必要だという観念も希薄であった。そしてこの点は「ガラス張りの組織」を自慢としてきた明治期社会主義者の特徴で、そのおおらかさを示すものであると同時に、またその致命的な弱点でもあった。
もっともこの点でひとり秋水を責めるのは酷であろう。というのは、ドイツ社民党および第二インターの修正主義、日和見主義に鋭い革命的な批判を浴びせたあのローザ・ルクセンブルクでさえも、そのゼネスト論に見られるように、大衆の自然発生的な革命性を過大視し、その結果、組織的にも日和見主義者と一線を画して独自のプロレタリア革命党を建設するという任務を軽視する、サンジカリズム的な偏向に陥っていたのだから。当時、この課題を一貫して追求していたのはロシアのボルシェヴィキだけであったが、レーニンの党組織論などはまだ日本に伝わってはいなかった。
我々はその限界をあげつらうことよりも、むしろ日本の社会主義運動もまた、第二インターの醜悪な修正主義、日和見主義に反対する国際的な革命的潮流に連なる健全な一翼を生み出し得たことをこそ誇るべきであろう。レーニンはローザの死に際して、彼女は様々な誤りを犯したが、それでもなお彼女は決してニワトリではなく、大空を高く飛ぶワシ(革命家)であったと評したが、これに倣って言えば、秋水もまた確かにワシであった。
これに対して、田添の「議会政策」論は、なるほど個々の論点においては、秋水の「直接行動」論の急進組合主義的な狭さや一面性を鋭く衝いたり、秋水が議会主義に反発する余り議会の利用を一切否定してしまったのに対して、議会を労働者階級に対する宣伝・扇動・組織化の一手段として革命的に利用するという観点を押し出すなど、現実的で正当な主張も少なくない。しかし、全体としてのそれはブルジョア議会主義を明確に否定するものではなく、むしろそれを温存し改良主義と日和見主義に道を開くものであった。
■■■「硬派」と「軟派」への分裂と激化する対立■■■
さて、党則の改正や「直接行動」派の勝利など日本社会党の左旋回に驚いた西園寺内閣は、大会での幸徳の演説要旨を掲載した2月19日付けの『平民新聞』を発売禁止にするとともに、22日には社会党に解散命令を下した。こうして日本で初めて合法的に存在を許された社会主義政党は一年ほどの短命に終わった。
そしてその後も『平民新聞』に対する弾圧は続き、3月には山口孤剣の「父母を蹴れ」、クロポトキンの「青年に訴う」(大杉栄訳)を掲載した各号が相次いで発売禁止とされ、前者の新聞紙法違反事件では4月13日、筆者の山口が禁固3カ月、編集発行人の石川が同6カ月、新聞は発行禁止の判決が下された。このため、日本で最初の日刊社会主義新聞は財政難も相まって翌14日、この世にあることわずか3カ月、第75号をもって廃刊に追い込まれたのであった。
しかし、6月に入ると、東京では片山、田添、西川が週刊『社会新聞』を、大阪では森近運平が半月刊の『大阪平民新聞』(後に『日本平民新聞』と改題)を創刊し、前者は「議会政策」派、後者は「直接行動」派を代表する機関紙の役割を果たすことになった。こうして05年の平民社解散に伴いキリスト教社会主義派とマルクス社会主義派に分裂した日本の社会主義運動は、今度はマルクス派内部が日和見主義的改良派と急進主義的革命派へと再分裂することとなったのである。
そして、この頃より両派は「軟派」、「硬派」とも呼ばれるようになったのだが、8月に開かれた社会主義夏期講習会が両派の協力した最後の事業であった。しかし、講習会は両派の激しい論戦の場と化し、分派闘争をますます激化させる契機となった。その後、両派は組織的にも分裂を遂げ、軟派が社会主義同志会を結成し、日曜研究会を開催し始めたのに対抗して、硬派は金曜会を結成し、社会主義金曜講演会を設けた。そして、11月27日付けの『社会新聞』には電車運賃値上げ反対闘争で堺、幸徳が電車会社から買収されていたかに誹謗する西川の文章が載るなど、両者の対立は感情むき出しの泥仕合の様相さえ呈してきた。一方、軟派の内部でも、片山の頑固一徹の性格とその余りの卑俗さ(例えば彼は労働組合の組織化を促すために無尽で反物を与えたらどうかなどと盛んに提案した)に反発する若い人たちの突き上げで、片山は社会主義同志会から除名されるという始末であった(08年2月)。
■■■赤旗事件、大逆事件と冬の時代■■■
さて、この年の天長節(11月3日の天皇誕生日)に天皇暗殺をほのめかすビラがサンフランシスコの日本領事館の正面玄関に貼られるという事件が起こり、政府に強い衝撃を与えた。元老山県はこれを西園寺内閣打倒に利用しようと策動した。こんな状況の中で、翌08年6月22日に起こったのが彼の有名な「赤事件」である。
この日、筆禍事件で一年余の刑を終えた山口孤剣の「出獄歓迎会」が硬軟両派合同で開かれた。会の終わり近くになって、大杉栄や荒畑寒村らの青年がいたずら半分で「無政府共産」などと書いた旗を三本振り回し、軟派の人々の周りを練り歩いた後、戸外に飛び出したところ、警察官ともみ合いになり、大杉、荒畑らはもちろん、止めに入った堺や山川らも逮捕された。
事件の内容自体はこのような他愛もないものであったが、山県派はこれを好機と倒閣工作に乗り出し、西園寺内閣は七月四日、事件の責めを負う形で総辞職に追い込まれた。世に言う「西園寺内閣の毒殺」である。代わって登場した山県直系の第二次桂内閣は社会主義運動に対する強硬な取り締まり方針を打ち出した。厳罰主義はさっそく実行に移された。8月14日、赤旗事件の被告に判決が言い渡されたが、大杉が重禁固2年半、堺と山川が同2年、荒畑が同1年半と前例をはるかに上回る重刑であった。彼らは千葉監獄に下獄した。
赤旗事件以降、官憲の弾圧は過酷を極め、幸徳らには四六時中、尾行が付けられ、彼らはその一挙手一投足まで監視下におかれた。翌09年5月、幸徳と菅野スガが発行した『自由思想』もたちまち発禁処分となり、まさに手も足も出せない状態に追い込まれてしまった。
こうして為す術もなく孤立感を深める中で、彼らはアナーキズムへの傾斜をいっそう強め、菅野をはじめ幸徳家に出入りする宮下太吉、新村忠雄、古河力作らの間では天皇暗殺計画が持ち上がった。幸徳自身はこのテロリズムに乗り気ではなく、4人は幸徳抜きで連絡を取り合っていた。この年11月、宮下は長野県明科の山中で爆破試験に成功したが、この爆弾製造の一件が翌1910(明治43)年5月に警察に探知された。
桂内閣は、宮下らを逮捕するとともに、これを幸徳らが陰で糸を引く天皇暗殺の大規模な陰謀に仕立て上げ、全国各地の主だった社会主義を一網打尽に検挙し、社会主義運動の息の根を止めようと謀った。これが世界にも類を見ない大規模なフレームアップ、大逆事件の真相であった。事件の公判は同年12月に非公開で進められ、翌年1月18日にはわずか1カ月のスピード審理で被告26名中24名に死刑の判決(翌日天皇の恩赦の形で12名が無期懲役に減刑)が下され、一週間後には早くも幸徳ら12名の死刑が強行された。
堺、山川、大杉、荒畑らは赤旗事件で入獄中であったことが幸いして危うく難を免れたが、処刑に前後して出獄した彼らを待っていたのは文字通り四面楚歌の閉塞状況であった。堺は10年暮れに「売文社」を設立し、山川らはその社員となり、代書業で糊口をしのぎながら、再起を期してこの社会主義の厳しい冬の時代を耐え忍ばなければならなかった。
他方、軟派の西川光二郎は同年「社会主義者の詫証文」と称される『心懐語』を発表して、運動から手を引いてしまった。そして、社会主義同志会から除名された片山は田添とともに『社会新聞』の発行を続けたが、田添が08年に極貧のなか32歳の若さで世を去った後は、普選が実現すれば天皇制と帝国憲法のもとでも議会に多数占めることによって社会主義を実行することは「容易」だと述べるなど、ますますひどい無原則主義に陥っていった。その片山も必死で持ちこたえてきた『社会新聞』が11年8月に廃刊に追い込まれ、力を注いできた労働組合運動も同年暮れの東京市電争議などで一時的に高揚を見せたものの行き詰まるなか、ついに貧窮と孤立に耐えかねて1914(大正3)年、四度目の渡米に旅立ち、その後再び日本の土を踏むことはなかった。
6.労働運動の興隆とアナ・ボル論争
……ロシア革命の衝撃のもとで……
■■■友愛会と労働組合運動の興隆■■■
「大逆事件以後、吹きすさぶ真っ黒な反動の嵐の中に運動はまったく火が消えたようで、真に同盟半ばは散じ、半ばは枯骨の感なきを得なかった。この空白の時代は第一次大戦の末期までつづき、その間における政府の圧迫はほとんど正気の沙汰とも思えなかった」
荒畑寒村が『自伝』にこう記した社会主義の「冬の時代」が続く中にも、1912年7月の明治から大正への改元を前後して、その凍てついた地表に変化の兆しが見え始めた。
1910(明治43)年に有島武郎らが「白樺派」を旗揚げしたのに続き、翌11年には平塚雷鳥らが「青鞜社」を結成するなど新たな文芸思潮が起こってくるとともに、政治の部面でも13年に第三次桂藩閥内閣の登場に反発して憲政擁護国民運動(第一次護憲運動)が展開されるなどブルジョア自由主義的な気運が高まってきた。
そして、労働組合運動でも新たなページがめくられた。キリスト教人道主義者・鈴木文治による友愛会の創立である。1912(大正元)年8月、15名で発足した友愛会は「親睦・相互扶助」、「識見開発・徳性涵養・技術進歩」、「地位改善」を目的に掲げ、「資本家は夫、労働者は妻」と唱える純然たる協調主義的団体で、後援者には財界の重鎮・渋沢栄一らが名を連ねていた。しかし、会員は着実に増加し、一周年を迎える頃には2000名近くに達した。
そして、14(大正3)年の第一次大戦の勃発とそれを契機とする日本資本主義の飛躍的な成長は、友愛会と労働組合運動の急速な発展に拍車をかけるものとなった。
欧州で始まった大戦は、ブルジョアどもが「大正の天佑」(天佑――天の助け)と呼んだように、直接戦火にさらされることのない日本資本主義に空前の好景気をもたらした。ヨーロッパ諸国の生産・輸出能力の減退・喪失を衝いて、日本の商品輸出は急増し、大戦前年の13(大正2)年に6億円だったものが、16年には11億円に倍増、19年には20億円を突破した。これに支えられて企業数も約1万5000(13年)から2万6000(19年)へと増加、払込資本も約20億円から60億円へと三倍に膨らんだ。そして、この急激な資本蓄積にともなって、労働者数も85万人から182万人へと急増した。
しかし、この資本の繁栄の陰で、労働者は労働強化や労働時間の延長を強いられ、その生活は物価高騰に苦しめられた。この間の物価上昇率は著しく、12(大正元)年の物価指数を100とすると、19年には238と二倍以上に跳ね上がった。
このため、物価上昇の後追いをする形での賃上げ闘争や、労働時間の短縮を要求する闘いを中心に争議は増加の一途をたどり、13年に47件だったものが、16年には100件を突破、17〜18年には一挙に四倍増の400件前後を記録、19年には497件に上った。参加人員も13年の約2200人に対して19年には6万3000人と30倍近くに達した。
これらの労働争議の多くに指導・助言・調停の役割を果たした友愛会は年々組織を拡大し、18年の創立6周年大会では全国に120支部、3万人の会員を数えるに至り、翌年の7周年までにはさらに38支部、1万5000人が加わった。他方、インテリが率いる個人加盟の友愛会とは別に、大阪では西尾末広(戦後、民社党委員長)ら職工自らが組織した鉄工組合が生まれたり、東京では大杉栄らのアナルコ・サンジカリズムの影響のもとに印刷工の組合(信友会、正進会)が生まれたりして、新たな労働組合の結成も相次いだ。
一方、大戦の“火事場泥棒”的な大儲けで経済力を固めたうえ、ドイツのアジア・太平洋上の植民地と権益をかすめ取り、対支二一箇条の要求に象徴される中国への支配強化に乗り出し、戦勝国側の一員として世界の帝国主義国家の仲間入りを果たした日本ブルジョアジーは、国内政治でも自らの一層公然たる支配権を要求するに至った。
こうしたブルジョアジーの志向を表現したものが、1916(大正5)年の『中央公論』1月号の論文で一躍時代の寵児となった吉野作造の「民本主義」であった。吉野の「民本主義」は民主主義を天皇制と調和するように切り縮め、藩閥勢力と妥協を図りつつ、自らの支配権を拡張しようという日本ブルジョアジーの臆病な要求を理論化したものに他ならなかった。「政党内閣」と「普通選挙」の実現が彼らの目標であった。
■■■息を吹き返した社会主義運動■■■
さて、こうした労働組合の新たな興隆と、「民本主義」に代表されるブルジョア自由主義的な政治運動とを二つの柱とする「大正デモクラシー」の時代的な風潮の中で、社会主義者の活動も徐々に息を吹き返して来た。
若手を代表する大杉栄と荒畑寒村は早くも1912(大正元)年9月に『近代思想』を創刊したが、これは政治・社会問題を直接扱うことは弾圧を招くだけなので、当面は文芸思想を論じる小冊子の発行で、全国に離散し、沈黙を強いられている同志を励まし、連絡を取ろうというものであった。
翌13年2月には「サンジカリズム研究会」を発足させ、毎月2回の講演会を開くなどして、「実際運動へのあこがれ」を強めつつあった彼らは、14年9月に『近代思想』が丸二年を迎えたのを期に、この「進歩的インテリゲンチア相手の安易な、自慰的生活」(『寒村自伝』)に見切りを付け、第23号をもって同誌を廃刊、翌月から月刊の労働運動紙『平民新聞』を発行し始めた。しかし、同紙は毎号発売禁止で、翌14年3月の第6号で刊行を断念せざるを得なかった。同年10月には『近代思想』を復刊したが、これも連続発禁で四号で廃刊に追い込まれてしまった。
こうした中で、大杉は「生の拡充」、「生の創造」などを強調する個人主義的なアナーキズムへの傾斜を一層深めていき、サンジカリズムからマルクス主義への方向をたどりつつあった荒畑とも次第に離反していった。伊藤野枝、神近市子との恋愛関係のもつれから起こった例の「日陰茶屋」事件は16年11月のことであった。
一方、売文社で雌伏してきた堺利彦は15年9月、マルクス主義月刊誌『新社会』を創刊、「鬨(とき)を作って勇ましく奮い立つという程の旗上ではもちろんないが、とにかくこれでも禿(ち)びた万年筆の先に掲げた、小さな紙旗の旗上には相違ありません」と『小さき旗揚げ』を宣言した。
『新社会』は32頁立ての小冊子で、主な執筆者は堺の他に山川均、荒畑寒村、そして日本で初めて『資本論』を完訳した高畠素之らであった(もっとも、高畠は一年ほどして「皇室中心社会主義」なるものを唱えて、国家社会主義の陣営に去ってしまった)。
また、17(大正2)年4月の総選挙には堺を候補者に立てて闘ったが、政談演説会も開けず、ビラもまけない徹底した弾圧にさらされ、得票はわずかに25票にとどまった。 こうした中で、全世界の労働者と社会主義者を奮い立たせる出来事が起こった。17年2月に始まったロシア革命の勝利である。
山川はこの時の興奮を「ロシア革命の報道が来たときの感激の仕方は大変だった。道を歩いている労働者が相擁して泣いた。私自身もじっさい泣きました」(『山川均自伝』)と後に語っている。
この年の5月に社会主義者の有志30人ほどが集まって開かれたメーデー集会ではロシア社会民主党にあてた次の決議が採択された。
「露国社会党、欧州交戦国社会党が直ちに戦争を終局および更に歩を進めて社会主義革命を徹底せんことを望み、敵国における自己階級に向けつつある闘争が、共同の敵たる自国の資本家階級に対して向けられんことを望む」
また、十月革命の直後には今度はレーニンあての支持決議を「在京社会主義者代表団」の名で送っている。
ロシアに労働者・農民の政府が誕生したという衝撃波が冷めやらぬ翌18年夏、今度は全国各地で米騒動が勃発、この物情騒然たる中で、堺、山川・荒畑らは『青服』、『社会主義研究』を相次いで創刊、ロシア革命の経験とこの時期に初めて知ったレーニン主義を吸収しつつ、新たな理論的な展開を試み、労働者への働きかけを強めていった。
これらの明治期以来の社会主義者に加えて、東大の新人会、早稲田の建設者同盟など、学生や知識人を中心とした若い世代の社会主義グループも相次いで誕生し、彼らは労働組合運動に飛び込むなどして献身的に活動を展開していった。山川菊栄らによって社会主義的な婦人組織「赤瀾会」が組織されたのもこの頃のことである。
また、小作人争議や部落解放運動もがぜん活発化し、22年にはその中央団体として日本農民組合、全国水平社が結成された。
こうした中、1920(大正9)年には、各派の社会主義団体や労働団体を一つにまとめようという動きが起こり、同年12月に日本社会主義同盟が成立した。しかし、これはマルクス主義系とアナーキズム系とに大きく分化しつつあった諸潮流、諸団体の単なる寄せ集めに過ぎず、ほとんど何もなすことなく、翌年5月の第二回大会の開催をとらえて下された政府の結社禁止命令で幕を閉じてしまった。
そして、このいわゆるアナ・ボル論争はその後ますます激化し、それは直接に労働組合運動の中に持ち込まれていった。
■■■労働組合を舞台にアナ・ボル決戦■■■
さて、大戦の終了とともに日本資本主義は20(大正8)年以降、深刻な反動恐慌に見舞われた。失業者が激増し、守勢に立たされる中で、労働組合運動はますます激化していった。浅原健三の『溶鉱炉の火は消えたり』で有名な八幡製鉄所2万数千人のスト(20年2月)、賀川豊彦を指導者とする神戸の三菱造船・川崎造船3万8千人の1カ月を越すスト(21年7月)はこの時期を代表する歴史的な大争議である。
こうした中、穏健が売り物だった友愛会も急進化の道をたどっていった。それを象徴するのが名称の変更で、19年に開かれた7周年大会では大日本労働総同盟友愛会に改称、翌年には「大」の字を取り、更にその翌年には「友愛会」を削って、日本労働総同盟となり、機関紙名も『労働』とするなど労働組合としての性格を純化させていった。
20年5月には日本で最初のメーデーが上野公園で15団体5千名を集めて開催され、治安警察法の撤廃、失業防止、最低賃金制、シベリア即時撤兵などが決議された。不当逮捕に対する警察署への抗議行動に名を借りた集会後のデモは大荒れとなり、多数の検挙者を出した。
このメーデーをきっかけに労働戦線統一の計画が持ち上がり、5月15日には友愛会を中心に15団体が労働組合同盟会を結成した。しかし、大杉らの影響下の信友会、正進会などのアナーキスト系と、マルクス主義系の若い活動家が多く入り込んでいた友愛会との間では、普選運動や争議の収拾の仕方などをめぐってことごとく対立、戦線統一は全くの有名無実に終わった。
その後22年になって、再び戦線統一の話が持ち上がり、同年9月30日に統一組織・日本労働組合総連合の結成大会を開く運びとなった。しかし、建前はともかく本音では、両派に真剣に労働組合運動の統一を図ろうという意志は希薄で、むしろアナ・ボル両派が自派の制覇を狙って、その決戦の場をここに求めたに過ぎなかった。
これに先立つ7月15日には堺、山川、近藤栄三、吉川守國、橋浦時雄、浦田武雄、渡辺満三、高瀬清の8名が集まって、コミンテルンの働きかけのもとに日本共産党の創立大会を開いた。彼らボルシェヴィキ派は労働総同盟支持であった。
かくして日本労働組合総連合の結成大会は堺、山川、荒畑などのボル派や大杉らのアナ派の面々をはじめ各派の社会主義団体、労働団体の幹部が勢揃いして見守る中、60団体を代表する代議員106名が集まって、大阪中之島公会堂で開かれた。代議員には各三名の付き添いが許されていたうえ、これに両派の傍聴動員が加わって場内はごった返し、議事は最初から激しい怒号と野次の中で始まった。大会は総連合の組織原則をめぐり自由連合主義を唱えるアナ派と中央集権主義を唱えるボル派の対立でデッドロックに乗り上げ、決裂に終わった。
そして、翌日同じ会場で開かれた総同盟の大会は、アナ派が総同盟に歩み寄らない限り統一はありえないという決議をして戦線統一に門戸を閉ざしてしまった。
しかし、この結成大会を機にアナ派は急速に凋落し、影響力を失ってしまった。そして、今度はそれまで隠されていた違った対立が総同盟内に発生し、総同盟の分裂へと発展していくのである。
7.「方向転換から「共同戦線党」へ
……無産政党運動と山川均……
■■■山川の「方向転換」論の意味するもの■■■
ロシア革命の衝撃と労働・農民運動の高揚を背景に、コミンテルンの働きかけの下に、1922年7月15日、日本共産党が誕生した。しかし、この党はほとんど理論的、組織的な準備もないままに「粗製濫造」(『寒村自伝』)的に結成されたもので、数十人の共産主義的分子の非合法グループ以上のものではなかった。そして翌23年6月には主要メンバー29名が検挙され、壊滅状態に陥ってしまった。
この共産党の結成と同じ七月、当時の左翼陣営の理論的指導者とみなされていた山川均は『前衛』誌上に一つの論文を発表した。「無産階級運動の方向転換」と題するこの論文はその後の左翼運動と労働組合運動に重大な影響を及ぼすことになった。
論文はまず「過去二十年間における日本の社会主義運動は、まず自分を無産階級の大衆と引き離して、自分自身をはっきりさせた時代であった」が、これは「独立した無産階級的の思想と見解とを築くためには、必要な道程であった」、そして日本の社会主義運動はまず自らを「思想的に徹底し純化する」というその「第一歩」を「りっぱに踏みしめた」、そこで今度は「次の第二歩を踏み出さねばならない」として、こう呼び掛ける。
「無産階級の前衛たる少数者は、資本主義の精神的支配から独立するためにまず思想的に徹底し純化した。それがためには前衛たる少数者は、本隊たる大衆を遙か後ろに残して進出した。……そこで無産階級運動の第二歩は、これらの前衛たる少数者が、徹底し純化した思想を携えて、遙か後方に残されている大衆の中に、再び引き返して来ることでなければならぬ。……『大衆のなかへ!』は、日本の無産階級運動の新しい標語でなければならぬ」
それではこの「大衆の中へ!」の「方向転換」は具体的にはどのようなものか。
「無産階級の大衆が、現に何を要求しているかを的確に見なければならぬ。そして我々の運動は、この大衆の当面の要求に立脚しなければならぬ」、「我々は勢い無産階級の大衆の当面の利害を代表する運動、当面の生活を改善する運動、部分的の勝利を目的とする運動を、今日より重視しなければならぬ。言い換えれば、我々の運動は実際化されねばならぬ」
これが山川の提起する「無産階級運動の方向転換」の具体的な内容である。
日本の社会主義運動は平民社時代の末期に議会政策派と直接行動派に分裂して以降、直接行動派の流れを汲む観念的で急進的なサンジカリズム的な傾向を根強く残していた。こうした状況が早急に止揚されなければならない時期を迎えていたことは明らかで、その限りでは山川の問題意識は正当であった。しかし、山川が指し示した「転換」は日本の社会主義運動の現状を脱却し、正しい「方向」に導くものであったであろうか。
日本の社会主義運動の歴史と現状を踏まえて、この時、提起されるべきは、これまでのサンジカリズム的な傾向を徹底的に克服し、真にマルクス主義的な立場に立ったプロレタリア政党(当時の状況にあっては合法・非合法の組織と活動を結合した)の結成をめざして、すべての革命的な分子を糾合し、そのための理論的、組織的な準備を開始することであったろう。
ところが、山川の提起した方向はそうではなく、当時の社会主義運動や労働運動の直面していた欠陥を単に「前衛たる少数者」が「大衆」と遊離していることにのみ還元し、「前衛たる少数者」(山川は彼らを「思想的には徹底し純化していた」かに言うが、決してマルクス主義的に「徹底し純化していた」わけではなかったのだ)と「大衆」との結合を図るとの美名の下に、革命的な分子を個々バラバラに、あるいはせいぜい活動家グループとして、「大衆の当面の利害を代表する運動」すなわち労働組合運動や改良主義的な政治運動の中に追いやり、埋没させて、この貴重な勢力をそこに分散、解消してしまうというものでしかなかった。
「前衛たる少数」と「大衆」との結合――社会主義運動の発展と勝利にとって、これが不可欠なことは言うまでもない。しかし、この「前衛たる少数者」がマルクス主義的な綱領や規約に基づく革命政党に組織されていてこそ、「大衆」との結合が本当の意義をもつのであって、革命的分子が個々バラバラに存在する「前衛たる少数者」では余り意味がないのである。ところが、山川は社会主義運動におけるプロレタリア革命党の役割や意義を少しも理解していない。いたずらに「大衆」や「大衆運動」との結合を唱える前に、それとは相対的に独立した形で意識的に革命政党を建設していくという独自の課題のあることを彼は知らないのだ。
山川の主張は日常的な組合運動や改良闘争を通じて社会主義的な革命運動を発展させるという自然発生性に跪く経済主義の一種に他ならない。この「方向転換」論の延長上に「共同戦線党」論も出てくるのだが、第一次共産党が弾圧で解体させられた後、「根こそぎ解党」を唱えて解党主義に走り、党の再建に腐心する荒畑寒村の協力要請をにべもなく拒否したのもまたその必然的な帰結であった。
■■■普選の実施と無産政党の誕生■■■
さて、1924年1月に清浦「超然」内閣が成立すると、憲政会・政友会・革新クラブの三政党はこれに反発、「政党内閣」を掲げて第二次護憲運動を展開した。この結果、五月に総選挙が行われ、三派が285議席を占める勝利を収め、憲政会の加藤高明を首班とする護憲三派内閣が成立した。加藤内閣は普通選挙の実施を打ち出し、同法案は翌25年2月に治安維持法と抱き合わせで成立した。
こうした情勢の中で、労働組合や農民組合など間には普選実施に対応するために独自の政党(無産政党)の設立をめざす動きが活発化してきた。そして、25年12月には労働総同盟や日本農民組合を中心に農民労働党が結成された。しかし、この最初の無産政党は即日結社禁止となり三時間ほどの命だった。
しかし、ただちに新たな取り組みが開始され、今度は日本労働組合評議会、水平社青年同盟など共産党系の団体を除く形で、26年3月に労働農民党が結成され、委員長には日農の杉山元治郎が就任した。綱領はブルジョア的な改良をめざした次の三箇条であった(その後できたいくつかの無産政党の綱領もその性格と内容は基本的に同じものである)。
一、われらは、わが国の国情に即し、無産階級の政治的、経済的、社会的解放の実現をめざす。
一、われらは、合法的手段により、不公正なる土地、生産、分配に関する制度の改革を期す。
一、われらは、特権階級のみの利害を代表する既成政党を打破し、議会の徹底的改造を期す。
さて、労農党は共産党系を排除して結成されたと書いたが、実はこれに先立って労働総同盟内では渡辺政之助らをはじめとする左翼急進派と西尾末広らの右派幹部との間の対立が激化、25年5月には総同盟は勢力をほぼ二分する大分裂(第一次分裂)を遂げ、左派32組合は日本労働組合評議会を結成した。
この日本労働組合評議会を中心とする共産党系団体は全国各地で労農党の地方支部への加入を追求し、労農党内での勢力と影響力を拡大していった。そしてこれに反発する総同盟は26年10月に労農党を脱退、この結果、労農党は事実上、共産党系の支配するところとなり、杉山に代わって大山郁夫が委員長の座に着いた。
共産党系はこのように合法無産政党=労農党への介入を強めつつ、他方では党再建をめざしていた。そして、当時、この党再建運動のイデオロギーとして猖獗を極めたのが彼の悪名高い福本イズムであった。レーニンの『何をなすべきか』の党建設論を戯画化した福本の「分離・結合」論は政治運動はもちろんのこと労働組合運動や文化運動の中にまで露骨な分裂主義、セクト主義を持ち込み、大衆団体を次々と分裂させていった。
一方、労農党を脱退した総同盟は海員組合などと共にこの年の12月、反共を明確にした社会民衆党(社民党)を結成した。しかし、これに反発する麻生久ら総同盟内の中間派は総同盟を割って出て(第二次分裂)、三宅正一、浅沼稲次郎ら日本農民組合の中間派とともに同月、日本労農党(日労党)を結成した。また、これより前、日農からは平野力三らの右派が脱退して別の農民組合を作るとともに、農民だけからなる政党・日本農民党(日農党)を発足させた。
こうして「全国単一の政党」の掛け声とは裏腹に、わずか半年余りで左派の労農党、中間派の日労党、右派の社民党、最右派の日農党と、無産政党は四分五烈の状態となった。その後も無産政党は目まぐるしく合同・分裂劇を繰り返していくことになる。
1928(昭和3)年2月、第一回普選が行われ、無産各党は候補者を立てた。選挙の結果、無産党の当選者は社民党4人(安部磯雄、西尾末広、鈴木文治、亀井貫一郎)、労農党2人(山本宣治、水谷長三郎)、日労党1人(河上丈太郎)、九州民権党1人(浅原健三)の計8人で、得票数は50万票弱、得票率は5%に達した。
共産党は26年12月、山形県五色温泉で再建大会を開いた。翌27年、福本イズムはコミンテルンの批判を浴びて鎮静化した。同時に再建共産党の綱領となる「二七テーゼ」がコミンテルンから示された。共産党は第一回普選に労農党から候補を立てて闘ったが、その直後の3月15日、検挙1600人余、起訴900人に上る大弾圧を受けた。また、翌月には労農党、日本労働組合評議会、無産青年同盟の三団体が解散を命じられた。
■■■労農派の形成と「共同戦線党」論■■■
こうした中で、山川らは27年11月に雑誌「労農」を創刊、共産党に対抗する社会主義者の団体いわゆる労農グループが形成された。
山川は「労農」創刊号に論文『政治的統一戦線へ!――無産政党合同論の根拠』を発表した。これは労農グループの綱領的な立場を明らかにしたものであった。
論文はまず「わが国には、ブルジョアジーの政権が完全に確立せられている」、「我々の政治闘争の対象は、帝国主義ブルジョアジーである」と強調、当面する革命の性格を社会主義革命と規定して、天皇制絶対主義を打倒するブルジョア民主主義革命とする共産党系の戦略規定を退ける。
それでは当然、直接に社会主義の実現をめざす革命的な闘いが課題になるのかと思えば、そうではない。その前に「プロレタリアートとその他の一切の被抑圧民」によるブルジョア民主主義闘争の展開によって社会主義革命に向けての「根本的条件」を準備していくことが直接の課題であるとされるのだ。
かくして、それを戦略的な課題と位置づけるか、戦術的な課題として位置づけるかの違いはあるが、労農派の提起する闘いも共産党の提起するものと何ら変わりはないもの(ブルジョア民主主義の実現)になるのである。
そして、労働者、農民、都市の小ブルジョア下層など一切の要素を「反ブルジョア政治勢力」に結合する「共同戦線の特殊な一形態」としての「共同戦線党」のために闘うことが「プロレタリア前衛の具体的な任務」とされるのである。
「プロレタリア前衛」といっても、ここでもまた、それは「前衛党」のことではなく単なる前衛分子・グループといったものでしかなく、「共同戦線党」と「前衛党」との関係がどうなるのか、民主主義闘争から社会主義闘争へ発展していった場合に「前衛党」は必要なのかどうか、またそれはどのように形成されるのかといった問題は全く明らかにされない。それともプロレタリア党なしでも社会主義革命の勝利がありうるとでもいうのであろうか。
ともあれ、山川の主張は、合法無産政党にこのような独特の「革命的」な位置づけを施し、それを「全国単一」の「共同戦線党」として勝ち取るということでしかなく、彼らのやってきたことは労働組合や農民組合を基盤としたブルジョア改良主義的な無産政党運動をなにか革命的な意義があるかにマルクス主義用語で粉飾して、その合同・分裂に一喜一憂しつつ追随することでしかなかった。
だが、彼らが「共同戦線党」への発展を期待した労農党(1926年)、日本大衆党(28年)、全国大衆党(30年)、全国労農大衆党(31年)などは次々と結成されたかと思うと、たちまち分裂して消え去って、一つとして実を結ぶことはなかった。
とりわけ、満州事変が勃発した1931年、全国大衆党を軸に新労農党、社会民衆党の一部が合同して結成された全国労農大衆党に彼らは強い期待を寄せた。しかし、満州出兵に際し、この党選出の国会議員の一人は「満蒙の権益は擁護すべし」と言い出す始末であった。にもかかわらず、労農派は「党内にとどまり、党本部で党の運動方針決定に影響を与えることにより、マルクス主義的な統一戦線指導をこの大衆党に加えよう」と悪戦苦闘を続けていたのであった。
そして、全国労農大衆党は翌32年、西尾末広の率いる右派の社会民衆党と合同して社会大衆党となった。この社大党がその後ますます右傾化して軍部・独占資本の帝国主義のお先棒をかつぎ、労働者大衆を戦争協力へと駆り立てていったことは周知の通りである。
こうした事実を見れば、革命的プロレタリア党の意義を否定し、「共同戦線党」といった合法主義的、日和見主義的な戦術をもてあそんできた労農派の破産は明確である。だが、こんな労農派にさえ軍部ファシズムの弾圧は容赦なく襲いかかり、1937年の検挙(「人民戦線事件」)後、彼らはもはや手も足も出ない状態に追いやられてしまった。
8.「革命的伝統」の虚像と実際
……戦前の共産党の闘い……
■■■「絶対主義天皇制」打倒の綱領的立場■■■
日本共産党は戦前・戦後を通じて社会の進歩と発展の方向に沿って基本的に正しく闘ってきたと自慢している。また、今の共産党はふやけてしまったと批判する人でも、少なくとも戦前は過酷な弾圧にめげず戦闘的・革命的に闘ってきたと評価する人は少なくない。だが、はたしてこれは真実であろうか。
我々は戦前の日本共産党の闘いの基礎となった綱領的立場から検討してみよう。
戦前の日本共産党には四つの綱領的文書があった。このうち22年テーゼ、27年テーゼ、32年テーゼの三つは当面する革命の性格を「ブルジョア民主主義革命」とするもので、これが戦前の綱領的立場の基調をなしているが、それにはさまって「社会主義革命」を提起した三一年綱領草案が存在した。
明治維新後の資本主義の急速な発展にもかかわらず、なお日本は「半封建」体制にあるとして、まずブルジョア民主主義革命、次いで社会主義革命への移行というスターリン主義の二段階革命論を適用したこの綱領的立場は三二年テーゼにおいて「完成」をみたが、このテーゼは「わが国の革命運動のすすむべき道をしめす画期的な指針」(1994年、日本共産党中央委員会刊『日本共産党の七〇年』)と今なお共産党の諸君によって賛美されているものである。
三二年テーゼは、日本の支配体制を「絶対主義天皇制」、「地主的土地所有」、「独占資本主義」の「三つの要素」の結合と規定したうえで、しかし、その第一の「要素」は天皇制にあるとして次のように言う。
「日本の天皇制は、一方では地主という寄生的・封建的階級に主として依拠し、他方ではまた急速に富みつつある強欲なブルジョアジーにも依拠して、これらの階級の頭部ときわめて緊密な永続的ブロックを結び、なかなかうまく柔軟性をもって両階級の利益を代表しながら、同時にまた、その独自の、相対的に大きな役割と、わずかにエセ立憲的形態でかるくおおわれているにすぎないその絶対的性質とを保持している」
そしてここからテーゼは「天皇制は、国内の政治反動と封建制のいっさいの残存物との主柱である。天皇制国家機構は、搾取階級の現存の独裁の強固なバックボ−ンをなしている。これを粉砕することこそ、日本における主要な革命的任務の第一のものとみなされねばならない」とし、日本の当面する革命の性質を「社会主義革命への強行的転化の傾向をもつブルジョア民主主義革命」と結論するのである。
明治維新から50年余、当時すでに日本資本主義は独占資本主義、帝国主義の段階にまで発展し、天皇制の専制政治は独占ブルジョアジー(とブルジョア化した地主)の階級支配の道具に転化していた。したがって、仮に半封建的な遺物を一掃する民主主義的な課題があったにせよ、それはブルジョアジーの支配に反対し社会主義をめざす闘いの一部として、それに従属させて提起すべきであって、まずそれを達成するためのブルジョア民主主義革命から開始して社会主義革命に進むといったものではなかった。
ところがテーゼは、一方で天皇制をブルジョアジーと地主の「両階級の利益を代表」しているとか、「搾取階級の現存の独裁の強固なバックボーン」とか、あたかもそれを両階級の支配の道具であるかに言いながらも、他方ではそれを「その独自の、相対的に大きな役割」とかの訳の分からない空文句で神秘化し、いつの間にか労働者階級の当面する闘いの課題をこの「絶対主義天皇制」を打倒する「ブルジョア民主主義革命」へとすり替えてしまうのである。
こんなものは社会経済体制や階級関係の科学的な分析に基づく戦略規定でも何でもなく、スターリンの二段階革命論のドグマに基づく理論的手品以外の何ものでもなかった。こうして、戦前の共産党の綱領的立場は労働者階級の社会主義をめざす闘いを棚上げし、彼らを真実の課題からそらせてしまうものでしかなかった。戦前の共産党が表面的にはいかに急進的・戦闘的に天皇制の打倒を呼号してやまなかったにせよ(そしてこれこそ戦前の共産党は革命的だったという神話を生み出した秘密なのだが)、こうした観点からの天皇制打倒の闘いはプロレタリアートの革命的な社会主義運動とは本質的に異なった小ブルジョア民主主義派の闘いでしかなかった。
そして、野呂栄太郎、山田盛太郎らの講座派の面々による「資本主義分析」はこれらのテーゼを前提に、それを擁護し、正当化するためのものにすぎなかった。彼らは日本資本主義は通常の資本主義とは異なり、半封建体制に基礎を置き、それによって支えられた独特なものであるとして、不況や失業の発生、労働者・農民の貧困、帝国主義的な侵略政策等々の一切の原因をこの特殊性から説明したが、こうした説明はこれらの本当の根源である資本主義や帝国主義そのものの本性や矛盾から労働者の目をそらせ、労働者の反資本主義の意識をくもらせ、混乱させるものでしかなかった。
これに先立って来るべき革命を「ブルジョア民主主義的任務を広範に包容するプロレタリア革命」と規定した三一年綱領草案(サファロフらトロツキー派の起草した)が風間丈吉によってモスクワから持ち帰られた。これは戦前で唯一正しい革命戦略に接近したものであったが、コミンテルンのスターリニストからの「トロツキズム的」との批判であえなく葬り去られてしまった。
一方、労農派は共産党=講座派に反対して「社会主義革命」を戦略課題として提起していた。しかし、前回の山川の「共同戦線党論」で見たように、「社会主義革命」を提起したとはいっても、彼らもまた天皇制の軍事的警察的専制をブルジョアジーの階級支配の道具として暴露し、プロレタリア革命闘争の一環としてそれとの断固たる闘いを呼び掛けるものでなかった。彼らは「社会主義革命」の前に、それに移行するための「根本的な条件」を作り出すとかの口実の下に無産政党による民主主義闘争の一段階を置き、実質的には共産党の二段階革命論と同じものであった。彼らは三一年綱領草案に対して労農派の革命戦略の勝利とうぬぼれたが、この時には共産党側が労農派こそ二段階革命論ではないかと批判を浴びせ、労農派の痛いところをついた。彼らの抽象的な「社会主義革命」論は天皇制との闘いを回避するための臆病な日和見主義を隠すものでしかなかった。
■■■労働組合運動と左翼冒険主義■■■
こうした根本的に間違った綱領的立場に立脚した戦前の共産党が労働者人民の闘いを原則的に正しく導いていくことなどできるわけもなかった。そのうえ悪いことには、この党は福本イズムに始まって赤色労働組合主義や社会ファシズム論にいたる分裂主義・セクト主義の病弊に染まり、ついにそれを克服することができなかった。このため共産党の運動は労働者階級の闘いに多くの混乱と動揺を持ち込むものとなった。
共産党の結成は1922年であるが、第一次共産党は実質的な活動をほとんどなにもなさないままに一年足らずで解体してしまった。その後、1926年末の再建に至る過程では福本イズムによる分裂主義、セクト主義が猛威をふるい、労働組合をはじめとする大衆運動の分野にまで分裂策動が繰り広げられた。
そして、この福本イズムを退けて二七年テーゼを基に再建された共産党が大衆の中に公然と姿を現したのは28年の第一回普通選挙に際してであった。したがって共産党の戦前の闘いといっても実際にはこの前後から組織が壊滅状態に追いやられるまでの七、八年間のことにすぎない。
しかしこの時期は歴史の大きな転換点にあたっていた。すなわち、27年の金融恐慌に続いて29年には世界大恐慌の波が押し寄せ、日本資本主義は深刻な不況に見舞われた。ブルジョアジーは労働者階級への攻撃を強めるとともに、中国大陸への帝国主義的侵略に危機の活路を見出そうとしていた。
再建共産党は当初、無産政党運動に積極的に参加し、そこを合法的な活動舞台として影響力の拡大を図るという方針の下に活動していた。彼らは労農党に浸透し、第一回普選には労農党の看板で共産党の候補者を立てた。しかし、選挙後の28年の3月15日、政府は検挙者1600人に及ぶ大弾圧をかけ、4月10日には共産党支配下の労農党、日本労働組合評議会などに解散を命じた。また翌29年4月16日にも再び大規模な弾圧をかけ、共産党はこれによって主だった幹部を奪われてしまった。
こうした状況の中で、共産党は一転して無産政党運動から手を引き、合法政党の組織化のいっさいの試みを「解党主義」として退けるとともに、28年12月には非合法の全国労働組合協議会(全協)を結成した。これはプロフィンテルンの赤色労働組合主義を実践に移したもので、「日本共産党の指導の下に闘争することによって、ただちに階級的左翼労働組合の本質を獲得しなければならぬ」という方針に明らかなように、労働組合を共産党のセクト的な支配下に囲い込もおうというものに他ならなかった。
折から大恐慌の渦中とあって倒産・工場閉鎖・操短などが相次ぎ、大規模な人員整理や賃金切り下げが強行され、失業者が激増していた。そして、鐘紡や東洋モスリンの女性労働者のストライキや東京市電の争議に代表される激しい闘いが続発した。31年の争議件数は2456件、参加人員は15万4000人に上り、この年、労働者の組織率も戦前でピークの7.9%(組合員数36万9000人)に達した。
この重要な時期に田中清玄や三田村四郎らを指導部とする共産党=全協の打ち出した方針は極左冒険主義の全くでたらめなものであった。例えば彼らは東京市電争議に際しては「武装自衛団を組織してスキャップ(スト破り)どもに徹底的に赤色テロを加えると同時に、電力の輸送路を破壊し、電車、自動車の運転機械をぶちこわせ」と訴え、鐘紡争議では行動隊員に錐と唐辛子を渡し「奴ら(警官)が来たら、唐辛子で目つぶしを食わせ、錐でどてっ腹に穴をあけろ」と指示する有様であった(大河内一男『日本労働組合物語』)。
彼らは闘いに立ち上がった労働者や労働組合に正しい闘いの方針を指し示し、粘り強い活動で労働者を社会主義の側に獲得するどころか、むしろこうした子どもじみた極左冒険主義をもてあそぶことに明け暮れて、総同盟などのダラ幹どもが労働者を自己の支配下にとどめるのを助けただけであった。
■■■軍部ファシズムの台頭と闘い得ず■■■
一方、これと時期を同じくして31年の満州事変を突破口に日本帝国主義の中国侵略が始まり、また32年には五・一五事件が引き起こされ軍部ファシズムの台頭も顕著になってきた。しかし、共産党は「侵略反対」を叫んだものの、ここでも労働者人民の闘いに正しい展望を指し示し、断固たる大衆闘争を組織することができなかった。
ちょうどこの頃に出された三二年テーゼは、日本でファシズムの危険を叫ぶのは「迫り来るファシズムの幽霊を使って……大衆をば現在の諸条件における主要敵――ブルジョア地主的天皇制――に対する闘争からそらす」ものだといった批判を浴びせる始末であった。
日本には西欧の資本主義国に見られるようなファシズムの危険性はない、労働者階級が打倒すべきは絶対主義天皇制であるというこうした主張は、軍部ファシストの野望とその背後で彼らを操る帝国主義ブルジョアジーの策動を覆い隠し、ファシズムに反対する労働者の闘いを武装解除するに等しいものであった。
しかも共産党はコミンテルンが二九年に打ち出した「社会ファシズム」論に基づいて、社会民主主義を「ファシズムの特殊な形態」であり、とりわけ危険なのはその左翼であるとして、彼らとの闘いに熱中していた。
これでは資本の労働者攻撃に反対する闘いと、軍部や独占資本の帝国主義的侵略やファショ的策動に反対する闘いとを結びつけて、労働者階級の断固たる反撃を組織していくことなどできるわけもないであろう。
そして、32年秋に検挙者1500人に上る弾圧を加えられたうえ、33年には最高幹部だった鍋山貞親、佐野学が「天皇制の下での一国社会主義」を唱えて、獄中から転向声明を発したのを皮切りに、三田村四郎、田中清玄らが続々とその後を追うという状況で、これは党に強烈な打撃を与えるものとなった。そして、1935年に最後の中央委員・袴田里見が逮捕されて以降は党の中央体制は完全に崩壊してしまった。
こうして翌36年の二・二六事件を契機に軍部ファシズム体制の確立と戦争への道が本格的に始まろうとする矢先に、あえなく解体してしまったこと――これこそ戦前の共産党の運動(スターリニズム運動)の無力さとその破綻を示して象徴的である。
9.打ち砕かれた戦後革命の夢
……敗戦から2・1ストまで……
■■■訪れた好機■■■
レーニンは世界の、とりわけロシアの革命の経験を総括して「革命の根本法則」について次のように述べている。
「搾取され圧迫された大衆がこれまでどおりに生活ができないということを意識して変更を要求するというだけでは、革命にとって不十分である。革命にとっては、搾取者がこれまでのように生活し支配することができなくなる、ということが必要である。『下層』が古いものを望まず、『上層』がこれまでのようにやっていけなくなった場合にはじめて、その時にはじめて、革命は勝利することができる。いいかえれば、この真理は、――革命は、全国民的な(被搾取者も搾取者をもまきこむ)危機なしには起こり得ないという言葉によって表現される」(『共産主義における「左翼」小児病』)
このような「全国民的な危機」は資本主義の矛盾の必然的な結果であるとはいえ、しかし、言うまでもなく、それは歴史上そうめったに訪れるものではない。100年を超える日本の社会主義運動史上でも、そうした機会に恵まれたのは、第二次大戦での敗北が決定的となって以降の2年ほどの間だけと言えよう。
実際、この時期、敗戦が必至となるや、独占資本とその支配の道具であった軍部=天皇制権力は極度の混乱と動揺、自信喪失と恐慌状態に陥り、上陸した米占領軍の懐に飛び込むことでようやくブルジョア支配の全面的な崩壊を回避するという有様であり、他方、飢餓とインフレに苦しむ労働者人民の闘いは野火のように燃え広がっていった。
しかし、こうした客観的情勢に加えてさらに、強固なプロレタリア革命党の存在という主体的な条件が整っていてこそ、革命闘争の発展とその勝利の展望が生まれてくるのだということ――これもまたレーニンのつとに強調するところであった。
だが、戦後激動期の日本にはこの主体的な条件が決定的に欠けていた。これこそはまさに日本の労働者階級にとって真の不幸であり、このせっかく到来した好機をむざむざと逸するに至った最大の原因に他ならない。
というわけで、今回はここに焦点をおいて、戦後激動期の運動史を見ていこう。
■■■決定的な時期を無為に過す■■■
そもそも日本帝国主義の敗北が不可避となった戦争末期の決定的な段階において、労働者人民の闘いや決起が開始されることも、大衆的に呼び掛けられることさえもなく、占領軍の「民主化」措置によってようやく労働運動や社会主義運動が息を吹き返えすことができたということ――これは極めて特徴的な歴史的事実であり、戦前来の「社会主義」諸党派の破産を象徴するものであろう。
小ブルジョア的な無産政党運動の左翼的補完物でしかなかった労農派はもとより、スターリニスト共産党もまた軍部ファシズムが本格的に登場する以前に早くも壊滅させられ、帝国主義戦争にどんなまともな抵抗闘争さえ組織できない状況に追いやられてしまったのだから、帝国主義戦争を内乱に転化し、社会主義革命の契機にしていくというレーニンの革命的戦術など望むべくもなかったのだ。
占領軍による政治犯の釈放命令で出獄した徳田球一、志賀義雄、宮本顕治ら共産党の幹部たちは「非転向」で通した「獄中一八年」とか「獄中一二年」とかをもって英雄気取りであったが(そして今なお共産党はこれをもって「一貫して侵略戦争に反対した唯一の党」の根拠としているのだが)、しかし、そんなものが何の自慢になろうか。
問題は、軍部ファシズムの台頭、帝国主義戦争の勃発、そして敗戦へと至る決定的な時期に、共産党指導部の大半が卑劣な転向を遂げて党組織が解体してしまったこと、徳田らは獄中で個人的・道徳的には「非転向」を貫いたとはいえ、それにとどまり、結局は無為の日々を送らざるを得なかったこと、このため共産党が前衛政党としての革命的な任務を何一つ果たすことができなかったことである。
彼らは党の敗北と指導部としての自らの責任をこそをまず反省すべきであったのだ。激しい弾圧があったと言うのか。しかし、階級闘争に弾圧は付き物であって、そんなものを持ち出して言い訳はできないのである。
同じことは山川らの労農派についてもいえるのであって、こうした戦前の運動の根本的な総括や反省を抜きに再出発した共産党や社会党が戦後の革命的な激動期に再び敗北を喫せざるを得なかったのもまた当然であろう。
■■■無原則な野合――社会党の結成■■■
終戦から1カ月半後の1945年9月末、西尾末広、水谷長三郎、平野力三、片山哲、浅沼稲次郎、鈴木茂三郎、加藤勘十らが集まって社会主義政党結成準備懇談会が開かれた。この顔ぶれからもわかるように、社会党は戦前の旧無産政党系の右派、中間派、左派の無原則な野合であった。懇談会の呼びかけ状は「光輝ある国体擁護のもと、新日本建設に挺身する」というすさまじいもので、自らの過去の戦争協力への反省などひとかけらもなかった。
「社会党が社会主義とはまるで縁のない分子と、情実と、便宜のために作られたに過ぎないことは、その後の党内事情が立証したところである。それだから、結成懇談会には名古屋の『忠孝労働組合』の山崎某も出ていれば、右翼の津久井某もきており、浅沼稲次郎が開会の挨拶の中で堂々と国体の擁護を主張するやら、最後には賀川豊彦が天皇陛下万歳の音頭をとるやら、遺憾なくその本質を暴露し」た(『寒村自伝』)。
11月2日の結成大会では民主主義、社会主義、平和主義を抽象的に謳った三条の綱領を採択したが、依然として天皇に統治権を残す「主権国家」説をとっており、社会主義政党はおろか民主主義政党の体をさえなさない有様であった。右派が主導権を握ったが、鈴木ら左派もまた無節操に妥協・追随するだけであった。
■■■再建共産党と「解放軍」規定、「占領下平和革命」論■■■
一方、10月10日に出獄した徳田、志賀は獄中で準備した「人民に訴う」、「闘争の新しい方針について」を発表、党再建に乗り出した。この二文書は共産党のその後の運動を決定づけたものであったが、その内容は全くでたらめなものであった。
「人民に訴う」はその冒頭に「ファシズムおよび軍国主義からの、世界解放のための連合国軍隊の日本進駐によって、日本における民主主義革命の端緒がひらかれたことに対して、われわれは深甚の感謝の意を表する」(!)と記して、米占領軍を「解放軍」と賛美し、占領軍の支持と協力の下に「天皇制の打倒と人民共和政府の樹立」をめざしてブルジョア民主主義革命を遂行するというものであった。悪名高い「占領軍=解放軍」規定である。
この規定が全く馬鹿げたものであり、アメリカの占領政策の本質や性格を全く間違って解釈し、労働者人民の闘いに混乱を持ち込み、解体に導くものでしかなかったことは言うまでもない。
なるほど米占領軍は、軍と秘密警察の解体、政治犯の釈放、思想・信条の自由の保障、労働組合の公認、教育の民主化、財閥の解体、農地改革など、最終的には新憲法の制定に集約される日本の政治・経済・社会の全分野にわたる民主主義的改革を矢継ぎ早に実施した。
しかし、この占領軍による「非軍事化」・「民主化」の政策はなによりもアメリカ帝国主義の次のような意図を体現したものであった。すなわち、日本軍国主義を武装解除し、その牙を抜いて、再び自分たちに脅威を与えないように弱体化するとともに、一連の民主的改革の断行で労働者人民の要求を先取りして、彼らの不満と闘いの爆発を防止し、革命的な危機に瀕した日本資本主義を救済して、自らの戦後世界支配の一環に組み入れていくということ、これである。そして、それは民主主義的な支配形態への衣替えで自らの生き残りを図ろうという日本独占の利害と一致するものでもあった。
これらの民主化政策が一定の進歩性を持っていたことは明らかだ。しかし、それはあくまでもアメリカの帝国主義的な世界支配と、危機に瀕した日本独占資本の延命策という枠内のものに過ぎない。ところが、徳田、志賀らはその階級的な本質や限界を見ることができず、「民主化」に幻惑されて、占領軍をあたかも労働者人民の「解放者」であるかのように持ち上げたのである。
しかし、徳田らのこのような誤りは決して偶然ではなかった。それは戦前の「三二年テーゼ」に代表される彼らの綱領的な立場、すなわち日本の労働者人民の当面する革命を半封建的な絶対主義天皇制の支配を打倒するブルジョア民主主義革命とする間違った戦略論と密接に結びついており、その必然的な帰結でもあった。「三二年テーゼ」を信奉したまま出獄した彼らにとって、占領軍は彼らが革命の課題とした絶対主義天皇制の支配からの解放を実現する偉大な「協力者」に見えたとしても少しも不思議ではなかったのだ。
だが、帝国主義軍隊の強権で瞬く間に成し遂げられてしまうような民主的変革とは何だったのか。それは、こうした変革が革命の課題でも何でもなかったこと、共産党の唱えてきた民主主義革命が全くの観念的で空虚なものでしかなかったということであろう。戦後の民主的改革は、彼らの民主主義的な革命戦略の破綻を実践的にも最終的に証明したのである。
そして、この「解放軍」規定と結びついて現れてきたもう一つの馬鹿げた見解が「占領下平和革命」論であった。45年12月初めに第四回大会を開き、徳田を書記長に選出して再建(党員は千名強)を果たした共産党は、翌46年2月末の第五回大会で当面の綱領的方針を「大会宣言」の形でを択した。この「大会宣言」の提案にあたったのが、同年1月末に中国から帰国し、帰国歓迎会で「愛される共産党」のキャッチ・フレーズを打ち出した野坂参三であった。
野坂は提案の中で「解放軍」規定をさらに敷衍化し、今や日本では民主主義革命の完成ばかりでなく、それに続く社会主義革命の達成も、占領下で平和的に議会を通じて行うことができると強調、あまつさえそれを「マルクス・レーニン主義の日本化である」と吹聴したのであった。
こんなものはあえて説明するまでもなく単なるたわごとに過ぎないが、この大会に出席し中央委員に選出された宮本顕治らからも何の異議も唱えられなかった。「占領下平和革命」論は後に「野坂理論」と呼ばれ、野坂一人に責任が負わされているが、宮本らも全く同罪だったのだ。
そして、この「解放軍」規定や「占領下平和革命」論は戦後混乱期の終息する49年まで正式に改められることなく掲げ続けられたのである。
■■■二・一ストの挫折と戦後革命の流産■■■
指導部隊となるべき社共がこんなていたらくであったにもかかわらず、労働者人民の闘いは終戦直後から拡大、激化の一途をたどっていった。戦災による生産設備の破壊に加えて工場閉鎖や資本家のサボタージュによる生産の崩壊、インフレの高進と失業者の激増という状況の中で、労働者人民は差し迫る飢餓との闘いに立ち上がらなければ生き抜くことができなかったのである。
工業生産額は47年7月で戦前(37年)の3分の1、失業者は1000万人を超え、物価は46年8月から半年後の47年3月に2倍になり、その5カ月後にはさらにまたその2倍になるといったすさまじいものであった。
こうした中、労働組合の結成も嵐のように進み、終戦時のゼロから出発して10カ月後の46年6月には1万2000組合、368万人に達し、組織率も40%を超えた。これらの労働組合はこの年の8月に相次いで結成された全国組織、社会党系の総同盟と共産党系の産別会議に組織された。単一の全国組織作りが失敗に終わったのは、両党が労働組合を自らの直接的な支配下に囲い込もうと醜いセクト的分裂主義に走り、それに固執したからである。
それでも総同盟の86万に対して産別が2倍近い163万人を組織したところを見ると、社会党=総同盟を牛耳る右派幹部(彼らは戦時中さんざん軍部のお先棒をかついだ連中だ)に対する労働者大衆の反発がいかに強かったか(またその裏返しとして共産党に対する幻想にいかに囚われていたか)を物語っている。こうして、戦後労働組合運動の主導権はさしあたり共産党=産別が握ることとなった。
賃金引き上げ、首切り反対、職場の民主化などを掲げた争議やストが全国いたるところで頻発し、闘いは次第に激しさを増していった。四五年秋の第一次読売争議を嚆矢に工場占拠や生産管理闘争も登場し、46年の前半にかけて京成電鉄、日本鋼管、東芝などの争議でもこの戦術が採用された。
46年5月には有名な「食糧メーデー」が挙行され、労働者階級の闘いは秋に向けていっそう先鋭化していった。夏には国鉄、海員の労働者が数万人規模の首切りに反対する闘いに立ち上がり、その撤回を勝ち取った。10月には東芝のストをかわきりに新聞、石炭、機器などの民間労組によって、首切り反対、賃上げ、労働協約締結などを要求する「一〇闘争」が闘われた。次いで、国鉄、全逓、教員などの越年資金の支給や最賃制の確立などを掲げた官公労へと闘いは引き継がれ、11月にはこれらの組合は共同闘争に移り、全官公庁共同闘争委員会(共闘)が結成された。
そして、12月の吉田内閣打倒国民大会を契機に、闘いは政治闘争への傾斜を深め、社会党、共産党、総同盟、産別によって倒閣実行委員会が作られた。こうした中、47年年頭の吉田首相の労組幹部に対する「不逞の輩」呼ばわりが火に油を注ぐ形になって、1月15日には民間労組も含めた全国労働組合共同闘争委員会(全闘)が結成されるに至った。
全闘は経済的要求に加えて、「吉田内閣打倒、民主人民政府樹立」という政治目標を掲げて、2月1日を期してゼネストに立ち上がることを宣言した。こうして、労資の闘いは国家権力をめぐる階級対階級の政治決戦の様相を深め、ピークをめざして急速に登りつめようとしていた。
今や闘いは客観的には次のような段階に達していたのである。すなわち、占領軍とその背後に隠れた日本のブルジョア階級との死に物狂いの闘いを通じて、労働者階級がその手に権力を握り、社会主義に向かって前進するのか、それとも占領軍に支えられたブルジョアジーが労働者階級の闘いを粉砕して戦後日本の資本主義的再建への道を切り開くのか――こうしたことが問われる段階にである。
だが、この時、ブルジョア支配の打倒と社会主義の実現に向けての明確な闘いの展望を指し示し、労働者階級に断固たる革命的な闘いとそのための真剣な準備を呼び掛けることなど、共産党の諸君に期待すべくもなかった。
それどころか、彼らはこの切迫した階級情勢の中にあってなお「解放軍」規定と「占領下平和革命」論の立場にまどろんで、二・一ストの前日に至るも「総司令部は絶対に弾圧できない」(野坂)、「ゼネストに対して占領軍は必ず手を引く」(長谷川浩、産別会議事務局次長)等々と占領軍に対する甘い幻想にひたっていたのである。
果然、占領軍は31日午後、ゼネストに中止命令を発した。直前まで「総司令部の弾圧はない」とさんざん幻想を振りまいていた徳田らは、今度は一転して中止命令に従うよう説得して回った。大衆はこの「マッチ・ポンプ」にあきれ、茫然自失、混乱と動揺の中で、二・一ストに向けて高揚した闘いは一挙に崩れ去ってしまった。
こうして、共産党の日和見主義と誤った指導によって、労働者階級の闘いは惨めな敗北を喫し、戦後革命の夢は無惨にも打ち砕かれてしまったのである。
10.独占資本の復活は社共のおかげ
……片山政権から50年代前半まで……
■■■新憲法下初の総選挙と片山政権の成立■■■
二・一スト前後の革命的危機を脱した吉田内閣は、その余燼も冷めやらぬ1947年春、新憲法下で初の各種選挙を相次いで実施していった。
まず総選挙が4月に行われ、この結果、社会党が143議席(前回92議席)を獲得して第一党に躍り出た。社会党の躍進は飢餓とインフレに悩む労働者大衆の期待を反映したものであった。
しかし、第一党とはいっても過半数を制したわけではなく、吉田茂の自由党が131議席、芦田均の民主党が126名、三木武夫らの国民共同党が29名とブルジョア諸政党が圧倒的多数を占め、社会党は3分の1の勢力を占めたに過ぎなかった(二・一ストのでたらめな指導で労働者の反発を買った共産党はわずか4議席だった)。
不意に転がり込んだ第一党の座に「弱った」と嘆息した片山哲委員長であったが、西尾末広ら右派はブルジョア政党との連立に意欲を燃やし、自由、民主、国共との政策協定による組閣策動に乗り出した。彼らの連立内閣推進の口実は「保守陣営にくさびを打ち込み、幾分なりとも勤労大衆のための政策を実現する」というものであった(最近の自社連立でもこれと同じ言い分が登場した!)。
この時の社会党中執で連立に反対したのは荒畑寒村ただ一人であった。
「ましてブルジョア政党との連立内閣は、ひとり社会主義の原則に反するのみでなく、寄り合い所帯の水割政策で現在の危機を突破し得ないことは明白ではないか。むしろあくまで野党にとどまり、第一党の実力をもって政策の実現を政府に強制するに如(し)くはない。もし、どうしても政府を作らなければならぬとしたら、たとえ少数でも単独内閣を組織して三日天下でもいい、社会党内閣でなければやれないような政策を断行すべきだ。そしてブルジョア政党が束になって反対したら、その時こそ議会を解散していわゆる信を民意に問うべきだ」(『寒村自伝』)
四党政策協定に1カ月も手こずり、社会・民主・国共三党連立の片山内閣が発足したのはようやく6月1日のことであった(自由党は入閣しなかったが、四党協定は存続した)。しかし、自ら社会主義的政策を断行する意志がない上に、ブルジョア的な政策協定に縛られた右派主導の片山政権に選挙で掲げた公約はおろか、いくらかでも労働者人民の利益を図る政策などやれるわけもなかった。
■■■片山・芦田両連立政権の果たした役割■■■
果然、片山首相の組閣第一声は「国民の皆様にはこのうえにも耐乏の生活を続けていただきたい」というもので、労働者人民の期待を全く裏切るものであった。そして、片山内閣が最初に打ち出した政策が「新物価体系」なるもので、これは物価を戦前(1936年)の65倍とし、賃金は27倍とする、つまり実質賃金を半分以下に抑え込むというひどいものであった。
一方、社会党の一枚看板であった炭坑国家管理法案も資本家と結託したブルジョア政党の反対で骨抜きにされてしまった。これは鉄や石炭などの基幹的な生産財やエネルギー資源に国家資金を投入して生産を増強し、それをテコに経済復興を図ることをめざして採られた「傾斜生産方式」の一環で、中小資本の多い石炭については国有管理に移すというものであった。しかし、成立した法案は国管とは名ばかりで、経営権を資本家の手に残したまま、国家資金を湯水のように注ぎ込むことで、彼らに莫大な利益を保障するものであった。
こうした中で、労働者の怒りの高まりに押されて、この年の暮れには鈴木茂三郎、加藤勘十、山花秀雄、岡田宗司ら左派「五月会」の面々は「われわれは現連立内閣に対して批判と行動の自由を留保する」と「党内野党宣言」を発するに至った。
明けて48年2月10日、官公労の生活補給金0.8カ月分の財源を国鉄運賃と郵便料金の値上げでまかなうという補正予算案が鈴木を委員長とする予算委員会で否決されたことから、片山内閣はわずか8カ月であえなく瓦解してしまった。
民主党の芦田が後継首相となって三党連立は継続したが、西尾が副総理格で入閣した他、左派からも「五月会」の反対を押し切って加藤勘十、野溝勝の2人が入閣。また引き続き予算委員長の座にあった鈴木は先に否決した国鉄・郵便の値上げを盛り込んだ新年度予算案を今度は通してしまうといった具合で、左派もまた右派に劣らぬ無節操ぶりを暴露したのであった(なおこの時、予算案に反対投票して除名された最左派の黒田寿男、岡田春男らは同年末、労働農民党を結成した。また寒村は脱党して旧労農派を中心とする新たな社会主義政党の結成をめざしたが、このいわゆる「山川新党」は幻に終わった)。
芦田内閣は悪名高い政令201号を発して官公労働者のスト権を奪うなど労働者の闘いを抑圧しつつ、労働者への犠牲の強要で経済復興を進めていった。しかし、同年10月、昭電疑獄で西尾が逮捕されるに及んで芦田内閣は崩壊した。
社会党が入閣したこの二つの連立政権の果たした役割は何であったか。
二・一ストが不発に終わったとはいえ、その後も騒然たる社会情勢の中で、たとえ米占領軍の後ろ盾があったにせよ、いまだ基盤弱体のブルジョア政権が正面から労働者階級に対決して資本主義的再建を図ろうとしても、それは労働者階級の激しい反撃を呼び起こし、再び深刻な危機を招きかねなかった。
労働者階級の味方を装いながら、労働者の階級攻勢の衝立となることができ、同時にまたブルジョア政権が単独ではやれないような労働者への露骨な犠牲転嫁によって戦後日本の資本主義的復興への道を切り開くことのできる政権が必要であった。ブルジョアジーのこうした要請に応え、その醜悪極まる役割を演じたのが社会党が加わった両政権に他ならなかった。
こうして二・一ストを挫折に導いた共産党のおかげで戦後の激動期を乗り切り、引き続く続く混乱期に社会党=片山政権の手で資本主義的復興へのレールを敷くことに成功し、ようやく自信を取り戻したブルジョアジーは、政権の座に復帰した吉田自由党の単独ブルジョア政権の下で、ドッジ・プランによる超緊縮政策でインフレを終息し、また国鉄の10万人首切りに代表される企業・行政整備の「合理化」を強行しつつ、折からの朝鮮戦争特需に支えられて50年代初頭には完全に息を吹き返すのである。
また政治的にも、米ソ「冷戦」の激化、中国革命の勝利、朝鮮戦争の勃発と続く国際的な激動の中で、日本を「アジアの反共防壁」、「兵器工場」に仕立てようという米帝国主義の「占領政策の転換」によって講和に向けた交渉が進展、ブルジョアジーは51年のサンフランシスコ条約によって独立を達成した。
ブルジョアジーはこうして経済的にも政治的にも資本主義的復活を勝ち取ることに成功するのだが、実にその最大の功労者は彼らが戦後の危機と混乱を脱して復活への足がかりをつかむのを可能にした社共両党であった。
■■■無節操無原則な社会党の分裂・統一劇■■■
芦田内閣の崩壊から3カ月後、49年1月に行われた総選挙で、社会党は労働者大衆の厳しい審判にさらされ、前首相の片山をはじめ西尾ら大臣経験者が枕を並べて討ち死にし、前回の143名から一挙に41名へと激減、民主党も69議席に半減した。
かわって吉田の民主自由党(民主党の一部を吸収して改名)が264名と単独過半数を制して圧勝した。また、社会党への反発から共産党が35名に躍進した。
総選挙の惨敗を受けて4月に開かれた社会党第四回大会では、「森戸・稲村論争」で有名な「党再建」論議が繰り広げられた。論争の焦点はその後も社会党の永遠のテーマとなる「党の基本的な性格」をめぐるものであった。
左派・稲村の規定は「勤労階級の階級政党」というものであり、右派・森戸の規定は「勤労国民大衆の党」というものであった。見られるように、社会党が労働者階級と小ブルジョア階級を含めた「勤労大衆の政党」という点では両者は全く同じである。両者の違いは、前者が「労働階級のヘゲモニー」を唱えるのに対して、後者は「いかなる階級のヘゲモニーも存せず」と否定する点にあった。
つまり「階級政党」か「国民政党」かといっても、労働者階級に立脚したマルクス主義的な革命政党か、それとも没階級的な小ブルジョア政党かの本質的な点をめぐるものではなく、労働者的あるいは小ブルジョア的な立場、要素、傾向をどちらがより重視するかをめぐる左右の社会民主主義路線の対立に過ぎなかった(その後も繰り返されるこの論争は決してその域を出るものではない)。
しかし、この大会で論争は決着がつかず先送りとなったが、人事では左派の鈴木茂三郎が右派の推す浅沼稲次郎を破って書記長に就任(委員長には片山が留任)、党内での左派勢力の台頭が明らかになった。
翌50年1月の第五回大会には、労働運動内での民同左派と民同右派の対立が持ち込まれ、民同右派の組織した愛国主義的な独立青年同盟をめぐって左右の対立が激化、組織分裂にまで至ったが、しかしそのわずか2カ月後には第六回臨時大会を開いて「手打ち式」的に再統一する。左右両派お得意の無原則な離合集散劇の幕開けである。
51年の第七回大会は朝鮮戦争の勃発と講和への動きが強まる中で開かれた。大会は右派の反対を押し切って、全面講和、中立堅持、軍事基地反対、再軍備反対の「平和四原則」を採択した。また鈴木が委員長に就任、左派の主導権が確立した。
この背景には前年7月に結成され、社会党の支持母体となった総評で民同左派が勢力を伸張、高野実事務局長下で「ニワトリからアヒルへ」の急速な左旋回を遂げるという事情があった。社会党大会直後に開かれた第二回総評大会もまたこの「平和四原則」を採択したのであった。
そしてこの年の7月には対日講和草案が発表され、9月に講和会議がサンフランシスコで開かれることになった。党内では講和、安保の両条約をめぐって、両条約反対の左派と両条約賛成の右派に加えて、「講和賛成、安保反対」の中間派が入り乱れて対立が激化、最終決着は10月23日の第八回臨時大会で図られることになった。
大会は冒頭から荒れて議事に入れず、翌朝に閉会宣言が出されると同時に、左右両派は別々の会場で大会を続行、かくして両派は左派社会党と右派社会党へと分裂を遂げてしまった。
その後、右派社会党(書記長・浅沼)は翌52年1月の党大会で、「民主社会主義の理念に立脚する」など反共主義を明確にした「七原則」を確認、ドイツ社民党やイギリス労働党など社会主義インター系の諸党をお手本とする道を進むことを決めた。また、昭電疑獄で除名された西尾が復党し、実権を握ることになった。そして、53年には西尾のテコ入れで、総評の急進組合主義に反発する海員、全繊や総同盟系の右派組合が集まって全労(全日本労働組合会議、同盟の前身)を結成、右社はこれを組織的な基盤とするに至った。
一方、左派社会党は太田薫(合化)、岩井章(国労)、宝樹文彦(全逓)、平垣美代司(日教組)ら民同左派の率いる総評と結び付き、選挙では資金的にも人的にも総評に丸抱えしてもらって勢力を拡大していった(衆議員数で左社はまもなく右社を抜き、55年2月の総選挙では左社89、右社67と差を広げた)。いわゆる「総評=社会党ブロック」の形成である。
左社は54年に社会主義協会(51年発足、旧労農派)の向坂逸郎らの協力の下に新綱領を制定するが、その骨子は次のようなものであった。
日本は「高度に資本主義が発展した国であり、金融独占資本の支配する国である」が、同時にまたアメリカの経済的・政治的・軍事的支配力に依存した「従属国」である。したがって「日本の労働者階級は日本独占資本を打倒する社会主義革命という本来の歴史的使命とともに、民族独立の回復と平和の維持という、解決をせまる重大な任務のまえにたたされている」。また革命は「平和的に、民主主義的な基盤のうえにのみおこなわれる」。
協会派の諸君によって「マルクス主義的綱領」と賛美された「左社綱領」だが、戦前の労農派が抽象的には「社会主義革命」を提起しながらも、実践的には労働者階級の闘いをブルジョア民主主義の実現にすり替えたように、この綱領もまた口先では左翼ぶって「社会主義革命」をもてあそびながらも、実際にはそれを「本来の歴史的使命」というお題目に祭り上げ、直面する「重大任務」は「民族独立の回復と平和の維持」だとして、労働者の闘いを小ブルジョア的な民主主義・平和主義・民族主義の運動に押し込めてしまうのである。そして労農派の合法主義の伝統を受け継いだ「平和革命」論である。
ところが左社は一方で新綱領の策定を進めながら、他方ではその陰で右社との統一を探るという有様で、翌55年10月には新綱領を放棄し、右社の露骨な反共主義と漸進的改良主義を盛り込んだ「統一綱領」の下に再び野合を遂げてしまうのである。「統一綱領」の無原則な折衷主義は「階級的大衆党」というわけの分からない「党の性格」規定に象徴されている。
ともあれこうして社会党が再統一した1カ月後には、自由党と民主党が合同して自由民主党が発足、いわゆる「五五年体制」が成立する中で、日本資本主義は「高度成長」の一時代を迎えるのである。
■■■共産党の「五〇年問題」と六全協■■■
一方、49年の総選挙で35名に躍進した共産党は「民主人民政権の問題は今や現実の問題」(野坂)と浮かれ、「九月革命」説などを振りまいて、たわいもない革命幻想に浸っていた。しかし、それも束の間、翌50年1月、コミンフォルムから衝撃的な批判が飛び込んできた。
それは、「占領軍=解放軍」規定や「占領下平和革命」論の野坂理論は「日本の帝国主義占領者の美化の理論であり、アメリカ帝国主義称讃の理論であり」、「マルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもないものである」という激しいものであった。
このコミンフォルム批判の一撃で、党内は批判の無条件受け入れを主張する宮本、志賀らの国際派と徳田、野坂らの所感派(中国共産党の追撃で彼らもすぐに批判を受け入れるのだが、当初「その問題はすでに実践的に克服している」との「政治局所感」を発表したことから、この名称で呼ばれる)とに分裂して、その後5年間にわたる激しい分派闘争に突入していった。
同年6月のレッド・パージ後、所感派は臨時中央指導部を作り、地下から、あるいは亡命先の中国からこれを操ったが、51年10月には第五回全国協議会を開き、悪名高い「五一年綱領」を採択した。スターリンに乞うて作成したといわれるこの新綱領は、日本をアメリカの「植民地・従属国」と規定、戦後の「民主化」や「農地改革」はすべて「いつわり」であり、戦前と大差のない体制が温存されているとして、中国革命方式にならって武力闘争による「民族解放民主」革命を提起した。
そして、この荒唐無稽でアナクロニズムの新綱領に基づいて、中核自衛隊、山村工作隊などが組織され、火炎ビンなどによる極左冒険主義の馬鹿げた「武装闘争」が繰り広げられていった。
こうして労働者人民からすっかり浮き上がり、孤立を深めていく中で、54年に入り所感派が軍事方針を転換し始めたことから両派の間に「統一」の気運が生まれ、55年7月の第六回全国協議会で「党の統一」が回復されることになった。
しかし、この「統一」も社会党の「統一」に劣らず両派の無原則な妥協による「手打ち式」に他ならなかった。武力方針を除き「五一年綱領」は「完全に正しい」と国際派も認め、宮本顕治は六全協直後の「アカハタ」で「この(六全協の)決議にある日本の革命運動の基本方針はあの輝かしい(51年)新綱領が示した道がまったく正しかったことを証明しています」と書き立てた。そして、この立場は宮本の手になる六一年綱領へと引き継がれていくのである。
11.60年安保闘争と社会党・共産党
……新たな労働者党の必要性浮き彫りに……
■■■六〇年安保改定の背景とその歴史的な意味■■■
戦後の混乱期を社共の日和見主義と裏切りに助けられて切り抜け、朝鮮戦争特需によって息を吹き返した日本独占資本は、1950年代前半の反動恐慌期に徹底した企業・人員整理を強行するとともに、「経営権の確立」(労働者に対する資本の専制支配の確立)を図り、こうした地ならしの上に、50年代後半以降、輸出の急増と旺盛な設備投資に牽引される形でいわゆる「高度成長」の一時代へと突入していった。
前回見たように1955年は政治的にも画期の年であった。左右両社会党の統一、保守合同による自民党の誕生、六全協で分派闘争に終止符を打って組織の統一を回復した共産党、また労働運動では政治主義的な高野路線に代わって経済主義的な太田・岩井ラインの登場と春闘の開始等々、その後の「高度成長」期を特徴づける体制が確立した。
56年の経済白書は「もはや戦後ではない」という有名な文言を記したが、実際、翌57年度の工業生産額は戦前(34〜36年度平均)の2.7倍に達し、後年の経済白書の推計によれば1950〜57年間の平均経済成長率は年率10%を超えていた。
この年の2月に成立した岸内閣は「日米新時代」を掲げ、6月訪米を機に「日米安保条約の再検討」に乗り出したが、それはこうした急速な経済拡大によって帝国主義的な復活・自立に向けての経済的基盤を整え、自信を取り戻した日本独占資本の政治的欲求を反映したものであった。
旧安保条約もまた基本的にはブルジョア国家間の同盟関係を規定したものであった。しかし、51年のサンフランシスコ講和会議で独立を達成したとはいえ、占領下から脱したばかりであらゆる面で弱体な日本ブルジョアジーの地位を反映して、講和条約と同時に締結された旧安保条約は、米軍が一方的に日本を防衛する義務を負う代わりに、日本は国内の基地の自由使用権を米軍に与えるという「片務的」な性格のものであった。
当時、日本独占資本は自らの国家の防衛と階級支配の維持を米国の軍事力に依存せざるを得ない状況にあった。また、そうすることで彼らは巨大な軍事支出をまかなう必要からまぬがれ、ひたすら資本蓄積と経済的発展に力を注ぐことができた。他方、米ソ冷戦が激化する中で、アメリカ帝国主義にとって、工業国家・日本をアジアの軍事・兵たん両面の前線基地として確保することは死活問題であった。つまり、日米安保条約には日米双方の独占資本とその国家の利害が貫かれていたのである。
とはいえ、「主権」の一部の譲渡を伴う旧安保条約は“一人前”の国家をめざす日本ブルジョアジーにとっては“屈辱的”であり、この喉に刺さった小骨を取り除き「独立の完成」(岸)を図ることは彼らの悲願であった。かくして50年代の経済的発展と政治支配の確立を背景に、岸内閣の誕生とともに、安保条約を独立した国家間のより対等な条約、つまり「双務的」なものに改定することがブルジョアジーの「第一の政治課題」として浮上してきたのである。
■■■社共の日和見主義あぶり出した安保闘争■■■
安保改定のための日米交渉は58年9月の藤山・ダレス会談をもって本格化する。しかし、社会党も共産党もこの安保改定の歴史的・階級的な意義を正しく捉えることができず、59年末から60年夏にかけての労働者・人民のあの爆発的なエネルギーを正しい方向に組織し、導くことはできなかった。この時、安保改定を「日本独占資本の帝国主義的自立への第一歩」と告発し、「日本ブルジョアジーとの断固たる階級的闘い」を呼びかけたのは、60年安保闘争の先頭に立った全学連と彼らを指導した共産主義者同盟(ブント)だけであった(ブントの歴史的な功績とその限界、新左翼の急進主義運動とその破綻については改めて詳しくみることにしよう)。
社共が安保改定の歴史的な意義も労働者・人民の闘いの方向も何一つ正しく提起できなかったのは偶然ではない。彼らもまたブルジョアジーと本質的に同じ民族主義的な立場に立って「真の独立」を重要な戦略的課題としていたからである。両者の違いはただ、社共が「独立、平和、民主、中立」とかのスローガンの下に小ブルジョア的な平和主義や中立主義の立場から観念的な「真の独立」を呼号したのに対して、ブルジョアジーはそのブルジョア的帝国主義的な現実主義の立場から「独立の完成」を追求したという点にあったに過ぎなかった。
だから社会党が当初は安保改定に賛成であったというのも少しも不思議ではない。この点については当時の外相・藤山愛一郎が次のような証言を残している。
「私がダレスに会いに行くまで社会党は条約『改正』論であった。外務委員会でしっかりやってこいと、壮行の儀みたいなものを社会党がやってくれた」(原彬久『戦後史の中の日本社会党』より重引)
しかし、56年以降の第二次砂川基地反対闘争に代表される今だ冷めやらぬ反戦平和主義の大衆的な気分、そして折から安保闘争対策を射程に入れた警職法改悪の企みを粉砕した大きな闘いのうねり(58年秋)の中で、社会党、総評も重い腰を上げざるを得なくなった。この両者に全学連、原水協などの諸団体を加えて安保改定阻止国民会議が発足したのは59年3月のことであった。
60年安保闘争ではこの国民会議を中心に23次にわたる統一行動が繰り広げられることになるのだが、しかし、60年に入って新安保条約の調印、国会承認という正念場を迎えてもなお総評幹部たちの間からは「安保は重い」といったつぶやきが聞こえる有様で、春闘の賃上げ闘争と抱き合わせの形で時限ストを打つといった闘いが関の山であった。
だが、それも当然であろう。というのは、彼らは安保闘争を単に平和主義、民族主義、民主主義の観点から提起したに過ぎず、何千万労働者大衆の搾取・抑圧に基礎をおくブルジョアジーの支配に反対し、そして今や再び帝国主義的な自立と発展の方向に歩み出そうというブルジョアジーの野望に反対する労働者の階級的な闘いの一環として安保闘争を位置づけ、組織しようとはしなかったからである。
そして、社会党や総評に輪をかけてこの闘いを民族主義的な方向にねじ曲げ、解体し、足を引っ張ったのが共産党であった。宮本体制が確立しつつあった共産党は、新安保条約が「依然として対米従属の屈辱的条約」であると憤慨し、「安保闘争のほこ先をアメリカ帝国主義にも向けさせる」(『七〇年党史』より。文中「にも」などといっているが実際には反米民族闘争に還元)ことにこれ努め、また大衆闘争を「請願デモ」などの合法的な「整然たる行動」に押し込めるために狂奔した。そして、全学連などの自然発生的な闘いの高揚に恐怖し敵対し、それを「極左挑発行動」と非難し、彼らに「挑発者」、「トロツキスト」、「帝国主義の手先」等々のあらゆる悪罵・中傷を浴びせることに血道を上げたのである。
こうして、60年安保闘争は社共の醜い日和見主義とその反労働者的な本性を白日の下にさらけ出し、労働の解放のためには社共に代わる新たな労働者党の創設がどうしても必要なことを決定的に明らかにした。この点でそれは大きな歴史的な意義を持ったのであった。
■■■社会党の堕落とその消滅まで■■■
あれから40年、これが真実であったことは、今では誰もが認めるところであろう。この日和見コンビはその後の資本主義の相対的な安定と繁栄の中ですっかり体制内に取り込まれ、その片方の主役であった社会党はその支持母胎であった総評もろともブルジョア的な堕落を重ねた挙げ句、組織的にも消滅してしまうという劇的な末路をたどり(今では見る影もない小政党にやせ細った社民党がわずかにその衣鉢を継いでいるに過ぎない)、もう一方の主役である共産党もまたその日和見主義を全面開花させ、「対米従属」の色眼鏡は今なおかけたままだが、もはや「資本主義の枠内での改革」しか言わない俗悪な改良主義政党に転落してしまっている。社会党からみていこう。
1955年の社会党の統一は左右両派の全く無原則的な野合であり、両派の対立がいつ吹き出して再び分裂してもおかしくない党内事情にあった。果然、安保闘争をめぐって安保・自衛隊容認の最右翼・西尾派が脱党、60年1月には民社党(衆院41名、参院18名)を旗揚げした。民社党がその後、支持母体の同盟とともに、資本の労働者支配の先兵の役割を果たしてきたこと、そして今では旧社会党右派のクズどもと一緒になって民主党に転がり込んでいることは周知の通りである。
しかし、これで社会党から右派が一掃されたわけではなかった。河上派といった残留組に加えて、安保闘争が終息した直後、今度は「構造改革論」を掲げた新右派勢力=江田派が登場してくるのである。
60年10月、社会党第一九回臨時大会が浅沼委員長刺殺事件の翌日に開かれた。このどさくさのなかで、江田書記長の提案した運動方針には「独占資本の構造改革」に対決する「われわれの構造改革」なるものが盛り込まれていた。これは従来の「抵抗闘争」や「恐慌待望論」的な闘いでは「国民諸階層の生活向上」を勝ち取ることはできない、「われわれが政権に参加する以前においても、保守政権に対して、政策転換の要求として、強力な大衆運動を背景にせまらなければならない変革である」(方針書)と説明されていた。「抵抗闘争」への批判は安保と同時に闘われた三池闘争における向坂協会流の「合理化絶対阻止」とかの狭い急進組合主義の破綻をついて持ち出されて来たものである。
「構造改革論」はイタリア共産党の構革理論の受け売りで、宮本体制からはじき出された佐藤昇ら共産党系の構革派が江田のブレインとなって社会党に持ち込んだものである。62年7月の「江田ビジョン」が端的に示しているように、それは「米国の生活水準の高さ」、「ソ連の徹底した社会保障」、「英国の議会制民主主義」、「日本の平和憲法」の四つの指標を掲げ、その実現をめざして改革を積み重ねていくというものであり、ベルンシュタイン流の露骨な改良主義以外の何ものでもなかった。
「構造改革」路線は炭労の石炭政策転換闘争などとして展開され、党内に激しい論争を呼び起こしたが、左派の巻き返しで2年ほどで退けられ、64年の第二四回大会では綱領補完文書として「日本における社会主義への道」が採択された。
社会主義協会派の諸君によって「科学的社会主義の綱領」と賛美された「道」ではあるが、それは左社綱領と同様に、議会で多数を占めることによる平和革命という合法主義・議会主義の路線に他ならず、協会派の諸君の奮闘で「道」に散りばめられた似非マルクス主義的な空文句は、実践的にはますますブルジョア的な腐敗と堕落を深めるこの党の実態を覆い隠すイチジクの葉に過ぎなかった。
もちろんこんなもので労働者大衆をだまし、引き付けることなどできるわけもなかった。「70年安保・沖縄闘争」を目前にした69年の総選挙で、社会党は前回(67年)の140議席から一挙に50議席を失う惨敗を喫し、以降、70年代から80年代前半を通じて110議席前後の低迷を続けることになった。社会党は組合の機関決定による締め付けで総評系労組を自己の世襲領地とみなしてきたが、社会党の衰退は総評の似非急進的な組合運動が同盟・JCのブルジョア的労働運動に敗北し、後退していく過程と軌を一にしていた。
この「長期低落傾向」に歯止めをかけようと、70年代末には「道」見直しが叫ばれ始めたが、彼らの見出した「再建策」は社会党をいっそう“右傾化”させることでしかなかった。その最初の到達点は、「安保五人男」の一人で「非武装・中立論」のチャンピオンだった石橋委員長の下での「ニュー社会党」路線への転換、「新宣言」の採択であった。しかし、その内容は自衛隊の「違憲・法的存在論」を目玉とする全くインチキなものであった。それは労働者の社会党離れをいっそう促したに過ぎず、「新宣言」の採択された85年の総選挙では85議席へと転落した。
代わって登場した土井委員長の下での89年の総選挙では消費税への反対票を吸収して139議席のかりそめの勝利を勝ち取ったものの、連合の結成とそれに伴う山岸らダラ幹どもの「政権を担いうる現実政党への脱皮」を迫る揺さぶり攻撃に屈してますます右傾化を深め、この結果、労働者からますます見限られるはめになり93年7月の総選挙では再び77議席へと半減してしまった。
そして細川政権への入閣を経て、自民党によって政権復帰の足がかりとして担ぎ出された村山政権の下で、社会党は「安保反対、自衛隊違憲」の一枚看板を投げ捨て、「安保堅持、自衛隊合憲」、「日の丸・君が代容認」へと180度の転換をなしとげた。また「市場経済の原理」の尊重(つまり資本主義の変革はめざさない)を公然と表明し、自らを「寛容な市民政党」と規定した「九五年宣言」を発するとともに、翌九六年には党名も社民党に変更、名実ともに純然たるブルジョア改良政党へと“脱皮”した。
しかし、それも空しく、28名の右派議員が民主党に流れる中で行われた同年9月の総選挙では、自ら導入した小選挙区制も不利に働き、改選議席をさらに20名下回る15議席の少数政党に転落してしまった。この後、土井の再登板となったが、今度の総選挙では組織存亡の危機に立たされている。
日和見主義者の末路や、あわれ。しかし因果応報、これも自業自得と言うほかない。かくて社会主義協会の諸君の「社会党の階級的強化」、「社会主義政党への純化」はついに“見果てぬ夢”に終わり、本隊の消滅に先立ち自ら解体してしまった。戦前の労農派が無産政党の左翼的補完物であったのと同様に、協会派は社会党の単なる左翼的補完物に過ぎなかった。
社会党が民社党や江田派の一周遅れのランナーだったとすれば、共産党はそのまた一周遅れのランナーである。次回は共産党を取り上げよう。
12.民族主義から体制内改良主義へ
……共産党の61年綱領路線の帰結……
■■■党章草案の発表と綱領論争■■■
宮本顕治ら国際派と野坂参三ら所感派の無原則的な野合による1955年の六全協によって「党の統一」を回復した日本共産党は、56年11月、宮本を委員長とする「綱領問題委員会」を発足させ、翌57年9月、「日本共産党党章草案」の名で新綱領草案を発表した。
しかし、この間、56年2月にはソ連共産党第二〇回大会でのフルシチョフによるスターリン批判の「秘密報告」が行われ、またこれを契機にスターリニズム共産党の支配に公然と反乱を開始したハンガリー事件が同年11月に勃発するなど、世界史的な激動が続いたが、彼らはここから何ものも学ばなかったばかりか、スターリン批判を「個人崇拝」など単なるスターリン個人の誤りや欠陥に還元、ハンガリー事件に対してはソ連や中国の受け売りで「アメリカ帝国主義の挑発に基づく反革命事件」と非難、ソ連軍による鎮圧を「プロレタリア国際主義の現れ」(宮本)と賛美したのであった。
また、「五〇年問題」に公式に決着をつけることが新綱領制定にあたっては不可避となり、宮本らは党章草案に続いて同年11月に「五〇年問題について」を発表した。しかし、この文書は問題を徳田前書記長の「家父長的指導」や「派閥的指導体制」の誤りに矮小化、責任をあげて徳田と所感派に転嫁し、国際派=宮本の無謬性と正統性を立証するという意図の下に編纂されたものであり、「資料集」からは国際派幹部が徳田主流派に提出した「自己批判書」(自らの分派行動を認め、党復帰を懇願したもの)など自分に都合の悪いものはすべて省かれていた。
こうして思想的にも組織的にもスターリニズム的な自らの体質に全く無反省のまま、宮本らによって起草された党章草案が五一年綱領の手直し以上のものでなかったのは当然であった。さすがに五一年綱領にあった「占領軍による全一的な支配」、「絶対主義的天皇制」といった一見してナンセンスな規定は取り除かれていた。しかし、それに代わる規定は次のようなものであり、当面する革命を民族解放民主革命であるとする骨格はそっくり温存されていた。
「現在、日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義と、それに従属的に同盟している日本の独占資本であり、わが国は、高度な資本主義国でありながら、アメリカ帝国主義に半ば占領された事実上の従属国となっている」
党章草案はここから当面する革命を「民族の完全独立と民主主義擁護のための人民民主主義革命」(宮本の『日本革命の展望』によれば「民族解放と民主主義の徹底をおもな任務とする革命」)と規定した。
このため、党章草案が発表されるや、これに対する批判が噴出し、いわゆる綱領論争が始まった。当時全国の党員の3分の1近くを占めていた東京都委員会は草案を「アメリカ独占資本の権力という亡霊にしがみつき、これを過大評価する保守主義」と批判、「日本で国家権力を握っているのは日本の独占資本だ。したがって、これを打倒する社会主義革命が、わが国の唯一の革命である」という見解を対置した。
しかし、同時に彼らは「われわれは、……すぐさま社会主義革命のための直接的闘争をやろうとは考えない。当面の闘いとしては、構造的改良を中心とする平和と独立と民主主義と生活の向上をめざす革命的改良の闘いを考える。民族の完全独立は、この革命的改良の闘いの中で、またその一つとして貫徹される」と主張した。いわゆる構造改革路線で、党章草案の偏狭な民族主義に対するブルジョア改良主義的な立場からの批判でしかなかった(この綱領論争の中では東大学生細胞などからこれとは別の観点からの批判がなされ、ブントの結成へとつながっていくのだが、これは次回にみることにしよう)。
こうした中で、第七回党大会が58年7月に開催されたが、構革派を中心とする草案反対派が4割近くを占めたため、党章草案は党規約の部分を採択したにとどまり、綱領部分は次期大会に持ち越しとなった。
■■■宮本体制の確立と現綱領の採択■■■
第七回大会から60年安保闘争をはさんで第八回大会に至る3年間は、新しい党規約を武器に、中央委員会の多数を制した宮本派がスターリニスト特有のあらゆる陰険・卑劣な手段を弄して、反対派を切り崩し、党組織を官僚的に統制し、批判を封じて自らの専制的な支配体制の確立に狂奔していった時期であった。
宮本派がまずやったことは新規約に基づく地方指導部の選出で、党中央に異論を持つ幹部に「自由主義的分散主義」、「統制違反」の口実で「自己批判」を迫り、指導部への立候補資格を奪い、自派幹部を送り込む(都委員長には春日正一が天下った)などして反対派を徹底的に追放した。
また「マルクス・レーニン主義理論の発展は、今日では党の中央委員会と別個におこなえるものではない」(『アカハタ』、59年9月26日)と主張し、綱領路線に対する党員や下部組織による自由な討論や批判を事実上封殺するとともに、党章草案の綱領部分をすでに既定のものであるかに扱い、党員は黙って「党員倍加運動」や機関紙拡大に奔走すればいいのだという態度であった。
そして、この民族主義路線にもとづいて「安保改定は岸内閣の“売国の陰謀”」等々とわめき散らし、60年安保闘争に際してどんなに反動的で有害な役割を果たしたかは前回みたとおりである。
こうして党員の公然たる民主的な討議の場を奪いつつ、宮本らは61年3月の中央委員会総会で44名中10名の反対・保留を押し切って、党章草案に部分的な手直しを加えた「綱領草案」を決定、草案は4カ月後の第八回大会にかけられることになった。
そして、この時も綱領草案の討議の目的は草案の「正しい理解」によって各自の誤りをただすことにあるという驚くべき見解を発表(『アカハタ』、61年6月12日)、「反対意見を地方党組織の刊行物に発表してはならない」と通達した。また代議員の選出でも、綱領草案反対者は機関として代議員に推薦できないという「指導」を貫徹、最後まで官僚統制の手を緩めなかった。
こうして反対派を一人残らず排除し、あるいは離党に追い込んだ上で、61年7月に開かれた第八回大会での討論は宮本翼賛発言に終始し、新綱領は「満場一致」で可決をみたのである。
宮本綱領の詳細な批判はあらためて展開するまでもないだろう。ここでは簡単に次のように指摘するにとどめたい。
新綱領が採択された1961年といえば、10年前の講和条約で基本的に独立を達成し、また前年の安保条約改定でアメリカとのより対等な地位を獲得した日本独占資本が、岸内閣の後を受けた池田内閣の下で急速な経済発展を勝ち取り、貿易や資本の自由化によって国際市場に乗り出そうとしている時であった。もはや日本を支配しているのが日本の資本家階級であることは誰の目にも明らかであり、したがって労働者階級の革命闘争の目標が資本の支配の打倒と社会主義の実現にあることもまた明白であった。
ところが新綱領はこの明白な事実を否定し、労働者階級の当面する闘いの目標が「アメリカ帝国主義と日本独占資本の二つの敵」に反対して、「民族の真の独立と民主主義を実現する」ことにあるというのだ。これは労働者の階級闘争、革命闘争を民族主義の間違った方向にねじ曲げ、その本当の目標すなわち何千万労働者大衆を搾取し、抑圧し、労働者大衆の苦しみの根源になっている資本の支配からそらせることで、ブルジョアジーをこのうえなく助けるものであった。
それはまた戦前には三二テーゼなどによって天皇制絶対主義のお化けを持ち出して労働者階級を社会主義をめざす闘いからブルジョア民主主義の方向にそらせたのと同じ犯罪的な役割を果たすものであった。戦前の絶対主義天皇制が今度はアメリカ帝国主義のお化けに置き換えられたに過ぎない。両者はまた民主主義革命から社会主義革命へといった二段階革命論や、統一戦線戦術などスターリニズムの典型的なドグマに依拠したものである点でも同一であった。
こうして新綱領の採択は日本共産党を戦前に続いて戦後も労働者階級の闘いを歪曲し、解体に導くだけの最悪の日和見党派たることを運命づけたのである。
■■■ブルジョア的な退廃と堕落の全面開花■■■
マルクス主義と現実の科学的分析に基づかない新綱領の宗派政治は実践に移されるやたちまち労働組合運動や原水禁運動など大衆運動におけるセクト的分裂策動となって現れたが、六四年の春闘におけるスト破りは共産党の綱領路線の反労働者的本質を如実に物語るものであった。
この年の春闘では公労協が4月17日に賃上げで半日ストを構えていた。ところが共産党はこのストライキが「反米愛国闘争」を課題に掲げていないことから、「ストの笛を吹いているのはアメリカ帝国主義であり、日本の売国反動組合内分裂主義者であり、全体として反共的謀略と挑発的スト」であるとの悪名高い四・八声明を発して、スト破りに乗り出したのである。
後に共産党は「自己批判」したが、その内容は、宮本らが海外にいて「幹部会の集団指導が弱められている時に」、幹部会員の一人が「綱領路線」から「逸脱」してたまたま犯した「誤り」に過ぎないという徹底的に欺瞞的なものであった。しかし、この労働組合運動への敵対は決して偶然ではなく、彼らの民族主義的な綱領路線の必然的な帰結であった。
さて時にはソ連、時には中国に盲従してきた日本共産党は70年代に入ると「自主独立路線」を盛んに強調するようになったが、それはこれら両国共産党の「内部干渉」で宮本体制が危うくなるのを恐れてか、両国の露骨な帝国主義的行動を弁護できなくなった結果に他ならない。
ところが他方ではその後も両国は全体としては社会主義体制であると美化し続けて来たのであり、スターリン以降のソ連の体制を社会主義ではなかったと否定したのはようやく十年ほど前にソ連が崩壊した後に過ぎなかった。しかも、今なお、スターリン体制にどんな歴史的科学的な規定も与えることができず、せいぜい「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪」とかの道徳的非難の金切り声を浴びせることしかできないのだ。
またハンガリー事件などの評価の「誤り」を認め、再評価を公式に行ったのも事件から三〇年以上を経た八八年であり、共産党以外の人々にとってはとっくの昔に真実が明らかになってからに過ぎない。大した「前衛政党」もあったものである。
共産党の民族民主革命論は、日本がブルジョア的、帝国主義的大国へと成長するにつれて、その空虚さと観念性、その破綻を決定的に暴露されることになった(革命の課題とされた小笠原や沖縄の返還が自民党政権の手であっさりと実現されてしまったことをみよ)。そして彼らの民族主義的主張が何か現実的な意味を持つ時には、それは帝国主義ブルジョアジーの民族主義や国家主義を尻押しする全く反動的なものでしかなくなった(「民族固有の自衛権」の擁護、国旗・国歌法制化の提唱、対米強硬外交、保護貿易等々の主張をみよ)。
こうして彼らは一方では相変わらず現実離れした荒唐無稽な「対米従属」のドグマを振り回しながらも、他方ではこの間ますます資本主義体制に順応し、70年代半ばの「自由と民主主義の宣言」の採択に象徴されるように、小ブルジョア民主派として純化する道をたどってきた。
そして今ではブルジョア的現実主義をいっそう深め、「ルールある資本主義」や「資本主義の枠内の民主的改革」しか唱えない全くの漸進的な改良主義政党に成り下がってしまった。それどころか、民主党といった純然たるブルジョア政党と組んで政権の座にありつこうと、最近では安保・自衛隊や天皇制の公然たる容認へと踏み出そうとしている。彼らはかつて安保に賛成か否かが「革新の試金石」と言ったものだが、この基準を適用すれば、今や彼らは「革新」の立場をさえ投げ捨てようとしているのだ。
もちろん、このような共産党の恐るべきブルジョア的な退廃、堕落は決して偶然ではない。それはスターリニズムの内的なブルジョア的本性が全面開花したものに他ならないのである。
13.新たな労働者党の結成目指して
……60年ブントから社労党まで……
■■■ブント結成の背景とその歴史的功績■■■
1958年12月、「革命的左翼の政治的結集」を掲げて、共産主義者同盟(ブント)が誕生した。ここに初めて公認のスターリニスト共産党に代わる新たな革命的労働者政党をめざす闘いが公然と開始された。これは日本社会主義運動史上に時代を画する大きな歴史的な出来事であった。
すでに見たように、これに先立つ3年前の1955年7月、日本共産党は六全協で分裂状態に終止符を打ち、組織の統一を回復した。しかし、旧主流派・所感派と新主流派・国際派との野合による党中央指導部のその後の動きは党の革命的再生をめざす誠実な党員たちの期待を全く踏みにじるものであった。
翌56年のソ連共産党第二〇回大会におけるフルシチョフによるスターリン批判、またこれを契機にしたポーランド、ハンガリーにおけるスターリニスト共産党の支配に反対する民衆の決起は、日本のスターリニストたちにも自分たちの思想と理論、組織と運動に根底からの深刻な総括と反省を迫るものであった。しかし、宮本顕治らは何一つ真剣に自己切開のメスを加えようとはしなかった。
それどころか彼らは、ハンガリー民衆の蜂起を帝国主義の陰謀とののしり、ソ連の戦車による反乱鎮圧を「プロレタリア国際主義の現れ」と賛美するとともに、スターリン批判を「個人崇拝」や「家父長的指導」などに矮小化し、これらはすでに自分たちにとっては六全協で一足先に解決済みと居直り、あまつさえ党内問題を党外に持ち出したハンガリー党の無規律が帝国主義者の反革命的介入を許す一因となったとの口実の下に党内の官僚的統制の一層の強化に乗り出す始末であった。
そして、翌57年9月に発表された「党章草案」は五一年綱領を手直ししたに過ぎない「対米従属」論と「二段階革命」論のドグマに基づく「民族民主革命」という典型的なスターリニズムの民族主義的綱領であった。
こうした中で、俄然、スターリン批判やハンガリー事件、新綱領路線をめぐって激しい論争が巻き起こった。党中央批判の一方の火の手は構造改革派からあげられ、他方ではこれとは全く別の観点から東大などの学生細胞に所属する党員たちからあげられた。
58年1月、東大細胞機関誌『マルクス・レーニン主義』の山口一理論文でのろしをあげた学生党員たちは、5月には反戦学生同盟を社会主義学生同盟(社学同)に改称、続く全学連第一一回大会では党中央派を押し切って主導権を確立、大会翌日に党本部で開かれた全学連大会党員グループ会議では「第七回大会では、現在の党中央委員会を不信任するよう要求する」との決議を採択した(六・一事件)。一方、これに対して、宮本らは卑劣にも大量の除名処分をもって答えた。
ここに至って、学生党員らは公然たる分派闘争と新組織結成への動きを強めていく。9月には機関紙『プロレタリア通信』が創刊され、その第一号は現在の共産主義者の任務は「何よりも革命的前衛党のための粘りづよい努力を展開すること」にあると宣言した。そして、全学連もまたその闘いの一翼を担った勤評闘争、警職法闘争の大衆的な高揚を背景に、彼らは同年12月、共産主義者同盟(ブント)を結成したのである。
翌59年1月に創刊された機関誌『共産主義』第一号の、ブント結成宣言とも言うべき巻頭論文「全世界を獲得するために――プロレタリアートの焦眉の課題」は「社会主義革命の成功を導く能力を持つ革命的前衛を結集せよ」と高らかに呼びかけた。
「このような1959年の現代についての検討から導かれる結論はなにか?
それは世界資本主義の危機の成熟であり、この危機を逃れでる道、世界プロレタリア革命と共産主義の勝利の客観的諸前提の成熟であり、そして、この前提の存在にもかかわらず国際共産主義運動の勝利を阻害しているプロレタリアの指導部の危機による人類の歴史的危機である。
そしてこの指導部の危機の克服の道は、ただ一つ――一切の公認の共産主義運動の指導部に対するあらゆる幻想からプロレタリアートを解き放ち、真の革命的マルクス主義の再生にもとづいた革命的左翼を独立させ、このもとに革命的労働者を結集させることによってのみなされるという結論である」
ブントの歴史的な意義――それは、数十年にわたって世界と日本の労働者階級の運動を支配してきたスターリン主義の呪縛からの解放を公然と宣言し、「社共に代わる新たな革命政党の結成」を提起したこと、そして結成と同時に直面した安保闘争を「帝国主義的自立への第一歩を踏み出した独占資本に対する労働者の階級的闘い」と位置づけ、実践的にもこの闘いを領導することによって共産党の醜悪な民族主義の反動性を徹底的に告発し、長年の「前衛党神話」を打ち砕いたこと、まさにここにこそあった。
ブントのこの歴史的功績はどんなに強調しても強調しすぎることはないであろう。
■■■ブントの解体、その後の新左翼運動■■■
しかし、ブントのこの壮大な革命的夢想は安保闘争の終焉とともに挫折する運命にあった。安保闘争の直後、六〇年の夏から秋にかけて、ブントはこの闘争の総括をめぐり混乱と対立の坩堝と化し、四分五裂の状態に陥って、あっという間に組織的にも崩壊を遂げてしまった。
安保闘争の渦中では隠されていたブントの小ブルジョア急進主義的な思想と運動の本質を闘争の終了は一挙にさらけだしたのであるが、どの分派もその限界をマルクス主義的に止揚し、新たな展望を切り開いていくことができなかったからである。
実際、安保闘争の敗北は闘争の末期に国会突入などの激しい戦術を回避した指導部の日和見主義にあったとするウルトラ急進主義の「革命の通達」派や、革共同黒田派の観念的な「主体性」論に基づく小ブルジョア急進主義批判に屈服してブントの清算主義的な全否定に走った「戦旗」派はもとよりのこと、ブントの伝統を守るという立場から総括を呼びかけた「プロレタリア通信」派にしても何ら確固たる明確な方向を指し示すことはできなかったのである。
誕生と同時に安保闘争に突入していくという当時の情勢の中で、それを要求することは物理的にいささか酷という側面はあるにしても、マルクス主義のしっかりした革命理論に立脚して組織と運動を作っていくという意識がブントには最初から希薄であり、それがブント主義の本質的な側面をなしていたことは、先に引用した結成宣言的な「全世界を獲得するために」の次の一節からも明らかである。
「思想と、理論と綱領との単なる論争によってのみ、創造しようとする、ブルジョア的なおしゃべりグループが呟く組織の前に綱領を、行動の前に綱領を、という言葉に反対してわれわれは、日々生起する階級闘争の課題に応えつつ、その実践の火の試練のなかでのみ、プロレタリアート解放の綱領が生まれでよう。われわれは闘争の保障を『戦略規定』ではなく、諸階級の相互関係のうちに求める、と答える」
なるほど、これは確かに黒田派や構革派などの痛いところを衝いてはいる。しかし、全体としては行き過ぎである。「実践の火の試練のなかでのみ、プロレタリアート解放の綱領が生まれでよう」というのも一般的には正しい。しかし、彼らの言う「実践」とは勤評や安保といった「日々生起する」民主主義的平和主義的な諸闘争に他ならず、広い意味でのプロレタリアートの歴史的革命的な実践ではないのである。これでは日常的な諸闘争を戦闘的に闘っていけば、革命的な綱領や立場が自然に獲得されるとする組合主義・経済主義の一種でしかないだろう。
実際、彼らがマルクス主義的な革命理論をどんなに軽視していたかは、当時のブント書記長の島成郎が回想録で、当時はトロツキー主義はもとより実存主義であれ、プラグマティズムであれ、利用できるものは手当たり次第に取り入れていたという貴重な証言を残していることからも明らかである。そして、ブントの綱領的文書と言われた姫岡玲治の「国家独占資本主義」論にしてからが俗流経済学の典型である宇野派の「三段階」方法論に依拠したものでしかなかったことに、ブントの無理論主義あるいは思想的雑炊状態は象徴されていた。
加えて、「学生運動」=労働者の階級闘争の「同盟軍」、「先駆性論」である。つまり学生による闘争の激発で「ショック」を与えることにより労働者階級を革命的な闘いに立ち上がらせるという、その後の新左翼運動も一貫して信奉してきた典型的な小ブルジョア急進主義の“理論”である。
これでは安保闘争のさなかにあっては何とかやっては行けても、それが終わればその後どうやっていっていいのか展望を見失うことは初めから明らかだった。ブントの崩壊はこうした小ブルジョア急進主義の行き詰まりと破綻の必然的な帰結であった。
そして、ブントの崩壊後、「戦旗」派は丸ごと、「プロ通」派はその一部が革共同に救いを求めて「乗り移り」、同派は一時的に水膨れしたが、その彼らも63年には旧ブント派を中心とした卑俗な実践主義を唱える中核派と、「反帝・反スタ」のお題目の下に「革命的な自己変革」と「主体形成」に基づく革命党の建設という独特な宗派主義に立脚した革マル派へと分裂。また、60年代初頭にはローザ主義を掲げ、労働者階級の自然発生性を重視せよと叫ぶ社青同解放派(革労協)が新たに登場し、66年にはブントの流れを汲む諸派によって再建ブントが誕生、これにトロツキー派の第四インターが加わって、日本の新左翼運動は展開されていくのである。
彼らはセクト的な分裂と統一、離合と集散を目まぐるしく繰り返しながら、全共闘運動や反戦青年委員会運動などとも結び付き、日韓闘争、ベトナム反戦、学園闘争、70年安保、沖縄闘争、三里塚闘争などを繰り広げてきた。しかし、彼らやってきた運動は60年ブントの急進主義的な政治闘争をいっそう急進化させた「革命ごっこ」以上のものではなかった。それは社共の平和主義的、民族主義的、民主主義的な政治(労働組合運動では組合主義や経済主義)の水準を本質的に一歩も超えるものではなかった。彼らの運動はせいぜいのところ、ブルジョア的な腐敗と堕落を深める社共の日和見主義に対する“左”からの“罰”、あるいは補完物としての意義を持ったに過ぎなかった。
70年代半ばにさしかかるや、彼らはその空虚な急進主義の生命を使い果たした挙げ句、一方ではマンガチックな連合赤軍による浅間山荘銃撃事件に行き着いたこと、そして革共同両派や社青同解放派が陰惨な内ゲバ、テロルにのめり込むに至ったこと、さらに最近では第四インターやブント戦旗派の諸君が情けなくも完全に市民主義者の尻尾に成り下がってしまったこと――これこそ新左翼運動の不毛性と破産を最終的に暴露するものでなくて何であろう。
レーニンはロシアの革命運動を始めるにあったって「正しい革命理論なくして、革命運動はありえない」と喝破し、終生それを強調したが、社共はもとより、ブントの、そしてブントの亜流の新左翼運動の破綻はマルクス主義的な革命理論を軽視したことの報いである。そして、これこそは戦前、戦後を通じての日本社会主義運動百年の歴史が繰り返しわれわれに教えている貴重な教訓でもある。
■■■全国社研、マル労同から社労党の結成へ■■■
さて、こうして安保闘争の終焉とともにブントの英雄たちが無責任・無節操にも、あるいは新左翼運動に安易に鞍替えし、あるいは自己の階級的地位にしたがって大学やブルジョア社会に復帰していくなかで、ブントの理想を継承しつつ、その小ブルジョア急進主義を止揚し、マルクス主義に基礎をおく労働者政党の結成を追求する少数の人々があった。「プロ通」派―「共産主義の旗」派の流れを汲む林紘義らのグループである。
彼らは新左翼流の皮相で空虚な大言壮語を退けて、「革命理論なくして革命運動なし」の立場に立って、63年12月には革命的サークル、全国社会科学研究会を組織、真にマルクス主義的な革命的理論に立脚した革命政党の創出をめざし、その理論的、組織的、実際的な準備を行うための地道な活動に乗り出した。
全国社研は理論誌『科学的共産主義研究』によって理論的な成果を発表するとともに、66年にはレーニンの『イスクラ』に因んだ新聞『火花』を創刊、さらにビラやリーフレットの配布などによって先進的な労働者や労働者グループへの働きかけを追求していった。
彼らはスターリニズムによって歪曲され、改竄され、投げ捨てられたマルクスやレーニンの革命理論を復元し、それに基づいて日本と世界の現実と階級闘争を分析し、日本における社会主義革命実現に向けての客観的、主体的な条件を明らかにしていった。
この間の理論的成果としては、1848年の革命以来の国際的な社会主義運動・労働運動の歴史を総括して「二段階革命論」や「統一戦線戦術」の誤りを明らかにしたことなどもさることながら、何よりも特筆すべきは、一般に「社会主義」と呼ばれているソ連や中国の体制は何なのかという“二〇世紀最大の謎”を解明し、それが一種の資本主義=国家資本主義の体制に他ならないこと、そしてスターリニズムとはその上部構造に他ならないことを明らかにしたことである。これによって初めてわれわれは世界史の現段階と世界体制を正しく把握するカギを得たのである。
この10年近くに及ぶ集団的研究の成果は72年に結成されたマルクス主義労働者同盟(マル労同)の綱領となって結実した。そして、ここに日本の社会主義運動史上初めて真にマルクス主義的な革命理論と現実の科学的な分析の上に立脚した綱領を持つ労働者の革命的政治組織が誕生したのであった。
マル労同は「左右の日和見主義反対!」のスローガンのもと(すなわち社共の右の日和見主義はもちろんのこと、急進派の左の日和見主義にも反対して)、工場・職場、地域において、また労働組合運動をはじめとする労働者の大衆運動のなかで、労働者階級の現実的な利益を守る闘いの先頭に立つとともに、機関紙誌を武器に宣伝、扇動、組織化の粘り強い闘いを展開していった。
それとともにまた、結成2年後の74年、参議院選全国区に候補者に立てて闘ったのを皮切りに、その後も、77年参院選、80年衆参同日選挙に参加。資本と日和見主義者の政治と具体的に切り結ぶなかで、彼らを徹底的に暴露し、公然たる革命的社会主義的な呼びかけを貫徹していった。議会選挙を利用して労働者の階級的自覚と組織化を促す闘いもまたブルジョア民主主義国家の下で、それに適応した労働者党の革命的政治闘争の重要な一環であることはいうまでもあるまい。
1984年、労働者大衆といっそう緊密に結びついた労働者政党の建設をめざしマル労同を発展的に改組して結成された社労党(社会主義労働者党)のもとでも労働者大衆の中で機関紙誌を軸とした原則的な闘いを推し進めるとともに、引き続き地方選や国政選挙への参加が積極的に取り組まれ、確認団体として参加した86年および89年の参院選挙では、比例区で15万票を獲得した。
社労党は組織的には今だ眇(びょう)たる存在でしかない。しかし、社会党の消滅、共産党の底知れないブルジョア的な堕落の深化、新左翼運動の退廃と衰滅といった現状を見るならば、労働者階級とその幾多の先駆者たちが営々として築いてきた日本社会主義運動百年の歴史の大道に立っているのが誰であるかは明白であろう。
来年は幸徳秋水らによって日本で最初の社会主義政党=社会民主党(即日禁止)が結成されてちょうど百年の節目に当たる。われわれこそはこれら先人たちの始めた事業の真の後継者であるとの自負と確信の下に、新世紀に向けて飛躍を期し、決意を新たに前進を開始しよう。(了)
(町田 勝)
「海つばめ」735号(1999.7.25)〜783号(2000.7.23)