今月からしばらく「世界の労働運動の歴史」を連載します。単なる“編年史”でなく、特徴的な労働連動を、現代的教訓の視点のもとにとりあげていきます。執筆担当は、田口、I両中執です。

 ラダイトの反乱

 労働者の資本家に対する最初の積極的な反撃はラダイト(機械打ち壊し)である。
 18世紀半ばよりイギリスに始まった産業革命は資本家には巨万の富をもたらしたが、労働者を極貧、窮乏状態につきおとした。労働者は、女性、幼児を含めて、一日12〜16時間もの長時間の苛酷な労働を強制され、しかも受けとる賃金は餓死を辛じてまぬがれるものにすぎなかった。しかもこの職場さえ、相次ぐ機械の導入のためにいつ失なうか分からない状態であった。
 労働者がこのような状態に不満を抱き反抗していったのは自然の過程であった。彼らは、自分達の前にある目に見える敵、機械こそ、労働者の失業等一切の不幸の源泉であると考えたのである。機械さえ打ち壊せば、普のギルド職人のような生活が回復するだろう、と彼らは考えたのである。
 機械打ち壊しは18世紀後半から19世紀初めまで存在するが、組続的な形をとってこの反乱が大々的に展開されたのは1811〜12年である(ラダイトとは普通この2年間の反乱を言う)。この運動の指導者は「ネッド・ラッド」と言われている。その真偽は明らかではないが、この運動が組織的に展闘されたことは確かである。打ち壊しの対象は労働者を職場から追放しつつあった織物機械が中心であり、時には工場自体も破壊された。このラダイト反乱は多くの労働者の同情と支援を呼び、織物工、紡績工のみならず、全職種にわたる労働者のカンパが寄せられたという。さらには下級兵士からもカンパの拠出があったそうだ。
 この反乱は機会そのものの破壊を目的とするもので、資本家などへの暴力行為は抑制されていた。だが、資本家側の激しい突き上げを受け、政府はこの運動を弾圧し、参加者の現場射殺、逮掃を強行した。1813年のヨークでの集団裁判で多数の絞首刑、強制移送が行なわれ、公然たるラダイト運動は鎮圧されてしまった。
 この2、3年後の15〜16年に機械打ち壊し運動がより大規模に勃発した。今回は特定の機械だけでなく、すべての機械、工場がその対象になった。工場全体、工場制度全体がおぼろげながら反乱者の視野に入ってきはじめていたのである。
 機械打ち壊しの運動は15〜16年の反乱をもって幕を閉じる。政府は機械打ち壊しを重罪と定め、労働者を残酷に迫害したが、労働者の側も運動の限界を認識していったのである。機械を人間(労働者)の血と引き換えに守るのが誰か、は多くの犠牲を経た後では明白だった。機械そのものよりも、機械を使って労働者を苦しめている人間が、制度が問題とされなけれはならないのだ。さらにまた資本家や政府が組織的に労働者を支配し、反乱も鎮圧する現実は、労働者に単なる一揆的な反抗の限界を認識させることになった。
 ラダイト運動が“組織的”に展開されたとしても、その内容自体は自棄的、自然発生的感情を根底とするものであった。反乱の結末は明らかだった。だがこの反乱を通して、労働者は真の敵は何か、いかに闘っていくべきか、という階級的自立の契機をつかんだのである。アメリカ、フランス、ドイツ、ベルギー等の後進資本主義国の労働者が同じテツを踏まなかったのは、彼らがイギリスの労働者から十分に学んでいたからであった。
 現在でも機械導入そのものが労働者の不幸の原因であるかの急進主義者の主張があるが、この意味ではラダイトの運動の反省は現代的意義をもつ。(I)

 オウエン主義と全国労働組合大連合

 団結権のための闘争、19世紀初期の工場テロルに対する闘争を通じ、イギリスの労働者は政治的及び経済的闘争の闘いを前進させた。労働者は自衛のために闘ったばかりでなく、資本主義制度を克服することを自らの運動の目標に掲げるに至った。
 労働組合を生産協同組合につくりかえることによって、資本主義から社会主義へ平和的に移行しうるという空想的社会主義者オウエンのよびかけは、労働者大衆の運動と結びつき、1834年2月の大ブリテン・アイルランド全国労働組合大連合結成にその頂点を見いだした。
 オウエンが会長となった全国労働組合は、分散的、地方性を特性とした職業別組合とは対照的に、男女を問わず全労働者を結集した、全国的中央集権的な労働組合をめざした。それは単一の労働組合の典型として、最初にして、最大のものであった。
 この組合の目的は、次のように謳われている。「組合の目的は、まず第一に労働者の賃金を高め、並びに、労働時間の短縮にあるが、その偉大な究極の目標は、社会における最も有益にして聡明なる人々のみが指導権をにぎるような『社会の新秩序』を実現することによって、勤労と人間性の至高の権利をうちたてること」である、と。
 オウエンの影響下に発足した大連合は、労働者の統制による協同組合組織によって資本主義と競争制度を克服すること、さらに議会と地方行政体にとって代わり国の政府となることを目ざしていた。
 大連合は結成されるや、賃金、労働時間、団結権をめぐって全国にまきおこったストライキの大渦の中にまき込まれた。この急速な労働連動の成長に恐怖した政府は、大連合を、その秘密誓約を口実として犯罪として弾圧し、資本家もロック・アウトを行い、労働者に組合員にならないことを強制した。
 大連合は、政府・資本の一体となった攻撃に対して、大衆的な抗議行動を成功させはしたが社会の新秩序を樹立するということでは積極的なことをなしとげることはできなかった。
 大連合は、平和的・消極的抵抗としてのゼネラルストライキで、労働組合の活動のみによって、資本主義を打倒しうるという、数十年後のサンジカリズムの先駆ともいうべきものであった。労働者ばかりではなく、資本家の協力をもって、協同組合を設立し、平和的に資本主義を克服する、というオウエン主義の立場からして、大連合のオウエン派の指導者たちは、嵐のような労働者階級の闘争の発展に直面したとき、この闘いを指導することが出来なかった。闘争に立ち上った労働者に対して、力とストライキに訴えることによって、労働者は誤った道にふみこんだ、資本家は説得すべきであり、強制すべきではない、とオウエンは公言した。争議を否定する声明がだされ、ストライキの承認は拒絶された。階級闘争、ストライキ闘争を否定するオウエン派は労働者の支持を失い、大連合は急速に崩壊に向った。大連合はわずか一年たらずの生命に終わり、34年末までには全国組織としては消滅してしまった。
 労働者階級の政治闘争、階級闘争を否定するオウエン主義は無力であった。協同組合(消費組合と生産組合)によって資本主義を克服するという計画は彼らの「交換所」の破綻によって幻想であることが実証された。資本主義的生産・競争はそれを圧殺してしまったのである。
 オウエン派労働連動の経験は労働者が資本家階級の政治支配を打倒し、自らの権力を樹立し生産手段を社会の手に移さなけれぱ、資本主義を克服し、社会主義を実現することが出来ないことを教えている。(G)

 熟練工の組合「新型組合」

 1840年代末から60年代にかけて、イギリス資本主義は「躍進に躍進を重ね」る急速な成長、拡大の時期であった。イギリスは世界の生産の30%を独占して「世界の工場」としての地位を確立していた。
 労働者の組織も、この間に著しく前進した。この時期には、世界におけるイギリスの工業独占を基礎に、労働貴族が形成された。当時では、熟練工がなお重要な地位を占めており、さらに工業生産の急速な拡大の下で熟練工に対する需要が急増したため、有利な立場に立つことができた。ブルジョアジーは、それら熟練工に対して紛争をおこすよりは、世界の工業独占からあがる超過利潤の一部をさいてかれらを買収した。こうしてイギリスには植民地や国内の未熟練、低賃金労働者を犠牲にして超過剰潤のわけまえにあずかる「労働貴族」が形成された。
 こうした状況にくわえて、イギリス労働運動は、チャーチズムの運動の敗北の影響もくわわって右傾化を示した。暴動と変革ではなく、階級協調が唱えられた。「挑戦でなくて防戦」が組合スローガンとなったがそれは手工業者の既得権を擁護することを意味した。同様に「公正な労働に対する公正な賃金」の原則も、資本主義の秩序をそのまま受け入れ、体制内改良だけを目的とするものであった。イギリスの労働運動はサミュエル・ゴンパースがのちに「純粋・単純な労働組合主義」とよんだ時代に入った。
 この時期の典型的組合は、51年に地方のいくつかの職能組合の合併によって結成された合同機械工組合であった。
 新しい組合の中心的な地位を占めたのは、それまでの手工業職人と不熟練労働者ではなく、工揚制工業の熱練労働者=労働貴族であった。組合は、かつての資本との闘争に代えて、資本との協調をもってした。かれらは、「その労働がもたらす利潤の公正にして正当な分け前」以上のものを要求しようとしなかった。組合は、資本主義を肯定し、その枠内での熟練労働者の生活と労働条件の改善を主目的とし、そのために、労働力の供給を制限しようとして、徒弟の制限による熟練労働者の数制限、トランピング・システム(組合員を遍歴させることによって、一地方の熟練労働者数を一定数以下に保つ)の採用をおこなった。高額の寄附によって蓄積された基金は失業等共済扶助の財源にあてられた。組合加入は厳しく制限され高額の組合費を徴収することによって、半熟練、未熟練労働者は組合から締めだされた。
 組合は、それまで地方分散的で、ゆるい結合から、中央集権的な組織に移行した。有給の組合常任をおき、組合事務所と組合財政を確立したのもこの組合であった。
 資本主義との闘争を放棄し、組合員を熟練労働者だけに制限し、もっぱらかれらだけの利益の追求にふけり、労働者階級全体の利益を忘れた組合、全国的な中央集権組織をつくりあげ、膨大な共済制度をつくりあげた組合、「新型組合」は、ストライキ闘争を回避しようとし、また、労働者の政治行動をこばんだ。労働者の独自の政党をつくろうとする努力は、自由党(=自由主義的ブルジョア政党)追随によって放棄された。
 エンゲルスが、労働運動の40年の眠りと称した、熟練工の組合運動の時代も、労働組合運動の歴史から見れば、一時期にすぎなかった。熟練労働者の組合の隆盛も、イギリス資本主義の繁栄の結果であり、世界の工業を独占したことによって熟練労働者が特殊な地位を一時的に確得したことの帰結であった。
 アメリカ、フランス、ドイツ等の資本主義的発展によるイギリスの独占の地位の後退、生産力の発展等々によって「労働貴族」の階級協調的な排他的労働組合運動はやがて没落し、半熟練、未熱練労働者を結集する労働組合運動にとってかわられることになる。 (G)

 労働組合と政党
■1860年代独の「全独労働者協会」

 ドイツにおける産業の未発達を反映して、ドイツの労働組合運動の形成・発展は1840年代後半からであった。印刷工とたはこ製造工を中心とする全国的な組織形態(「労働者友愛会」)が1848年9月に形成されたが、48年革命の敗北後の反動によって、組合もろともこの若い組織は一掃されてしまった。
 1850年代、60年代のドイツの産業発展は目ざましく、これと呼応して労働組合の形成やストライキ闘争が発展していった。反動の嵐の最中の、1854年7月に「政治的・共産主義的目的を追求する」労働組合、その他の団体は非合法化され、組合のストライキは厳禁となっていたが、ドイツ労働者は法律を突き破って前進したのである。
 職場・工場での労働組合の大量の発生と共に、全国的な労働組合組織の必要性が自覚され、1862年にイギリス労働組合を視察した労働者グループは帰国後その準備を始めた。彼らは準備の過程で“社会主義者”ラッサールとの接触を深めていった。1863年3月ライブチツヒで開かれた会議でラッサールを会長とする全ドイツ労働者協会が結成された。
 この全ドイツ労働者協会の著しき特徴は労働運動と政治運動の融合である。ドイツの労働者が視察したイギリス労働者運動が、チャーチズム以降ますます経済闘争に純化していたのと対照的に「協会」は政治を正面に揚げたのである。また、イギリスの労働運動が、政治的には急進ブルジョアジーを議会における利益代弁者としていたのに対し、ドイツ労働者はこの「協会」を自らの政党として発展させた。「協会」は労働組合と労働者政党を兼ねたような組織であった。
 労働者の政治闘争の重要性と、労働者の独自の政党の必要性を強調したのはラッサールの功績である。だが、「協会」は経済闘争と政治闘争を結合して労働者の闘いを発展させていったであろうか。否である。「協会」は労働組合の経済闘争を事実上否定し、政治闘争一辺倒となっていた。その政治闘争とは政府から援助をうける経済的協同組合の形成であり、それを可能にするための普通選挙権獲得運動であった。ラッサールは普通選挙権が獲得されれば議会の90%は労働者代表で占められると夢想していた。
 ラッサールは「賃金鉄則」を主張して労働組合の経済闘争を事実上否定したが、日常の生活改善の闘いを無視して何らかの政治的強制(ドイツでは協同組合)によって直接に労働者の解放を夢みるのは後進資本主義国の労働運動に見られる一般的特徴である。
 経済闘争と政治闘争の結合ということはマルクス・エンゲルスが第一インターの運動を通じて盛かんに宣伝したのであるが、「協会」によるその“結合”は、経済闘争を否定して、宗派的な政治を労働者におしつけるものであって、真の結合とは無縁のものであった。
 ドイツにおいて政治闘争と経済闘争、労働組合と政党の結合が正しく提起されるためには1869年の「協会」の分裂、ウィルヘルム・リープクネヒト、アウクスト・ペーペルに指導されるアイゼナッハ派、すなわち、社会主義労働党の登場までまたねばならなかったのである。(I)

 「新労働組合」運動の発展(19世紀末)
■労働貴族の組合から労働者大衆の組合へ
 1880年代に人ると、50年代以来のイギリスの熟練工組合は労働運動の発展を阻害する存在になった。
 アメリカ、ドイツ、フランス諸国は70年までに産業革命をなしとげ、世界におけるイギリスの産業独占は衰退した。このことは超過利潤のおこぼれにあずかっていた労働貴族層の労働条件に影響したし、またおこぼれにあずかることの少なかった一般労働者大衆の生活水準は一層圧迫されることとなった。さらに、生産技術の発展は、熟練工の地位を低下させ、半熟練・不熟練工の地位を高めた。
 こうした状況の下で、労働組合は「真に労働者階級の前衛として進まぬ限り」(エンゲルス)その組織力を維持することはできなくなってきた。しかし、職業別に組織された熱練工組合は、自分達の狭い職業的利益にのみ窮々としていた。「古い労働組合は排他的である。それは、ギルド的に修業していない労働者をすべて排除し、そのことで非ギルド組合がわの競争をおのずからつくりだしている。それは財政的にゆたかであるが、ゆたかであればあるほど、たんなる疾病金庫および埋葬金庫に堕してしまっている」とエンゲルスはのべている。
 労働者階級全体の利益を代表するものではなくなり、「無為にして傲慢」(ウェッブ)と評されるまでに堕落した熟練工組合にかわって登場したのが、社会主義者によって指導された不熟練労働者を結集した新組合運動であった。
 この新しい勢力の運動の先きがけとなったのは88年トム・マンなどの社会主義者によって指導されたマッチ工やガス労働者のストライキであった。これに続いて翌89年には歴史的なロンドン・ドック労働者のストライキが闘われた。かれらは、職業別組合の指導者達から無視され長い間劣悪な労働条件の下にあった。ストライキは臨時賃金の支払い要求をきっかけとしておこり、エリナー・マルクスやトム・マンらの社会主義者は「ドック労働組合」の結成をたすけ、ストを指導した。ストライキは4週間もつつき、またオーストリアから多額のストライキ資金がおくられるなどかつてなかったほどの国際的連帯によって支援された。長期にわたる階級的な闘い、国の内外の労働者の連帯によってドック労働者は賃上げ、最小限雇用時間(4時間)など要求をかちとり、勝利した。
 このストライキの勝利はこれまで旧労働組合指導者によって見すてられてきた広汎な未執練労働者の間に大きな影響をあたえ、未熱練労働者大衆を組織した労働組合が急速に発展した。
 ストライキの結果つくられたドック労働者組合は、ロンドンをはじめ主要な港にひろがった。ガス労働者組合は70以上の職種にわたって7万人を組織した。87年に結成された水夫・火夫組合は2年後には6万5千人を数えた。88年結成時3万6千人であった炭抗夫連盟は90年までには20万人を突破しようとしていた。印刷業ではこれまで無視されていた機械職場の職工たちは印刷労働組合を結成した等々。また労働組合会議は、85年の59万人から90年には147万人へと約2.5倍に増加したことにもみられるように労働者の組織化は急速な発展をみた。
 こうした発展は、古い職業別組合にも影響し、未熟練労働者にも門戸を開き積極的に組職活動をおこなうようになった。
 ニューユニオニズムと呼ばれる「新組合運動」は、労働組合運動を従来の特権的な狭い職業的基盤から、労働者大衆に基礎をおいた運動を展開した。
 新労働組合は、第二インターの89年のパリ会議で決定された8時間労働制の要求を掲げて、90年のメーデーには20万人がデモを行いその力を示した。次いで労働者大衆の闘いは、9月の労働組合会議大会では、八時間労働制を決議させ、これに反対する「オールド・ギャング」(古い連中)とよばれていた組合官僚のボス=フロードハースト書記長を辞任に追い込み、さらに94年には完全国有化の決議を採択するなど大きな前進を示した。(G)

 アメリカ労働運動とゴンパース主義

 アメリカ労働運動の全国的在規模での確立、発展は南北戦争以降である。南北戦争における北部の産業ブルジョアジーの勝利は、アメリカ資本主義の発展の大きな契機となり、19世紀末のアメリカ独占資本の確立へと一直線に進んでいく。
 南北戦争直後に生まれた全国的な労働組合の組織は全国労働者同盟(NLU)である。NLUの結成の直接の契機は戦争後の不況の下での資本の労働者攻撃に対する反撃の必要性からであったが、恨本的にはアメリカ資本主義が巨大な国土を自己の支配下に収め、工場制度を全国的に波及させていた現実である。
 NLUは南北戦争時の急進的影響の下に、人種、性、もしくは信仰にかかわりなく全労働者階級を組織することを目ざした。熟練労働者も未熟練労働者も、白人も黒人も組織化の対象であった。だが黒人労働者の組織化は実際には白人労働者の抵抗によって実現せず、結局黒人労働者は全国黒人労働者同盟(1869年、だがすぐに崩壊)のような別個の組職をつくるか、資本の苛酷な搾取に放置されるがままであった。
 NLUは「8時間労働制」や「女性の同一労働にたいする同一賃金」などの戦闘的な進歩的なスローガンを有していたが、幼稚な、反動的主張も宿していた。例えは、紙幣の増発による労働者の生活の改善という途方もない幻想である。また未所有、未開拓の西部の土地を労働者に配分するという、極めてアメリカ的な要求である。この要求自体は労働者大衆の欲求にそったものであるが、19世紀後半の産業ブルジョアジーの全盛期に、このような土地獲得によって「自由と富」を実現しうるという一般的幻想を容認していたのである。
 貨幣制度の修正や土地改革、さらに協同組合等に熱中するNLUは、労働組合本来の闘い、任務から離れていき、1872年の大会を最後に消滅する。
 このNLUを引き継いだのが1869年フィラデルフィアで結成された労働騎士団である。
 労働騎士団も、民族、信条、皮膚や熟練・未熟練等々に関係なくすべての労働者を組織し、「賃金奴隷制度の桎梏と運命から、富と生産者を完全に解放すること」を目標とした。
 19世紀後半のアメリカ独占資本が形成されていく過程は、資本と賃労働の血みどろの闘いが繰り広げられる過程である。1877年、94年の鉄道労働者のスト、73〜75年、94、1902年の炭鉱労働者のスト、92年の鉄鋼労働者のスト、85年の8時間労働日ゼネスト、その他金属鉱山労働者の武装スト、等々。労働者のストに軍隊が投入されることは珍しいことではなく、資本家、政府は民間暴力(ギャング等)だけでなく国家暴力装置を最大限に発動した。(労働者もライフル等で抵抗したが。)また権力はスト指導部をさまざまなフレームアップで逮捕し、絞首台に送った。(例えば炭鉱ストでは10人が絞首刑、86年5月1日の8時間労働日ゼネストの反乱は4名の絞首刑、等々)。
 このような戦闘的な労働者の闘いを背景として組合運動は発展していった。結成後停滞していた騎士団は70、80年代の労働争議の爆発のなかで、86年には組合員数80万人に達した。だが騎士団下部の戦闘性に反比例して指導部(会長・パウダリー)は、かつてのNLUと同じような貨幣改革、土地改革、生産協同組合、禁酒運動等々の空想的日和見主義的スローガンを労働者に押しつけ、資本家と労働者の調和を説くに到ったのである。
 1886年の8時間労働制のゼネストをパウダリーが裏切ったことは騎士団にとって致命的であった。騎士団は組織労働者の闘いの延長上にではなく、小ブルジョア的幻想の彼方に労働者の解放を求めていることが歴然となったのである。
 アメリカ労働総同盟(AFL)は81年六つの職業別組合、5万人で結成され、86年の労働時間8時間制のゼネストを指導することで労働者の支持を得、騎士団を圧倒し、組織を拡大し、労働運動の主流となった。
 AFL(会長ゴンパース)は騎士団の小ブルジョア急進主義的要素を排除して、労働組合(組織労働者)の闘争を重視した。AFLは8時間制のゼネストに示されるように戦闘的労働運動を展開して勢力を拡大したが、アメリカ独占資本の確立する1900年前後には、熟練工を中心とする労資協調の組合、労働貴族的組合へと純化されていった。ゴンパース主義とは後には労働運動の頽廃の象徴となった。
 アメリカ労働運動から小ブルジョア的幻想を排除したのはAFLの功績であるが、ゴンパースは労働組合の闘いをイギリス流の日常的利益(しかも熟練労働者のみの)の問題に矮小化し、労働者の恨本的解放の闘いを永遠の彼方に追いやったのである。ゴンパース、主義はアメリカ労働運動の一大特徴となった。勿論ゴンパースを生んだ背景には世界一の工業国になった米独占の超過利潤があったことは言うまでもない。(I)

 フランスのサンジカリズム運動
■CGTの成立

 フランスにおける最初の全国的な労働組合結成の試みは、ゲード派の指導によって1886年に結成された「全国労働組合連合」であった。この組織はゲード=労働党の支配の下におかれ、もっぱら党の選挙や党員補給のための組織として位置づけられていた。
 労働者階級の大衆的階級的組織としての労働組合の独自の役割を軽視し、党の補助部隊としか見なそうとしないことに対して、それに反発して労働組合自身によって労働者の解放を実現しようとするサンジカリスムの潮流が擡頭した。
 ペルーチェはゲード派の組織に対抗して「ブルース」(労働取引所―一定の地域内にある労働組合が集って、職業紹介、移動労働者に対する補助等を行うことを目的とした)の全国連盟を組織した。
 「全国労働組合連合」と「ブルース連盟」は94年の大会で合同の予定であったが、大会は社会変革の手段としてゼネストを決議したため、ゲード派は脱落した。この大会を契機としてゲード派の組織は勢力を失い、消滅していくことになる。
 それにかわって「全国労働組合連合」の多数派となったサンジカリストは、85年フランス労働総同盟(C・G・T)を創立した。こうしてフランス労働運動は、地方「ブルース」とC・G・Tとの二つの全国組織が併存することとなったが、1902年の大会で両者が合同し、ここに名実ともに整ったC・G・Tが成立し、サンジカリズム運動の主体が確立した。
 1906年のアミアンにおけるC・G・T大会の決定はサンジカリズムの基本的態度を明らかにしている。
 大会決定は、「C・G・Tの外部に於て、或はこれと併立して勝手に社会改革を追求する諸党派に心を奪われてはならぬ」と社会主義政党との緊密な結びつきを否定した。そして「サンジカリズムは資本の収奪をもってのみ実現しうる完全なる解放のために準備する」こと、そしてその闘争手段として「ゼネラルストライキを称揚するものである」とした。さらに、「今日反抗の団体である労働組合が、将来生産と分配の団体となり、社会変革の基礎となるべきものである」と宣言した。
 労働者政党の闘いを改良主義として拒否するサンジカリズムがフランスにおいて労働運動に大きな影響力をもち、労働運動の主流を占めるようになったのは、当時のフランスに真に社会主義とよべる政党がなかったからである。
 当時の労働者の党を名のっていた社会党の指導者は労働組合と政党との正しい結びつきをつくりだすことが出来ず、労働組合をたんに政党の活動の補助的部隊としてしかみなそうとしていなかったし、また、社会主義政党といわれる政党は四分五裂の状態で対立、抗争を繰り返していた。こうした社会主義政党の状況は労働者の政党に対する不信を増大させた。
 さらに、労働者大衆が政党や政治への反発をつのらせたのは、社会党指導者のブルジョア内閣への入閣に象徴される日和見主義的堕落であった。
 1899年ミルランは社会主義者の入閣は、社会党による権力獲得の第一歩であるという口実でブルジョア内閣に入閣した。さらに1906年にはヴィヴィアニ、ブリアンの入閣があり、特にブリアン及びミルランは、かつては反軍国主義を唱えながら、ひとたびブルジョア内閣へ入閣するや、10年の鉄道労働者の反軍国主義のストライキに対して軍隊を出動させこれを弾圧し、多くの労働者の怒りをかった。
 社会党指導者のこうした労働者への裏切り、腐敗、堕落は労働者大衆をいっそう政党、政治から遠ざけることとなった。サンジカリストは、社会党を「昨日は投票をかき集め、今日は大臣の椅子を漁り廻る政治屋の党」と非難した。かくして、議会及び国家の内部に入りこむことは階級的堕落であり、直接行動によって外部から圧力をかけ、破壊するというサンジカリズムの思想が労働者をとらえたのである。
 サンジカリストは自然発生的な労働者の闘いを代表し、反戦・反軍国主義の闘争では最も急進的な闘士であった。12年のバルカン戦争では24時間ストライキ(1450団体、45万人)を闘い、13年の兵役延長法に激しい反対運動を展開し、軍隊内にさえしばしばデモが組織されたほどであった。だがかれらもまた、一度戦争が勃発するや戦争支持に転向していった。(G)

 ズバトフ労働組合(ロシア)

 世紀の替り目のロシアは依然として後進農業国であり、英、米、独等と比べれば二流、三流の老大国であった。しかし、都市部には近代的大工業が生まれ始めており、工業生産は1890年代の十年間に倍増した。近代的大工場の出現は当然ムージーク(農民)や職人と異なる近代プロレタリアートを生み出した。19世紀末には自然発生的にストライキ等、労働運動の高揚が見られた。だが、1900年から1903年にかけてロシアは恐慌に見舞われ、工場閉鎖が相次ぎ、約十万人の労働者が路頭に投げ出されたのである。失業を免れた労働者も世紀末の闘いで得たわずかな賃上げ等を失った。
 こうした情勢の下で、ストライキの嵐が全ロシア的に吹きすさぶのである。1901年のオブホブスキー工廠のスト、02年の鉄道従業員のスト(他の工場労働者の連帯ストを伴ってゼネスト的状態となる)、03年にはバクー、チフリス、バツーム、オデッサ、キエフ等に大規模なストが発生していく。
 このような“違法”な労働組合の活動、ストライキに対してツアーリ専制政府のとった第一の対応が警察、軍隊等の暴力装置による強権的な弾圧であったことは言うまでもない。
 だが頑迷なツアーリ反動政権と言えども、単なるムチだけでは労働者を抑え込むことが出来ないことを知らされたのだ。実際、失業や賃金の切り下げが餓死状態に直結する当時のロシア労働者は、闘うことなくして生きる途がなかったのである。
 専制政府が打った手は上からの労働者の組織化である。それまで社会主義政党は勿論のこと、ストライキや労働組合は非合法であった。非合法であろうとも、労働組合は社民党の協力の下、強固な闘いを展開していた。ツアーリ官憲はこの急進的、革命的組合活動を抑え込むためにまず組合指導部から急進派、社会主義派を追放しようとしたのである。元々非合法の組合に“追放令”を出した所で何の意味もない。戦闘的指導部と労働者大衆を切り離し、大衆に一定の幻想を与え、“穏健な”活動に留めるには官製の労働組合が不可欠である。権力の側が労働者を囲い込むために“労働組合”を組織するのである。こうした組合はその後ズバトフ型労働組合と呼ばれるようになったが、その由来は、ロシアの憲兵大佐スバトフが創始者であったからである。1905年の革命の発端となった血の日曜日事件の“主役”坊主ガボンが組織したペテルブルク工場労働者協会もこうした組織の一つであった。
 こうしたズバトフ型労働組合は今日世界中いたる所で存在している。労働組合が第二労務課的役割を果たし、資本(権力)と二人三脚を組み労働者支配を貫徹しているのだ、レーニンは言っている「ゴンパース一派、ヘンタソン一派、ジュオー一派、レギーン一派は、ズバトフ派にほかならないが、わが国のスバトフとの違いは、ヨーロッパ流の衣裳を着、りっぱな外観をもち、卑劣な政策を実行するときの文明的な、洗練された、民主主義的にみがきをかけたやり方である」(全集31巻、41頁)と。
 労組活動家や社会主義者が官製の或いは反動的労働組合で闘うことは今日では自明の真理となっている。そのような組合から脱退して“戦闘的”な組合を別個に作ることは、権力や反動派の思惑通りであり、結局労働者大衆を彼らの手中に放置することになるのだ。
 レーニンは次のように言っている。
 「われわれは、この会議や協会にわが党員を送り込んだ。彼らは、大衆とつながりをつけ、たくみに機会をとらえて扇動し、労働者をズバトフ派の影響から引きはなした。合法主義的・立憲主義的・ブルジョア民主主義的偏見がとくに根ぶかくしみこんでいる西ヨーロッパで、こういうことをやりとげるのがもっとむずかしいことは、いうまでもない。だが、これをやりとげること、そして系統的におこなうことは、できるし、またやらなければならない」(同)。
 ズバトフ派労働組合の中でのズバトフ派との闘いなしに、ロシアの労働運動の発展はあり得なかっただろう。ロシア労働運動の教訓はすぐれて今日的なものである。(I)

 アナルコ・サンジカリズムとIWWの結成(アメリカ)

 フランスのCGTの運動にみられるアナルコ・サンジカリズムの潮流は、第一次大戦勃発にいたるまで、世界的な規模にまで拡大された。フランスやイタリア・スペインの運動は、バクーニン主義やブルードン主義をそのイデオロギー的な背景とし、またこれらの国が工業的にたち遅れ、手工業的小工業の存在や、社会民主主義者を含む既成政党の腐敗・堕落やカトリックの権威主義的支配が強く、これらへの反発をその基盤としていた。
 しかし、無政府主義の伝統をもたないアメリカやイギリス独占資本主義国でもアナルコ・サンジカリズムは労働者の中にその影響力を拡めた。
 アメリカにおけるアナルコ・サンジカリズムの組織は、1905年シカゴにおいて結成された世界産業労働者組合I・W・W)であった。
 IWW結成大会でこの新たな連合体の主要組織である西部鉱夫連盟委員長のヘイウードは「この組織の目的は、労働者階級に経済力や生産手段を所有させ、資本主義の主人公たちにかまうことなく、生産と分配の機構を支配させることでなければならぬ」と宣言した。
 IWWは、ゴンパースのAFLの排他主義、階級協調主義の腐敗・堕落に対する労働者の反発であった。AFLは、未熟練労働者を組合から排除し、締めだし、指導者は資本と癒着し、労働者に階級協調を押しつけていた。
 1901年の製鉄労働者のストライキが粉砕されたことは、職業別組合が高度にトラスト化された産業にたいする闘いではどんなに制限された力しかもたぬかということは明らかだったし、他方、炭鉱労働者の1902年のストの勝利は、産業別に組織された労働者の力をはっきりと示した。
 IWWは、こうした教訓の上にたって、熟練や性や人種のいかんをとわず、一切の労働者を結集した産業別組合として発足した。
 IWWは、職業別組織に反対したばかりでなく、協調主義にも反対し、経済的分野ばかりでなく、政治的分野でも戦闘的でなけれはならないと主張した。その規約は「労働者階級と雇主階級の間に共通するものは何にもない。これら二つの階級の間には、一切の勤労者が政治ならび経済の領域で同席するまで、闘争はつづかぬわけにはゆかないのだ」と謳っている。
 1908年の大会では、IWWは、いかなる政党との合同、協力にも反対し、そのかわりに「直接行動」を労働者階級の主要な武器とすることを決めた。このためド・レオンの社会主義労働党はこの組織をはなれ、ますますサンジカリズムの影響は強まった。
 IWWは、多くのストライキ闘争を指導したが、最も成功したのは12年の繊維労働者2万3千人のストライキであった。このストで5ないし25%の賃上げがかちとられ、特に未熟練工の賃金引上げは熟練工のそれを上まわった。
 この大ストライキはIWWを国際的にも有名にした。だが、IWWはそのサンジカリズム的な誤りの故に労働者の多数を組織することは出来なかった。かれらは、社会主義的政治闘争を否定し、社会変革の手段として労働組合のゼネストを対置した。かれらはストライキを訴えるが、それの目的は労働条件の改善のためではなく、労働者を革命にむけて訓練するためである。彼らにとってストの失敗は重要な問題ではない、むしろ失敗によって労働者が資本家に対する憎しみをまし、革命へと前進すると考えた。かくて、ゼネストによって、資本主義をマヒさせ、革命の目的を実現することが出来ると。
 このようなストに対する急進的な理解はまた、協調主義的指導部のいる組合での活動の拒否という主張と結びついていた。反動的組合から戦闘的労働者をひきぬき、組織するというセクト的戦術は多数のおくれた労働者を改良主義的指導部の下に放置することとなり、労働者全体の闘いの発展をさまたげたのである。
 IWWは、その指導者ビル・ヘイウードがのべているように、堕落した伝統的組合運動に対する挑戦であった。それは資本主義と協調主義的組合指導者に対する戦闘的労働者の自然発生的な反発を代表していた。だが、サンジカリズムの限界故に労働者に闘いの展望をあたえることができず、労働運動の少数派にとどまった。それは、社会主義と結合した労働運動に止揚されなければならなかったのである。(G)

10 英のサンディカリズムとギルド社会主義

 第一次大戦前のサンディカリズムの奔流は先進資本主義国・イギリスにも押し寄せた。サンディカリストは、1901年にマンチェスターで結成されたトム・マンを指導者とするサンディカリスト教育連盟(ISEL)の下に活動を展開した。ただ、アメリカのサンディカリストのように“左派”組合を別個に作ることなく、既存の労働組合の内部で、その急進化のために奮闘した。
 イギリスにおけるサンディカリズムが台頭したのはアメリカとほぼ同じ理由である。社民派の組合幹部が牛耳る労働組合活動は階級協調主義であり、労働者の利益を擁護し得なくなっていたのである。
 ISEL結成の1910年から第一次大戦の始まる14年まで、イギリス労働運動は高揚の時期であった。鉄道・運輸・炭鉱などの基幹産業の労働者を中心として数多くのストライキが組織された。鉄道・運輸・炭鉱の三者合計200万の労働者はこの時期の闘いを踏まえて「三角同盟」という攻守同盟を結成させるに至った程である――もっとも、この「三角同盟」は第一次大戦の勃発の中で、労働組合会議(TCU)や労働党幹部によって骨抜きにされ、同盟の力を全面的に発揮させることはできなかった。
 この時期は組合員も急増した。急進的な戦闘的な組合運動の展開は新組合員の増大と並行していた。労働組合は各種の不熟練労働者・婦人労働者を組合の中に入れることに成功した。TCUは、1910年から15年の間に組合員は165万人から268万人に急増した。
 このサンディカリズムの流れを汲み、第一次大戦直後までギルド社会主義が登場する。「ギルド」と「社会主義」は相排斥する歴史的、概念的内容であり、その名称そのものの中に空想性、急進性が秘められている。
 ギルド社会主義は、労働者・労働組合の直接行動で資本主義の解体を図るが、その後の社会は中央集権の有機的な経済体制ではない。国家の管理統制(たとえ労働者国家であろうと)の下にギルド(産業別に組織された労働者の団体)がおかれるならそれは労働者の人間性や産業民主主義が喪失されるという訳である。各ギルドの自主管理こそ重要なのだ。今はやりの自主管理社会主義である。経済はギルドが掌握するが、「美術・教育・国際関係・正義・公の行事等」(バーカー、「イギリスの政治思想」W)の政治を行う国家の役割は承認される。
 経済活動と切り離されているとは言え、国家の役割を認めることがサンディカリズムとの大きな違いであろう。巨大な現実の国家を前にして、いくら主観的に国家を無視しても、その観念性は明日であり、その点でサンディカリズムより一歩“進んでいる”とは言えなくもない。だが経済と政治のこのような一元論による(控えめの)国家の承認は、プロレタリア国家の樹立やその積極的な歴史的役割を何ら提起せず、単なる組合活動の延長に理想郷を夢み、労働者の闘いを誤った方向に導いていったのである。
 マルクス主義政党が不在な場合、労資協調の組合指導部に反発する労働者の闘いがしばしばサンディカリズムに向うのは自然な流れである。とりわけイギリスにおいてはブルジョア自由主義的な「社会主義」がフェビアン協会によって良く宣伝されており、革命的社会主義の真髄が労働者大衆から隠されていたのである。労働者の闘いのいぶきを代表したのはサンディカリズムであった。サンディカリストは戦闘的であった。サンディカリズムは自らを“止掲しよう”とギルド社会主義を生み出したが、それはサンディカリズムを基本的に超えるものでなく、サンディカリズムとブルジョア自由主義の混合物になっただけである。科学的社会主義から遊離した労働運動の戦闘性の限界がイギリスにおいても露呈されたのである。(T)

11 イタリアの工場占拠闘争の挫折(1920年)

 1920年、イタリアでは大規模な工場占拠闘争がおこり、全世界の労働者の注目を集めた。イタリア全土を覆った工場占拠は資本と賃労働との非和解的対立を白日の下に曝し、革命的危機の状況を生み出した。この占拠闘争は、イタリア・フランスをはじめアメリカ・イギリスなど主要資本主義国で大きな影響力をもっていたサンジカリストによる革命のテスト・ケースとも目され、サンジカリズム戦略が真に労働者階級を解放に導くものであるか否かの真価が問われたのであった。
 第一次大戦後の経済的政治的危機の下で、抑圧されつづけて来た労働者の闘いは爆発した。社会党は1913年の国政選挙では、わずか34万余票、52名の議員しかおくりだせなかったのに対して、19年には175万余票、156名の議員を得た。労働総同盟も急速な発展をとげ、組合員は14年の32万から20年には232万に増加した。
 同様に協同組合も急速に発展した。食糧供給を解決し投機と失業を防止するため、また未耕の地主の土地を占拠するため勤労者は協同組合を組織したが、その数は19年の7400から21年には15000にふえ、同組合員は300万に達した。
 こうした労働者大衆の闘争の高揚は、「赤い二年間」とよばれているが、その頂点が工場占拠闘争であった。
 9月、金属労働者の賃上げ要求に端を発した闘いは、資本がこれを拒否し、工場閉鎖を行ったのに対して、50万の工場占拠へと発展した。工場閉鎖に対して、労働総同盟は工場占拠を指令、労働者はこれに熱狂的に応えた。工業の三角地帯(ミラーノ、トリーノ、ジェノヴァ〉においてだけでなくローマ、ナポリなど主要な大都市をはじめ地方の諸都市に至るまで造船所、製鉄所、製練所と金属労働者がいる場所はすべて占拠された。工場は武装した労働者=赤衛隊によって防衛された。他の産業の労働者もこれに同調しストに入った。労働者階級と多くの農民がストライキを支援した。
 イタリア全土をまき込んだ革命的闘いに対して、当時のジョリッティ政府、資本はなすすべを知らなかった。占拠は平和的に行われたのである。
 金属労働者の経済闘争に端を発した労働者階級の闘いは全労働者勤労大衆をまき込む闘いにまでのぼりつめ、資本との最終的結着が客観的に迫られることになったのだ。
 労働組合の指導者は、工場占拠は、「階級闘争の新しい時代を切り拓き、労働者が生産全体に対する管理を樹立することによって終結するだろう」と宣言した。だが、工場を占拠し、労働者が自ら工場を運営してみると、原料の供給、製品の販売等々でゆきづまってしまった。労働者階級が国家権力を握り、全産業を統制することなしに問題は何一つ解決されないことが明白となった。
 労働者階級の権力の獲得という革命の根本的な課題を前にして、組合指導者や社会党はしり込みし、闘いを労働組合の場で解決することを提唱し、賃上げや「工場の労働者による管理」のための法案の上程などという譲歩とひきかえにストライキ闘争を終結させようとした。だがその約束はほとんど実行されずに終った。
 この闘いの挫折を契機に労働運動は急速な衰退の道をたどり、労働者の大きな失望、混乱、小ブルジョアジーの労働運動への反撥などを利用して、ファシズムが一挙に擡頭してくるのである。
 イタリアの工場占拠闘争は、国家権力の獲得の展望を欠いた工場占拠・生産管理は空想的であり、頑廃し、挫折するしかないということを現実の運動をもって立証した。資本の国家の下での労働者の生産管理は労働者による全産業の国家的統制を欠いているが故にゆきづまるか、資本の支配を補完するものとしかならないであろう。イタリア労働者階級は、資本の支配を打倒する一歩手前にまで到達した。だが、かれらは労働者の闘いを資本の支配に反対する意識的な革命政治闘争として発展させ、闘い抜くことの出来る革命の指導部=革命政党を欠いていた。1920年のイタリア労働者の闘いは、革命政党を持たない(社会主義と結合しない)労働者の自然発生的な闘いは、資本との闘いを最後まで貫徹しえないことを教えたのであった。(G)

12 “赤色労働組合”の経験
■その組織化は、はたして正しかったか?

 赤色労働組合インタナショナル(以下「プロフィンテルン」と略)は1921年モスクワで結成された。
 この結成当時ヨーロッパでは第一次大戦後の激動がドイツを中心に続いていた。資本主義体制のこの危機の中で、第二インターに指導される国際労働組合連盟(アムステルダムインター)指導部は、大戦中の排外主義や階級協調を何ら総括せず、むしろ階級協調を一層推し進め、左派、急進派組合員の除名排除すら強行する有様であった。組合主義者・労働貴族共の反動性は明白であった。
 このような状況の下で、プロフィンテルンに集った組合は、ソ連を別格とすれば、多くの場合急進的、サンディカリズム的色彩を帯びていた。ドイツの代表を中心とする急進派の一派は、古い労働組合(アムステルダムインター)を「反革命的な組織」と弾劾し、「古い労働組合から脱退」して新しい“革命的”な組合を作ることを主張した。これは、組合主義者の反動性に反発した主張であるが、むしろ組合主義者の思うツボとなるものであった。レーニンが「左翼小児病」で批判しているように、それは組合主義者との闘争からの召還であり、大衆に対する不信の表明であり、小ブル急進主義の金切り声以上ではなかったのである。プロフィンテルンは“左派”やサンディカリストの二重組合論を排除して「多数者の獲得」を謳った。しかしこれは首尾一貫して追求されなかった。
 そもそもプロフィンテルンという国際的な労働組合の組織の形成そのものが「二重組合」的要素を秘めていたのであって、プロフィンテルンを前提にしておいて、“古い組合”での「多数者の獲得」活動といってもそれは矛盾したものにならざるを得ない。
 第二インターの日和見主義、階級協調主義に対してはすでに第三インター・コミンテルンが結成されていた。革命党派の場合は革命的純潔性が尊重されるのは当然であり、腐り切った第二インター・社民党に代る第三インター・共産党という別組織の登場は必然であった。だが大衆的な組織である労働組合のレベルにおいて、例え国際的組織であろうとも、別組織・プロフィンテルンを結成する必然性は何もなく、むしろそれは誤りであった。党と労働組合の混同が存在していたのである。
 プロフィンテルンは反動的な極左戦術をとり、労働者大衆の中で孤立していったが、これはとりわけ28年(プロフィンテルン第四回大会)から33年(ドイツナチの勝利)ごろに顕著であった。まさに「赤色労働組合主義」の破産である。
 第四回大会は「社会民主主義主要打撃論」および「ストライキの独自的指導」という二つの極左的戦術を打ち出した。
 前者はスターリンの「社会ファシズム論」、すなわち社民党をブルジョア反革命ファシズムと同一視するドグマから生じているものである。プロフィンテルン書記長・ロゾフスキーは、古い組合の労資協調主義から、それがブルジョア国家機関に編入され、その機関の一部に転化したものとみなし、これの打倒、破壊という極左的結論を引き出したのである。
 後者は大衆の意識状態を無視しており、ストライキを激化させれば大衆は革命性を帯びる、といった急進主義であった。1939年の「ストライキ闘争問題にかんするヨーロッパ協議会の決議」では、古い組合=改良主義的労働組合の機関を除外し、またこれと対立して、別個に経済闘争を行う、という方針を決定し、労働組合の大衆組織としての性格を無視した分裂主義、セクト主義の結論を引き出したのである。
 このような赤色組合主義の結果は明白であった。ドイツでは社民派から組合のイニシアティプを奪取できなかったばかりではない、むしろ反ナチ戦線を混乱させ、ヒットラーの政権獲得を助けたのである。フランス、イギリスでもプロフィンテルンの運動は後退し、労働者大衆から孤立し、解体していくのである(日本の評議会=全協の運動も同一系譜にあった)プロフィンテルンは資本主義国での組織をほぼ失い、38年には解散声明を発するに到るのである。
 大衆組織である労働組合の中での闘いを放棄し、セクト的な別の労働組合を主張したり、急進的な経済闘争を叫んだり、党と労働組合を混合したりする赤色労働組合の反動性は歴史の中で十二分に検証されたのである。(I)

13 プロフィンテルンと全国少数派運動(英)

 イギリスにおける小数派運動は、スターリニストに指導されたプロフィンテルン(赤色労働組合インター)のセクト主義、分裂主義の誤りをあらわしている。
 第一次大戦直後、改良主義的な労働組合のなかに、革命的な傾向をもつ少数派が炭鉱労働者の組合をはじめ、若干の組合に生まれた。小数派運動は、産業別組合を組織原則に、戦闘的労働組合運動を建設していくことを目的としていた。
 こうした闘いを基礎に、24年8月、全国少数派運動創立大会が開かれた。大会は25万の労働者を代表する代議員が参加した。
 少数派運動は、その活発な運動によって急速に影響力を拡大し、26年3月には95万人を組織した。
 その最大の闘いは、26年8月の500万のゼネ・ストであった。このゼネ・ストは、少数派運動に参加していたアーサー・クックを先頭とする全英石炭労働組合同盟によって組織されたストライキから発展した。九日間にわたるゼネ・ストを総評議会指導部が裏切った後も炭鉱労働者は11月、敗北となっておわるまでストライキを続行した。この闘いによって共産党は急速に党員を拡大し、26年末には党員は前年の2倍の12000人に達した。
 だが少数派運動は、組合主義者の側からの戦闘的労働者への弾圧、「モンド主義」の名で知られる階級協調のなかで、セクト主義を強めていった。
 28年のプロフィンテルン第四回大会は、「社会民主主義主要打撃論」と「経済闘争の独自的指導」という急進主義的戦術を打ちだしたことで知られている。
 プロフィンテルンは、社会民主主義者を労働者の仮面をつけたファシズムの一翼であるとのべ、労働者の闘いの主要な目標をかれらを打倒することと謳った。資本との闘いと日和見主義との願いを結びつけるのではなく、日和見主義者との闘いを自己目的化するこの急進主義的方針と、「経済闘争の独自的指導」という日和見主義戦術は一体のものであった。
 プロフィンテルンの書記長であったロゾフスキーは、共産主義者が労働組合で多数派となることなど日和見主義的方針である、次のようにのべている。「改良主義的労働組合機関とブルジョア国家機関との密接な接近は、ブルジョア国家機関の獲得が不可能な如くに、この改良主義的機関の獲得を不可能たらしめている。前者も後者も、大衆の動員によって倒されねばならぬのだ。官僚を放遂し、そしてその場所に吾々によって闘争のうちに建設された自己の機関の代表を立てねばならない。……まさにそれ故に吾々の考えている労働組合の獲得とは、工場における大衆の獲得であり、生産に於ける労働者の獲得であり、そして工場と全国に於いて社会民主党またはブルジョア政党の調整者である所の機関に労働者を対立させることである」。
 「経済闘争の独自的指導は、「ストライキの独自指導」としてもあらわれたが、労働者大衆に対する社会民主主義者の影響の存在を無視して、労働組合機関とは独自にストライキを強調したことは、労働者大衆と少数派運動と切りはなすことになった。
 経済闘争の独自的指導の戦術は、下部の労働組合機関、地方の労働組合組織にたいする独自性、労働組合の工場組織からの独自性として考えられた。その結果、労働者全体の意識を無視してストライキ宣言がだされたりした。大衆の気分や意識を無視し、闘争を急進化させることで組合主義者や改良主義者を暴露し、労働運動の主導権が獲得できるかの幻想をふりまいたのである。少数派はまた、ストライキ闘争を激化させることによって大衆は革命化すると考え、機械的に権力獲得や革命的労働者政府という政治スローガンを労働組合の中にもちこんだ。さらに、少数派は、労働組合組織機関を無視し自分たちの活動の重点を組合員個人に移すことによってますます自分たちの活動を狭めていった。
 少数派運動の労働組合のひきまわし、分裂主義、セクト主義は、社会民主主義者や改良主義者を暴露するのではなく、反対にかれらに少数派運動=共産党排除の格好の口実をあたえるものであった。
 共産党は労働者および総評議会の指導者たちをファシストと攻撃した、そして労働党左派とも共闘することを拒否し、ますます孤立を深めていった。こうして少数派運動は、33年には事実上消滅してしまった。(G)

14 CIO―光と影
■30年代アメリカ労働運動

 1930年代のアメリカは、誇大な表現ではあるが、「赤色の10年間」と言われている。この10年間にアメリカの労働運動は1910年代のIWWのサンディカリズムな運動以来の高揚を示した。
 30年代の労働運動の中心になったのは産業別労働組合(CIO)である。CIOの正式発足は1938年11月だが、1935年末に既成組織・全米労働総同盟(AFL)内に、炭坑、繊維、婦人服、男子服、印刷、石油、男子用婦人用帽子、金属鉱の八つの全国組合(組合合計百万人、AFLの40%)からなる産業別組織委員会が結成されたことに始まる。AFLは熟練工中心の職能別型の組合で労資協調であるのに対してCIOは黒人、外国人労働者、婦人、少年労働者、事務労働者をも含む文字通り全就業労働者の産別組織である。
 CIOの誕生の背景は1929年に始まる大恐慌である。ルースヴェルトが大統領に当選した33年ですら1500万人(全雇用者の24.9%)が職を求めて街頭をさまよっていた。職場に残った労働者もたえざる失業の不安に脅かされ、賃金は数十%もの減少を余儀なくされていた。33年後半には石炭、鋳鋼、採炭、自動車、繊維、衣服製造の各部門で大規模なストが行なわれ、34年には船員、港湾労働者を中心とするサンフランシスコの地域的ゼネスト、47万人の参加した繊維スト、35年には40万人参加の瀝青炭ストが展開された。労資協調の、狭い職能別の組合(AFL)では労働者の生活を守れないことは歴然としていた。
 35年の事実上のCIO結成を経てCIOが繰り拡げた産別組織化運動は未組織の産業にも向けられた。大規模産業である鉄鋼、自動車ではほとんど未組織であったがCIOはこれらの産業でも闘争を指導した。とりわけ自動車産業の牙城GMには坐り込みストが展開され、これは36年から37年にかけての全国的な座り込みストの先駆となった。38年のCIO結成(AFLと完全分離、約400万人)時には鉄鋼、自動車の労働者がその中心勢力となった。
 戦闘的なCIOの活動は根本的には経済危機の最中における労働者大衆の急進的意識の反映であった。CIOは雇用や賃金問題で闘っただけでなく、労働組合の諸権利のためにも闘った。アメリカにおいて労働組合が完全に市民権を得たのはこの時期以降である。
 CIOは戦闘的労働運動を展開したが、致命的欠陥を有していた。それはブルジョア改良派のルーズヴェルト大統領(ニュー・ディール政策)への幻想を有していたことである。ルーズヴェルトは独占の救済と並んで、さまざまな社会保障政策を実施した。直接的な労働組合の権利においても、1932年の全国産業復興法(NIRA)第7条、35年のワグナー法で団体交渉権、不当労働行為禁止などの労働基本権を労働者に与えた。しかし、ルーズヴェルトの狙いは単なる労働者・労働組合の保護ではなかった。資本主義の危機の真只中で労働者にある程度の譲歩なしには、革命、或いは社会的混乱を避け得ない、と彼は考えていたのである。ルーズヴェルトは後に国家独占資本主義と呼ばれる政治の創始者であるが、国家と独占資本との結合を強める一方で、労働者をさまざまな改良(の幻想)で体制の中に再編成したのである。CIOがどんなに彼に幻想を抱いていたかは、36年の大統領選では、数十万ドルの選挙資金さえ供出して彼の選挙を担ったことに表われている。戦後のCIOの保守化、反共主義は華やかだった30年代にその根を有していたのである。
 CIO内で共産党は3分の1から4分の1の勢力を有していた。彼らは第一期前半のルーズヴェルトに対しては「ファシスト」と攻撃していたが、第一期後半からは彼を支持し続け、後には彼の政権をアメリカ型「人民戦線」政府とさえ評価し、最大限に讃美したのである。この意味で戦後アメリカの帝国主義的労働運動の台頭に共産党もまた責任の一端を免がれない。(I)

15 ファシズム支配下の労働組織(伊、独、仏)

 1920年代から30年代にかけて、ヨーロッパではブルジョア反革命=ファシズム運動が擡頭した。
 ファシズムは、労働者政党、労働組合をはじめあらゆる労働者組織に対して攻撃をくわえ、破壊し、ブルジョア民主主義をも否定して、むきだしのブルジョア暴力支配をうちたてた。ファシスト国家は労働組合を破壊した後に、労働者組織をつくりだしたが、こうしたファッショ的労働団体は、労働者に資本への協力を強制し、帝国主義戦争を準備し戦争へ動員するための組織であり労働組合とは根本的には性格を異にしている。
 1922年、イタリアではムッソリーニのファッシスタ党が政権を握り、ファシストの労働団体=全国労働組合協同体同盟(職業ないしは産業部門別につくられた労働者と雇用主を含む組織)をつくった。26年まではファッショ的労働団体以外の労働組合も法的には自由であったが、26年には「労働関係の法的統制」に関するロッコ法が成立、ストライキは「戦争行為」として禁止された。27年には最後の総同盟書記長となったバッテスタ・マリヨーネの提唱によって総同盟の解散が決議され、次いでリゴラ、ダラゴーチなど組合の日和見主義指導者はファシズムに屈服、転向していった。
 ファッショ的“労働組合”に全ての労働者が加入を強制され、「協同国家」(ファシズム国家)の建設に動員されることとなった。
 全国的“労働組合”と企業主の組織は、相互に「団体協約」をむすび、紛争がおきた場合には強制調停局に、最後は労働法廷に委託されることが定められていたが、労働組合の指導者はファシストであり、組合の基本原則は、階級協調、すなわち労働者階級の利益を資本の利益に従属させることにあった。
 ドイツでは33年にヒトラーが政権を奪取、すべての労働組合事務所は占領され、指導者が逮捕された。また組合の財産は全部没収された。
 労働組合の破壊のうえに、ナチによって「労働戦線」が組織された。はじめはムッソリーニの「協同国家」にならい、資本家と労働者の連盟がつくられた。しかし、それはすぐあらためられて、資本家と労働者とは単一の組織に統合された。
 2700万を結集する労働戦線は、いかなる意味でも労働組合組織とよぶことはできない。それは、労働者を支配する国家組織であった。イタリアとは異って労働戦線は、労働協約もむすばなければ、また団体協約もなかった。
 ナチスは企業と労働者との完全な統一、産業に対する国家の支配と指導を語った。工場では、労働者はストライキ権をはじめ一切の権利を剥奪され資本家の命令の実行を強制された。ファシズムの野蛮な体制の下で労働諸条件は悪化の一途を辿り39年戦争が勃発したときには、労働者の生活水準はかつての3分の1に低下していた。
 イタリアの場合もドイツの場合も、労働組織がファシズム体制への労働者の協力を強制する組織であることには変わりない。しかし、イタリアでは、この労働組織の下でもファシズムの抑圧に抵抗する闘いが続けられた。労働者は非合法に再建された労働総同盟(と共産党)の指導の下に賃金引き下げや労働強化に反対してストライキ・サボなどの抵抗をおこない(例えば33〜5年にかけての搾取強化のベドー・システム導入反対のスト)部分的な勝利すら獲得することが出来た。
 同じことは、ドイツ占領下のフランスにもいえる。ベタン政権の下で資本と労働者の「永久的協力」をめざして、労働組織がつくられたが、労働者はサボタージュやストライキ、建物占拠などの闘いによって、ナチに協力的な指導部の組合からの追放、賃上げ、ドイツへの労働者の徴用の撤回などをかちとるなどの抵抗を続けた。
 イタリアやフランスでは、労働者の闘いがほとんど解体させられたドイツと異って、労働者はファシズム体制下の合法的組織=“労働組合”を利用してファシズムの抑圧に反対する闘いを継続してきた。
 ドイツとイタリア・フランスとのこうした相違は、労働組織の形態の違い以上に、合法的な活動と非合法活動を結合して闘うことが出来る指導部を持っていたか、否かということによるだろう。(G)

16 産業報国会
■ファシズム下の日本

 1940年(昭和15年)に、イタリア、ドイツのファシズム“先進国家”にならって、政府は労働組合を解散させ、政府主導の労資一体組織(産業報国会)を作り上げた。それ以降敗戦に至る数年間は労働者、労働組合にとって凍てつく冬の時代であった。
 後進資本主義国の日本資本主義は一九二九年に始まる世界恐慌の波をモロに受け、その困難を海外(とりわけ中国)への帝国主義的進出をもって“克服”しようとした。31年の「満州事変」に始まる十五年戦争である。政府・右翼の排外主義の攻勢に労働戦線は一歩一歩後退を続け、37年(昭和12年)の「日華事変」(同年7月7日)直後の全国労働総同盟大会(松岡駒吉、西尾末広等、右翼社民派の影響下にあり、日本で最大の労組中央組織)は次のような武装解除宣言を発した。
 「一、我等は今事変中の労資紛争を挙げて平和と道義の手段に訴えて解決し、進んで全産業に亘り同盟罷業の絶滅を期す。
 一、我等は銃後生産力の増進と産業平和を確保するために、官民共同による非常時産業協力委員会の即時設置を期す。
 一、我等は現下及び将来を貫く労働国策として、労働者団結権の法認並びに産業及び労働の統制の即時実現を期す」(岩波新書、赤松克麿著「日本社会運動史」)。
 ことに前二項目と40年の「産報」とは何と酷似していることか。「産報」運動の始まった38年頃、政府は「産報」とこの労資協調の労働組合双方による“二元支配”を否定していなかったが、労働組合の中に“ヒドラ”の宿ることを恐れる政府は“穏健な”組合の存在すら容認しなかったのである。
 驚くべきは政府当局の組合解散“指示”に対して、ほとんど何らの組織的抵抗も見られず、労働組合が次々に「最終大会を開いて、「産報運動への発展的解消」を決議していったことである。勿論組合内の左翼活動家が相次ぐ当局の検挙によって排除されていた事実があるにせよ、労働組合はやすやすと当局の軍門に下っていったのである。
 労働者、労働組合を政府に売り渡し、帝国主義戦争に駆りたてていった労働側の第一責任者が、右翼社民の労働貴族であることは論をまたない。だが左派活動家をして、労働戦線内で孤立化させ、右派組合主義者の跳梁を許した共産党の「赤色労働組合」政策も責任を免れないであろう。「評議会」や「全協」を通じての共産党の極左的、分裂主義的労働運動の指導は1930年の武装メーデーで頂点に達した。侵略と戦争の時代、労働苦と生活苦が続く30年代、40年代前半という決定的な時代に、共産党の労働組合と結びついた闘い、それを通しての闘いは事実上壊滅していたのである。党と組合の混同、客観情勢を無視した極左冒険主義、等々のために、戦闘的労働者は組合から排除されてしまった。右派組合主義者は資本、当局と手を組んで楽々と労働者を支配していくことが出来たのである。
 「産報」運動の下で労働時間の延長、賃金の切り下げが強行され、さらに戦争の激化の下で、婦人、青少年までが“労働奉仕”を強いられることになった。資本は思うがままに労働者を支配し、搾取したのである。(I)

17 アメリカ帝国主義とAFL・CIO

 第二次大戦後の世界は、米ソ二大超大国を頂点とする“自由主義”圏と“社会主義”圏(国家資本主義圏)とに分極化した。大戦を通じて世界最強の帝国主義大国となったアメリカは、世界資本主義の盟主、ブルジョア世界秩序の守護神としての役割を自らに課した。ソ連をはじめ“社会主義”勢力の進出を阻止し、アメリカ主導の下に資本主義を再建すること、これがアメリカ独占ブルジョアジーの世界戦略であった。労働戦線においてこうしたアメリカブルジョアジーの世界戦略を推進したのは、AFL(労働総同盟)やCIO(産業別組織会議)の右翼組合指導者であった。
 第二次大戦中、イギリス労働組合会議とソ連の労働組合との交流をきっかけとして、大戦終結直後の45年10月に全世界にわたる労働組合の国際組織=世界労働組合連盟(WFTU、世界労連)が発足した。56ヵ国、6千700万を代表する世界労連は結成後わずか4年で分裂、「反共産主義」を掲げる国際自由労連(ICFTU)が生まれた。その中心となったのがAFL、CIOである。
 47年、戦争で打撃を受けた西欧資本主義の復興、再建計画=マーシャル計画が発表されると、CIOはその実施、支持を世界労連に迫った。そしてそれが拒否されるや労連を脱退し、AFLや西欧資本主義諸国の右派組合指導者とともに国際自由労連を結成した。労働組合の国際組織の分裂は、米ソ両陣営の対立の激化と軌を一にしていた。
 アメリカがその圧倒的な経済力と軍事力によって、弱体化し頼死の状態にあったヨーロッパの資本主義の再建にのりだした時、労働組合の右派指導者も危機に陥った資本主義を救いだすことを自分たちの神聖な任務として、労働組合運動を右から分裂させたのである。
 AFLは一貫して世界労連に反対し、アメリカ独占と結びついてフランス、イタリアなどの右派組合指導者のスト破り、分裂策動に援助をあたえた。左派の影響力の強かったCIOも49年から50年にかけて左派11組合、90万が追放され右派の指導権が確立された。
 こうして、30年代にCIOが結成されて以来、アメリカ労働運動はAFLとCIOの二大潮流に分かれ、対立してきたが、両者は55年には合同し、新組織AFL・CIOが誕生した。これによってアメリカ労働運動は約1250万の組合員を擁する資本主義最大の労働組合に一本化された。
 しかしこれは、アメリカの労働組合がミーニーらの右派指導部の支配するAFL・CIOを通じて、資本主義の搾取と抑圧の体制の下により一層しっかりとしばりつけられたことを意味した。
 ミーニーは次のように語った。「労働組合員としてのわれわれの目標はつつましいものである。なぜなら、われわれはなんらかの特定の空想的なあるいはイデオロギー的な幻想のなかで、アメリカの社会をつくりかえようとは思っていないからだ。……われわれはアメリカの利潤制度を信頼している」と。
 AFL・CIOは階級の消滅を謳い、「資本と賃労働」との闘争についてではなく、「経営と労働」のあいだの闘争についてかたるだけであった。かれらは資本の体制を美化し、国際自由労連の指導者として、NATO、朝鮮戦争における米軍の侵略行動、日本や西独の再軍備を支持し、またキューバ革命に対して反対するなど、アメリカ帝国主義の補完勢力としての役割を果たしてきた。
 69年には、AFL・CIOは国際自由労連が「反共主義」の基本的立場を無視してソ連圏諸国やソ連と接触していることなどを理由に国際自由労連を脱退した。ヨーロッパ諸国の労組のソ連圏諸国との交流は、ソ連圏の市場に対する西欧独占資本の関心と期待の反映でもあった。
 国際的な影響力は低下したとはいえ、AFL・CIOは巨大な組織と財産をもち労働者に君臨している。組合の指導部はブルジョア支配政党=民主党と結びつき、ブルジョアジーの労働者支配を補完し、支えている。AFL・CIOを牛耳る労働官僚はアメリカの圧倒的な経済力が生みだしたものであり、彼らが没落する時はアメリカ資本主義が決定的な危機に陥った時であろう。(G)

18 「経営参加」と西独労働運動

 西独労働運動の歴史は第二次大戦後の西側労働運動の一つの典型である。――それは「経営参加」(「労働者重役制」等)と呼ばれる労資協調の労働運動である。
 「経営参加」とか「労使協議制」とか言われる形態は現代資本主義では労資関係の“安全弁”として広く採用されているが、この“先駆者”はドイツであり、しかもそれは1920年に遡る。20年といえば、スパルタクス団は鎮圧されていたとは言え、革命と反革命が渦巻いていた時期であり、資本家や労働貴族共は何らかの譲歩(やそのポーズ)なくしては労働者の不満や怒りを鎮めることはできなかったのである。19年のワイマール憲法165条を受けて、20年に経営協議会が設置された。
 ヒトラーの政権強奪後の34年に廃止されたが、戦後はより大規模にこの「経営参加」路線が労働運動の中に導入されてくる。ファシズムのような強権支配であれば、このような「共同体」の外観さえ必要ないが敗戦で強権支配どころか、支配階級が革命の危機におびえなけれはならない状況の中では「二重支配」の機構は必要不可欠だった。51年の石炭・鉄鋼業の監査役会における労働者の共同決定(千人以上の従業員を有する企業での労働者代表の資本と同数の監査役員の選任)、1952年の経営組織法、72年の同法全面改正、76年の共同決定法(石炭・鉄網業――この産業は51年以来実施中――以外の従業員2千人以上の企業で、労資同数の監査役の選任)、等々が主な足どりである。
 労働者を支配・搾取する資本の論理とこの「共同決定」や「労働者重役」はいかに“調和”しえたのか。それは一つにはこの制度自体の欺瞞性によってである。76年の共同決定法は、労資対等の「経営参加」と騒がれたが、監査役会での議長は資本側が握るよう配慮され、しかも最終的にはその議長が二票の権利を有するようになっているのだ。労働者の代表と言えども、中間管理職的な労働者は現場の労働者とは遊離しており、労働者側が真に自らの全代表を獲得することは困難であり、例えそれが可能になっても最終的には資本の側の優位が定められているのだ。
 もう一つの(根本的)理由は、西独経済は長い間西側の優等生といわれる程繁栄を謳歌してきたのであり、労働貴族共の「経常参加」=労資協調路線は物質的“恩恵”によって報いられてきた。
 西独労働運動は終戦直後から活発に再建にのり出し、全ドイツ労働組合の形成を目ざしたが、冷戦、東西独の分裂国家の固定化と共に、ソ連軍地区(東独)西側軍支配地区(西独)の分裂労働組合となり、西独の労働組合は西側の最前線という地政的背景を受けて“反共主義”という制約を米軍から受けて出発した(1949年10、ドイツ労働組合連合の形成)。
 西独の組合主義者はほどなくして、“自らの足”で立ち戦後世界労働運動の一つの典型とも言える運動を展開してきた。今日では労働組合員940万人の内780万人という圧倒的多数が労資協調主義のドイツ労働総同盟に属している。組合主義者は、資本と共に、「ソーシアル・パートナーシップ」を謳い、「経営参加」制度の充実によって労働者は資本と対等の力を有せるようになり、資本のための生産から労働者のための生産が可能になるかに宣伝してきた。
 だが、歴史は皮肉なものである。あの76年の社民党政権下での華々しい共同決定法以降、西独労働者は失業の増大に悩まされなけれはならなかったのだ。完全雇用を誇り、海外労働者を積極的に導入してきた西独は今日(1984年11月)では219万人強(8.8%)の失業者を抱えているのだ。「経営参加」「労働者重役」の拡充期に、9.6%もの失業者率を有するようになったのだ。そして西独労働者(250万金属労働者、14万人の印刷紙業労働者)が今年の7月週40時間労働から「週38.5時問労働」の労働時間短縮(ワークシェアリングという空想的、日和見的位置づけではあったが)を勝ち取ったのは「経営参加」のおしゃべりによってではなく労働者の実力闘争=ストによってである(週35時間労働をめざして金属労組は7週間、印刷紙業労組では13週間の西独史上最大規模のストライキが敢行された)。
 ドイツ労働総同盟は、彼らの代表・ドイツ社会民主党と同じくマルクス主義、社会主義とは無縁である。彼らは戦後の西独資本の繁栄のおこぼれを基礎に、「経営参加」=「労使対等」=労資協調の幻想を振り撒いてきたが、その破産は今や明らかである。(I)

19 協調主義による資本の擁護
■英の所得政策・社会契約の決算書

 戦後イギリスでは、ブルジョア政党=保守党と労働党の二大政党が政権の交替を繰り返してきた。1945〜51年、64〜71年、74〜79年と労働党は政権の座についた。しかし労働党政権の誕生によってブルジョアジーの支配の基礎は少しもゆるがなかったばかりか、むしろ労働党=ブルジョア組合主義者を通じて労働者を体制につなぎとめ、支配を貫徹してきた。
 労働党政権は、資本の支配の基礎に一指だに触れようとしなかったし、労働者の名においてブルジョアジーの政策を代行してきたからである。労働党政権の下で実施された一連の重要産業の国有化(47年の炭鉱・運輸・ガス・電気、50年の鉄鋼、75年の航空機、造船、自動車)は独占資本救済・強化のための政策であった。
 労働党=ブルジョア組合主義者の全政策を貫いているのは資本の体制の擁護であり、労働者の利益に資本の利益を優先させることである。
 70年代から世界のブルジョアジーにもてはやされるようになった「所得政策」をいち早く実践してきたのもイギリス労働党であった。
 本格的な所得政策を実施したのは64年秋に保守党政権にかわって成立した労働党政権の下であった。
 61年の公務員及び国有産業、一部民間も含めた450万労働者の賃金凍結など保守党の賃金抑制は労働者の反撃(当時62年スト参加は戦後最高記録)をもたらしたが、労働党政権はそれを欺瞞的な形で受けついだ。すなわち、賃金のみならず、利潤、配当、家賃、地代を規制することによって、社会的不平等を是正し、経済を安定した発展の軌道にのせると。政府、労働組合、経営者団体は「労働生産性、物価、所得各分野の計画に関する共同宣言」に署名、「相互信頼の精神での協力」によって福祉国家の発展を保障すると謳った。だが、所得政策は、露骨な賃金抑制政策に改良(利潤、配当などの規制――犠牲の分ち合い)の粉飾をはどこしたものでしかなかった。所得政策の本当の目的が賃金の抑制、利潤の確保にあることは利潤の規制が実施されなかったこと、ストの規制をともなっていたことを見ても明らかである。
 政府は所得政策を徹底化するために65年には事前通告制妻上げの際には事前に当局に通告し、争議は仲裁機関にまかせることを義務づける)をしき、69年には争議規制の立法化(団交制限、スト投票の義務づけ、非公認ストヘの罰則“経済的に重大な脅威”を与えるストは28日間の冷却期間をおく)を図ろうとした。
 だがこうした政府の試みは労働者の反撃を呼びさまさずにはおかなかった。66年の海員組合の45日間のストを突破口に、68年には3百万金属労働者が大幅賃上げを要求してストライキに立ちあがり、ついに労働組合会議は所得政策に関する「法律の撤廃」を決議し、」政府は賃金の直接の国家規制を断念せざるをえなかった。次いでスト規制立法化も数十万労働者の「山ねこスト」によって挫折(しかし次の保守政権の下で成立)においこまれた。
 だが所得政策は74年からの労働党政権の下で“社会契約”と装いをかえて再び登場した。「物価抑制・税制改正・住宅政策に努力」することとひきかえに労組が賃上げを物価上昇以内に自粛する、というのがそれである。しかし「制度改革」はほとんど実施されず、労働者は不況とインフレの中で賃金自粛、耐乏生活を押しっけられただけに終った。賃上げに倍する物価上昇のなかで労働者は“社会契約”破棄を宣言し、自らの生活防衛に立ち上らざるをえなかった。
 イギリスにおいては所得政策・社会契約の破綻は証明済みである。それはわずかばかりの改良をちらつかせながら労働者の懐柔をはかり、実際では労働者に犠性を押しつけ、資本の利益を貫いていくブルジョア政策である。労働党・ブルジョア組合主義者はそれを労働者の名において実践してきた。
 日本の中道や社会党はイギリスの二大政党制を美化し、労働党をもちあげている。しかし、イギリスの労働党の経験は資本との協調にどんな未来もないこと、労働者階級の階級的な闘いこそが生活や権利を守る力であり、資本の階級支配の打倒・社会主義政権の実現なくしては労働者の解放はありえないことを教えている。(G)

20 社会主義とは無縁
■仏“左翼”労働運動

 仏の戦後労働運動は、他の先進資本主義国と比べて特異である。多くの国で、戦後の長期にわたる資本主義の相対的安定期を通じて、労資協調型の労働運動に転じている中で、“左翼的”な労働運動の碩を守り通してきたのである。フランス最大の労組センター・CGT(仏労働総同盟)は今日に到るまで共産党支持である。
 では労働者は仏労働運動の中に多くの宝庫を見い出すことができようか。――否、全く否である。形式的には“左翼”ぶっていてもその根本的内容たるや明らさまな労資協調の西独の場合とさして変わらないのである。レジスタンスを中心的に闘った共産党の支援の下、CGTは圧倒的に多数の労働者を組織したが、CGTは社会変革と労働条件の改善を結合して闘うことはなかったのである。それだけではない、仏経済再建さえ担うよう労働者に説教さえしたのだ。――尤もこの責任は亡命先のソ連から帰国したトレーズ共産党書記長が歓迎の労働者にインターに代わってラ・マルセーエーズを歌わせた事に示されるように仏共産党に多くが帰せられるのだが。
 CGT(そして共産党)は、ブルジョアジーの一部が対独戦争協力のとがで、追放されたこともあって、戦後仏社会の中で大きな勢力を誇ることができた。しかし彼らは自らの力を社会変革に向けることなく、むしろブルジョア経済再建のために骨折ったのである。何という“左翼”的労働運動であろうか。共産党閣僚は1949年にブルジョア内閣から追放されたが、しかし、CGTは1953年の第29回大会でも「平和、民族独立、社会進歩をめざす経済綱領」を制定したがこの綱領は労資協調の水路に労働者を導くものであった。55年の第30回大会でフラション書記長は次のように“自己批判”した。
 「この綱領は有害だった。産業別の全国単産や県連でこの綱領のために、みずからの加盟組合の利益と対立する要求を作成してしまったのである。たとえば、企業を近代化しようとして、経営者を支持したのがそれだ」(「戦後世界労働運動史」、学習の友社刊)。
 CGTの“自己批判”にもかかわらず、社会主義は単に祭壇に祭っておき、現実の闘いは資本主義の枠内でのものに終始する、これが仏労働運動の“伝統”となった。58年にド・ゴールが再登場すると、最初はファッショ的と非難したものの、その内に彼のNATO軍事機構離脱や独白の核武装という民族主義に巻き込まれ、又彼の“参加”路線に眩惑されていった。
 “急進的労働運動”の実体を何よりも暴露したのは68年の「五月革命」時におけるCGT指導部の対応だった。大規模な学生の街頭デモに続いて最盛時には7百万から8百万の労働者のゼネスト、一部では労働者の工場占拠(二百カ所以上)が敢行されていた。だがCGTのなしたことは、体制変革を求める労働者の声を圧殺して政・労・資のボス交を開き、10%の賃上げ等の部分的改良的集件(クルネル協定)をエサに闘いを鎮静化させることであった。自らの偉大な闘いに比して令りにも空しい成果に反発した労働者はCGTセギー書記長の締結したクルネル協定に「ノン」の回答を与え、闘争を継続した。だがCGT指導部(共産党と共に)はまたまた裏切りを犯す。彼らはド・ゴールの総選挙の策動に乗せられ、労働者の実力闘争を解体して労働者を“選挙”に埋没させていくのである(総選挙はド・ゴール派の圧勝となった)。
 急進的な組合主義者にすぎないCGT幹部にとって「五月革命」は余りにも手に負えない怪物であった。1972年に共産党、社会党、急進社会党左派による共同政府綱領が成立、CGTはこの綱領を熱烈に支持した。しかしこの綱領もまた、社会主義はお題目にすぎず、ブルジョア社会の中での国有化であり、経済成長であり、労働条件の向上であった。過小消費説に立って労働者大衆の生活の向上と資本の繁栄の両立が叫ばれたにすぎない。この甘い幻想がどんなに破産したかはミッテラン“社会主義”政権の3年間が示して余りある。短い夢の後、CGT傘下の労働組合は仏産業(資本)の近代化の犠牲の転嫁に抗してストを打たざるを得なかったのだ。CGTは政権支持から“反対”に回らざるを得なかったのだ。仏の労働運動が戦後示した数々の歴史が教えるものは、民族的、急進主義的労働運動の空虚さであり、資本主義の革命的転覆なしに労働者の地位の根本的改善はありえない、という単純な真理である。(I)

21 構造改良=民主的改革路線の破綻(伊)

 戦後イタリアの労働組合運動は「構造改良」や「歴史的妥協」路線でしられる共産党の強い影響下にすすめられてきた。イタリア最大の労働組合である労働総同盟(CGIL)は共産党が牛耳る組合であり、共産党は総同盟を通じて労働組合運動に大きな影響をおよぼしてきた。イタリア労働組合運動の歩みは構造改良=民主的変革路線が真に労働者を解放に導くものであるか否かが生きた階級闘争のなかでためされ、検証されてきた歴史でもある。
 構造改良路線は56年の共産党第8回大会で定められたが、構造改良的な考え方は戦後まもなく労働総同盟によって提起された「労働プラン」に見ることができる。49年、「今すぐ実行すべき建設的計画」としてだされたこのプランは、電力開発、開墾・土地改良住宅建設、公共事業計画を柱とした投資を重点的に行うことを要求していた。そして総同盟書記長のヴィットリオは、労働者はたとえ自分たちの生活状態がきわめて悲惨なものであろうとも、このような政策のためには重大な犠牲を払う用意がある、とのべた。しかし経済復興による失業問題の解決を謳ったこのプランはブルジョアジーによる労働者支配の強化を助ける役割を果した。資本の体制の克服ではなく、経済の復興を第一義的な課題としておしだした「労働プラン」は、労働者の闘いを資本の支配からそらせる以外のなにものでもなかったからである。
 共産党=総同盟の日和見主義に助けられて戦後の危機をのりきった資本主義は50年代半ばから60年代はじめにかけてイタリアの「経済の奇跡」とよはれる高成長をとげ、その下で資本の労働者支配は強まり、労働運動は「暗い、長い夜」の時代=後退の時代を迎えた。
 だが資本の良き時代は62〜3年の金属労働者の闘いを皮切りに終り、労働者の攻勢の時代を迎えた。8ヵ月にわたる闘争の後に労働者は全国段階だけでなく、業種別段階や企業の段階でも交渉する権利を初めて獲得し、64年の企業段階における全面的な協約化の道を切り開いた。次いで68〜9年の年金制度改善ゼネスト、69年の「暑い秋」といわれた戦後最大の規模での闘いのなかで、賃金の大幅引上げ、週40時間労働制の獲得など労働運動は人きな盛り上りを示した。
 共産党=総同盟は69〜72年の闘いを、労働組合が自らの生活や権利の防衛という狭い立場に立って、経済の民主的変革という視点を欠いている、と総括し、イタリア経済の構造全体の変革のための闘争と労働条件・生活改善の闘争との結合を訴えた。だが、「経済構造の革新」とは、資本主義の部分的な手直し(生活関連公共投資の増大とか北部と南部の地域不均衡の是正等々)といったものである。
 ブルジョア憲法の枠内での「一連の改良」をやり、大企業の国有化、経済の計画化等を通じて漸進的に社会主義に到達するという構造改良路線は、70年代半はの資本主義の危機の深まりのなかで、一層の進化をとげ、ブルジョア改良主義の本質を暴露した。すなわち共産党=総同盟はブルジョアジーとの「歴史的妥協」を掲げ、キリスト教民主党との「挙国一致内閣」を提唱するに至るのである。
 キ民党のアンドレオッチ内閣が、賃上げ抑制、公共料金抑制、物品税増額等々労働者、勤労大衆に「耐乏生活」を押しつけ、その犠牲で危機をのりこえようとしているとき、共産党=総同盟は、経済の再建を理由にこれを労働者大衆に押しつけた。かれらは抗議のために山猫ストや集会、デモなどに自然発生的に起ちあがった労働者に向って「抗議を政策的提案に切りかえ」なくてはならない、と「産業構造の転換」などブルジョア的改良の空文句をならべたて、胴喝し、闘いの中止をせまった。
 戦後直後の資本主義の混乱と危機の時期にかれらが経済の復興=資本主義の再建を叫び資本を助けたように再び経済の「救済」を叫び労働者の犠牲で資本が生きのびるのを助けたのである。
 構造改良路線すなわち民主的変革路線は今日の日本共産党の路線でもある。ブルジョアジーとの「妥協」までつきすすみ、労働者の根本的利害を裏切ったイタリア共産党=総同盟は近い将来、激動の時代のわが共産党の姿である。(G)

22 「連帯」の意義と限界
■ポーランド労働者の闘い

 “社会主義”圏の労働運動が脚光を郁びることは余りない。1953年の東欧、56年のポーランド、ハンガリー、68年のチェコ等の動乱の中で中心的に戦ったのは労働者階級であるが、自主的な、“恒常的”な労働運動は事実上存在しない。「社会主義国家」「労働者国家」の名の下に、労働運動が専制的な国家資本主義官僚によって封じ込まれてきたのである。スト煽動者や指導者は刑務所か精神病院に送られるのが現実である。
 このような「社会主義」圏の労働運動の閉塞的状況を打ち破り、官製労働組合でなく、労働者の自主的な労働組合を結成し、当局に認知させたのがポーランド「連帯」である。
 「連帯」は政府当局に対する労働者の分断された戦いを止揚し、全ポーランド労働者階級の組織として形成され、政府当局と“対決”した。労働者1200万人の内1000万を組織するような非官製の公然たる労働組合の誕生は「社会主義」国の中では奇跡的と言っても過言ではない。しかもこの「連帯」は、反ソ的民族主義的立場(東欧の労働者の運動がしばしば染まってきた)から脱脚し、自国の支配階級(国家資本主義官僚)との対立の中に自らを位置づけ、階級的闘いを承認したのである。
 しかし「連帯」労働運動はこの階級闘争を貫徹することはできなかった。彼らは賃上げや食料品の値上げ反対で闘い、またポーランド経済を“破産”させた張本人として国家や党指導部を非難した。だが闘いはそこまでであった。ワレサに代表される「連帯」指導部は労働者大衆の生活困窮や経済的混迷を体制の必然的産物と見ず、事実上一部の腐敗した指導者の誤まりに帰着させたのである。「連帯」指導部は体制の根本的変革でなく、党、政府が“腐敗分子”を追放することを期待し、彼らとの協調による改良を目指したのである。「連帯」の華々しい“反政府的”言辞に関わらず、ワレサ等指導部は一貫して政労協調路線を維持してきたのである。
 ポーランド経済が繁栄の時代なら、政府当局と「連帯」の共存も可能であったかもしれない。だがポーランド経済は破滅に瀕していたのである。(それ故にこそ「連帯」の誕生もあったのだ)。支配階級と労働者は相手の犠牲の下で自らとポーランドの未来を切り拓く外に道はなかったのである。まさしく革命と反革命の瀬戸際だったのである。労働者は部分的改良的要求にとどまることなく、自らを支配階級に高めねばならなかった(部分的な生活改善の要求すら体制変革なくして不可能であった)。「連帯」指導部は日常的な闘いに留まることなく未来の大胆な展望を示すことが求められていた。二重権力的状況が一時的なものであり、これに満足することなく労働者の闘いを質的に高める必要があったのだ。
 だがワレサ達に真実の労働運動と社会主義の結合を求めることは無理難題であった。基本的に彼らは労資協調の立場に立っていたのだ。
 82年12月にヤルゼルスキの軍事クーデタによって「連帯」が粉砕された時、「連帯」の側は大規模な組織的反撃をほとんど組織できなかった。政労協調という日和見主義に立っていた以上、彼らが反革命の攻勢に警戒心を欠いていたのは必然である。
 「連帯」は反革命によって粉砕されたが、「社会主義」圏の中で「連帯」労働運動発生の歴史的意義は消えることはないであろう。次に生まれる「連帯」は先輩の限界を克服し、階級闘争を最後まで貫徹し、国際プロレタリアートの輝しい一員であることを示すであろう。西でも東でも労働運動の発展、労働運動と社会主義の結合はいっそう緊密になるであろう。(I)

―完―


変革」10号(1984.7.15)〜35号(1985.1.27)