1.近代的な労働運動の始まり ――「期成会」と労働組合の誕生――
「世界労働運動史」を終えて次に「日本労働運動史」を連載します。労働運動の混迷が続いている今日、過去の労働運動を総括しつつ新たな展望を示して行きたい、と思います。執筆は山田、I両同志です。
日本の労働運動の歴史は1897年(明治30年)の「労働組合期成会」の発足をもって始まる。
明治維新を経てようやく資本主義的発展の道を掃き清めた日本であるが、産業革命を遂行して近代的工場制度を確立していったのは日清戦争(1894、5年―明治27、8年)の頃からである―日清戦争当時は軽工業を中心に、日露戦争(1904、5年)当時は重工業を中心に産業革命が遂行された。工場労働者は明治27年には38万人であったが明治29年には44万人になっている。近代的工場制度の確立と共に、それに呼応して近代的労働運動、労働組合が組織されていった。
97年以前にも“働く者”の組織は存在していたが、それは労働組合とは程遠く、職人組合(同業組合)の部類に属するものであり、労働組合の形をとった場合でも一時的なものであった。
労働者の罷業(スト)や暴動は以前にも明治維新以降数多く生じている。明治初期には、生野銅山(明治2年)、佐渡金山(5年)、高島炭鉱(5年、11年)、院内鉱山(11年)、三池炭鉱(16年)、等々で暴動が生じている。“近代的”なストが初めて生じたのは、1886年(明治19年)6月14日である。当時日本の先進的産業であった甲府市の雨宮製糸紡績場(従業員114人とも198人とも言われる)で百余人の女工が賃金引下げ(“上等工女”で1日32、3銭から22、3銭)と実働時間の延長(1日14時間を14時間半)に反対してストライキを打ったのである。女工のストはその後何度か発生している。――だがこれらの暴動やストは労働者の自然発生的な反発の域を出るものでなく、彼らは恒常的な組織(労働組合)を持つことなく、自分達の憤懣を資本に直接的にぶっつけていったのであった。
近代的工場制の普及の下で、それまでの年少の、家計補助的な女子労働者に加えて、賃金を家族の生活の糧とする男子労働者の登場によって、労働者の恒常的な闘いの組織である労働組合の結成の基盤が確立されたのであった。そして、日清戦争後の不況の中でこれらの労働者は失業と賃金切り下げに襲われていた。労働者に団結の気運が満ちていたのである。
「期成会」は高野房太郎と片山潜を指導者として形成された。両者とも10年を超えるアメリカ滞在の経歴を持ち、高野は「八時間労働制」や賃金闘争を激しく闘っていたアメリカ労働総同盟(AFL)のゴンパース会長(後には“ゴンパース主義”と言われる程労資協調主義者になるのだが)の教えをうけている。片山はクリスチャンだが、社会問題に関心を持ち、貪民救済や社会改良を叫ぶ「社会的キリスト教」派の系列に属していた。
「期成会」は71人で発足したが、半年後には1200人強、明治22年末には3000人強、さらに32年末には5700人強と急速に増大した。この「期成会」が組織した主要な組合は鉄工組合(今日の全金、全金同盟)、日鉄(日本鉄道)矯正会(今日の国労、動労等)、活版工組合(今日の全印総連)である。とりわけ日鉄矯正会はストの中から生まれた組織故に戦闘的
であった。
だが「期成会」や鉄工組合の結成には開明派の資本家や一部の高級官僚が協力していることや、「期成会」の“機関紙”である「労働世界」第一号の社説をみればその限界も自ずから明らかとなる。この新聞は「労働は神聖なり」、「団結は勢力なり」と謳いつつも次のように主張している。
「労働世界は労働者唯一の機関なり。世論を振起して同情を団結し、正義のもとに確実なる労働組合を組織し、内は労働者の技術と位置をたかめ、もってその幸福を保持増進せしめ、外は日本工業の発展、進歩をはからんとする」。
これらのことは、日本の近代的労働運動は出発したが、今だ明確な労働者の階級闘争としての自覚はなく、労資相共に繁栄を目指すという未分化の状態を示していた。これは戦闘的ではあるが組合主義の枠にとどまっていたゴンパースの影響(高野等を通しての)もあるが、基本的には日本の資本主義的発展がまだ緒についたばかりという時代の反映であろう。(I)
2.「冬の時代」から「友愛会」結成へ
1897年(明治30年)に生まれた「期成会」は、前回書いたように急速に発展したが、その没落もまた急であった。明治33年には活版工組合が解散し、ストの中から生まれた日鉄矯正会すら明治34年には解散を余儀なくされ、「期成会」の労働運動は火が消えたようになった。
「期成会」の運動に直接的な打撃を与えたのは1900年(明治33年)の「治安警察法」であった。特にこの第17条は労働組合の結成、団交、争議の、いわゆる労働三権を禁止し、これを犯すものには刑罰を課したのである。近代的労働組合が出発したとはいえ、まだヨチヨチ歩きの状態にあり、この労働組合圧殺法は強烈だった。
勿論、運動の後退は単に一片の法律のみに帰せられるものではない。労働組合のなかに「革命のヒドラ」を見た支配階級の側の、「期成会」への“協力”から弾圧への転換、そして労働者の側における階級意識の理論的、実践的不十分さがその背景であろう。
基本的に労働組合運動が抑圧されている中で、1903年に幸徳秋水、堺利彦らは“平民社”に結集し、労働者中“民衆”の立場から社会主義運動を展開した。とりわけ日露戦争時の非戦論は歴史に残るであろう。しかし労働組合、労働運動という背景を持たない彼らの運動は行き詰まる他なく、“社会主義者”は“硬派”(堺、幸徳等)と“軟派”(片山等)に分裂、抗争し、後者は議会主義への傾斜を強め、前者は急進主義へ突き進んだ。1910年の「大逆事件」で“硬派”はほとんど全滅してしまった。(大逆事件は大部分が当局のフレームアップ=大弾圧である。)
労働組合も、社会主義運動も窒息し、「冬の時代」が明治末期の日本の労働者をおおっていた。
しかし、政治、社会面での労働者、社会主義者への大弾圧の背後で(日本の資本主義は発展を続けていた。日露戦争前後を経て重化学工業の産業革命を成就したのである。工場労働者は戦争前年の明治36年(1903年)の48万人が明治40年には64万人、明治44年には79万人、同45年には86万人と急激な増加を辿っていた。今日の日本の大企業は大体この頃から出発している。明治政府、ブルジョアジーが労働運動、社会主義運動に大弾圧を加える一方では、日本の資本主義は彼らの墓堀り人を次々と生み出していたのである。
明治末期の有名な闘いは、明治40年(1907年)の足尾銅山の鉱夫3千6百人の暴動と明治44年大晦日から翌年元旦にかけての東京市電の労働者6千人のストである。前者は歴史的にみて、労働者の自然発生的大暴動の最後の“花”であった。後者は“整然”(といっても炭鉱などの暴動に比してのことだが)とストを展開し、配当金(電車の東京市営化に伴なっての旧東鉄の解散慰労金)の二、三倍増を勝ちとった。指導者数十名には刑罰と解雇が待っていたが、この市電労働者のストは「冬の時代」に閉塞していた労働者に闘いの希望を与えるものとなった。
同年3月には大阪府下の友禅職工300人、呉海軍工廠3万人のスト、4月には日本郵船、大阪商船、東洋汽船などで横浜港の船員が下船、7月には横浜市水道局の職工と常備人夫50人、神奈川県・平塚のイギリス系日本火薬製造所の労働者52人のスト等々が生じている。
「冬の時代」に増大した墓捕り人がようやくかまくびをあげ始めたのである。
明治45年(大正元年)の8月1日に鈴木文治らが「友愛会」を創立させた背景にはこのような労働者の擡頭があった。「友愛会」は名の通り徹底した労資協調を唱え、「親睦・相愛扶助」、「識見開発・徳性面責・技術進歩」、「資本家は夫、労働者は妻」、等々を主張した。“進歩的”ブルジョアジーや学者達がこの運動に協力した。この会員は、「賛助会員」や「顧問・評議員」は別として、正会員は労働者に限定していた。この親睦団体的な労働者の組織は15人で出発したが急速に増大していき、日本の労働運動の発展に大きな影響を及ぼしていく事になる。(T)
3.友愛会の発展
わずか15人で出発した友愛会は急速に会員を増大させていく。半年後の大正元年末には正会員は260人強、創立一周年記念大会では1771人に(その他に女子労働者の準会員――5周年大会でこの“差別”は廃止され男女とも正会員となる――が158人)、大正3年1月には正会員2282人、準会員169人、等々。東京や神奈川、さらには北海道・室蘭等で支部も結成されていった。
このような急発展を可能にしたものは何か。それはまず第一に、前回数字を掲げておいたが、労働者階級の急増である。労働者は、労働組合が存在しない(弾圧される)状況の下では、このような労資協調の組織でも、そこに“団結”の砦を求めざるを得ない。
第二にはブルジョアジーや学者・官僚の“支援”が挙げられる。友愛会顧問には、法学博士の桑田熊蔵、小河滋次郎、日本興業銀行総裁の添田寿一等々が名をつらね、評議員には子爵・五島盛光、「民本主義」の吉野作造、平野鉄工所主平野竜亮、大江印刷所主大江太、東京電気会社工業部長新荘吉生等が顔を出した、さらには財界の大物、子爵渋沢栄一もこの友愛会の保護者であった。ブルジョアジーや“有名人”の協力故に、職場の中でもさして抵抗を受けることなく会員を獲得できた。
“協力者”達の狙いは何であろうか。会長の鈴木と同じように、学者達の中には労働者の窮状を“博愛的団結”で救うことを目ざしたものもいた。だがブルジョアジーや官僚の意図は明白だった。彼らは明治末期の“社会主義”者、無政府主義者の活動を見てきており、新しい労働者の大群が“過激派”と結びつく事を恐れていたのである。労働者の激発を防ぎ、彼らを“人格”や教養・技術を磨くことに誘導し、労資協調の精神を植えつけること、これが狙いであった――それ故に明治の活動家達は友愛会を支配階級のヒモ付きと激しく攻撃したのであった。
しかし、労資協調の組織であろうと、さらにはズバトフ型の組織であろうと、労働者組織である以上、そこに何らかの労働者の声は反映されざるを得ない。
第一次大戦の勃発によって、後には空前の大戦景気を謳歌するのだが、初期には貿易が途絶え、失業者が街にあふれ出した。大正2年の労働者数は92万人だが、翌年には85万人に減少している。友愛会はこの不況、首切り、賃下げ等々の労働問題に対応せざるを得なかった。友愛会幹部は明治の社会主義者の「戦争反対」とは無縁であり、又ストなどの強硬策には反対で、労資の双方をなだめ、妥協を図る、という方針であったが、ともあれ、彼らは現場の労働問題に深く対応せざるを得なかったのである。――現実の労働運動との接点の中で、友愛会は治安警察法第17条(労働組合の弾圧)撤廃の運動も展開していくことになる。
大戦後の物価騰貴(とりわけ米価の急騰)を契機として「米駆動」が富山から愛知、関西、東京等々へと飛び火し、大衆の暴動は支配階級を震憾させた。労働者も激しくストライキ闘争に突入した。大正6年のストは398件、参加人員は57,309人、同7年は417件、同66、457人、同8年は497件、同63,137人となっている。大正7年の友愛会六周年記念時には友愛会は会員3万人を擁しており、押しもおされぬ労働者組織の中心勢力となっていた。労働運動の高揚の中で大正8年の第七周年大会では名称を「全日本労働総同盟友愛会」と改称し、教養的、互助組合的綱領は廃止され、「労働組合の公認」や「八時間労働制」などの正真正銘の労働問題が掲げられ、さらに普通選挙権運動をも担っていくようになった。友愛会は結成7年にしてようやく近代的労働組合組織への脱皮を勝ち取ったのである。(T)
4.“博愛主義″から脱皮 ――友愛会から労働総同盟へ――
大正8年(1919年)友愛会は全日本総同盟友愛会と名称を変更するが、大正8年から11年にかけて労働運動は大きく盛り上った。
ただ争議の内容は、大正9年3月の戦後恐慌を境にそれまでの賃上げを中心とする“攻勢的”な闘いから“守勢的”=防衛的な闘いへと転換する。すなわち、大正9年3月の恐慌によって、企業倒産が相つぎ、労働市場は悪化し、賃金切り下げや首切りが相ついだ。このため、前年からの高揚を引き拙いで労働者は闘いにたち上ったが、しかし闘争は深刻化し、長期化、大規模化の様相をとるに至る。
争議件数、参加人員とも大正8年の497件、6.3万人から9年には282件、3.6万人へと半減した(同10年246件、5.8万人、同11年250、4.1万人)。そして、この時期の運動の特徴として、争議が長期化するのみでなく、大企業で争われるようになった。とくに大正10年には、千人以上の規模で全体の56%を占め、神戸川崎・三菱製船所をはじめ大企業に争議が集中したのであった。
この困難な条件のなかで労働組合は敗北を重ねながら鍛えられ成長していった。
すでに大正8年、神戸友愛会を中心に関西同盟会が結成され、その「創立宣言」の中で、団結権、団交権、争議権が明確に要求されたが(これが、日本の労働運動史上、はじめてといわれている)、大正9年以降、関西を中心に多くの労働組合でこの団交権が争議の中心的要求としてとりあげられた。10年4月、大阪電燈に端を発した大阪市周辺の一連の争議では、8月までの5ヶ月間に藤永田造船、住友電線、住友鉄綱所など代表的な重工業経営を含めて31件に達したが、17件で労働者は団交権を要求し、大阪電燈、藤永田造船など四工場でこの承認をかちとっている。これは労資協調の互助組合的な形で出発した友愛会もいよいよ労働組合としての体裁をととのえてきていることを示すものだろう。
そして、この争議の波は、10年6月から8月中旬にわたって展開された神戸の川崎及び三菱造船所においてピークに達した。
当時神戸には、川崎造船所(1.3万)三菱造船・三菱内燃機・三菱電機の三菱三社(1.2万)神戸製鋼所等の日本を代表する大工場が存在していた。ここで40日余りに及ぶ空前の大争議が発生したのである。
その中心的要求は、「横断組合の存立」「団体交渉権の確認」であった。三菱内燃機で始った労働者の闘いは、川崎造船、三菱造船・電機、神戸製鋼にまたたくまに広がり、労働者はストライキ、サボタージュなど激しい闘いをくり広げた。
総同盟友愛会の全面支援と示威行動、官憲との衝突の中で労働者は工場占拠に出、権力は軍隊を出動させ、警官は抜剣して労働者を襲撃する等、この時代を画する大争議となった。
結局闘いは、賀川豊彦ら指導者の検束で労働側の惨敗に終るのだが、この闘いの中で労働組合は従来の博愛的・人道主義的な労資協調的労働組合の残りかすを一掃していくことになる。
この運動を指導したのは関西総同盟友愛会の賀川豊彦で為ったが、彼の「無抵抗の抵抗」路線とかキリスト教的博愛主義は、すでに労働運動の現実に対抗しきれず、ストライキや工場占拠など現実の労働者の闘いによって乗りこえられていったのである。
争議直後、総同盟機関紙は次のようにしるしている。
「『力』に対するものは結局『力』である。若し労働者の正義と信じて進む所にただ『力』をもって押しつけようとのみするならば、労働者も畢竟、正義とか人道とかいう、弱者のお題目を唱ふることを止めて『力』を以って応対する外はない」、と。
総同盟友愛会は、この直後の第十周年大会で、友愛会を名称から削除し、日本労働総同盟をなのり、翌年には綱領の全面的書きかえをはかるのである。(A)
5.自然発生的労働運動の一表現 ――総同盟内のサンディカリズム的傾向――
第一次大戦後から1920年代初頭にかけて、サンディカリズムが労働運動の中で大きな影響力をもった。それは、大杉栄と結びついた水沼辰夫らが指導する印刷工正進会や信友会など反総同盟系組合だけでなく、総同盟の関東系組合にも広く浸透していた。
サンディカリズムとは、ストライキや工場占拠など労働者の直接行動によって資本家を工場から追放することで労働者の解放がかちとれるかに考える急進的な組合主義であり、従って国家権力の問題を無視し、資本の政治権力の打倒と労働者権力の樹立という課題をタナ上げする。
こうしたサンディカリズムが大きな影響力をもちえたのは、一つは日本の社会主義運動が誕生以来もっていた一つの傾向であったとともに、当時の労働運動がおかれた客観的条件に規定されていた。
当時は、専制的な政治支配のもとで労働組合は承認されず、争議を行えば直ちに官憲(ときに軍隊も)が出動する中で、労働者が闘いに決起しようどすれば“直接行動”に訴える以外になかったからである。
だから、“直接行動”そのものは、労働者の闘いに大きな意義をもっており、いくらかでも“戦闘的”な労働者の闘いは、“直接行動”なしに考えることはできなかったのである。この意味でサンディカリズムが高揚したといっても、その多くは理論的に整理されたそれというよりも“気分的”なものであり、自然発生的な労働組合の闘いを擁護する限りでサンディカリズムは大きな意味をもちえたのである。
従って、こうした直接行動に決起した労働者の闘いを自然発生的な闘いのままに放置することなく(大杉栄らはこれを正当化しようとした)、この闘いをさらに深めるとともに国家権力をめざす社会主義的闘いと結びつけることが求められたのであった。
しかし、当時の総同盟対反総同盟や総同盟内部の議論をみると「議会主義か“直接行動”か」といった“観念的”な討議がすすめられていた(というのは、普通選挙も実施されていない投階で、どちらかを選択しようというのは誤っているだろう。普選の要求も“直接行動”も両方必要だったのである)。
こうしたサンディカリズムはロシア革命とレーニン主義の紹介やイタリアのゼネスト敗北の総括の中から、旧来の社会主義者(山川、荒畑ら)が社会主義・共産主義に移行するにつれて、克服がはかられていく。つまり、有名な“アナ・ボル論争”を通じて旧来の日本の社会主義運動の中にあった小ブル的急進主義が克服されていったのである。
“アナ・ボル論争”の頂点は、大正11年(1922年)の労働組合総連合創立大会であったが、ここで全国的な労働組合の総連合体をどうつくるかをめぐって両派が“激突”した。
すなわち、大杉ら反総同盟派は、この総連合を各労組の行動の自由を侵さない自由連合にすべきだと主張したのに対し、総同盟派(山川・荒畑らの社会主義者を中心に、松岡、赤松ら右派も含む)は、中央集権的な労働組合の結成を主張した。
前者が松岡ら総同盟の右翼的幹部に対する正当な反発も内包していたとはいえ、それは一組合一代表、組合自主権の絶対化の主張に他ならず「サンディカリズムのまる写し」(荒畑寒村)であったことは明らかであろう。労働組合といえども労働者の階級組織であり、より強力に組織されてこそ資本と闘いうること、しかも労働組合への組織率はわずか三%ほど、戦後恐慌による相次ぐ組合の敗北の中で全国的な労働組合の統合が求められていたこと、等考えれば、サンディカリズムが闘いの展望を示すことができず、敗北していく以外になかったといえよう。
この大会を契機に、そして翌年の関東大震災による大杉らの虐殺事件で、無政府主義とサンディカリズムは、急速に没落していき、労働運動における総同盟の中心的地位が確立されていったのである。(A)
6.大衆迎合主義をこえず ――山川均と総同盟の「方向転換宣言」――
総同盟は1924年(大正22年)2月の第11回大会で「現実主義」への転換をめざす「方向転換宣言」を発表した。従来の運動を「理想に燃ゆる少数者の運動」「ややもすれば潔癖と生硬」に傾いていたと総括し、「政策を積極的に現実化」しなければならないと主張した。
これはそれまでのサンディカリズムの清算を意味していたが、同時に新たな左右の対立(22年に結成された共産党と右翼社民)の時代に入ったことをふまえたものでもあった。
そしてこの「方向転換宣言」が、共産党結成直後に発表された山川均の「方向転換論」に大きく影響されていたことも明らかである。そこで今回は、山川の「方向転換論」と総同盟の「方向転換宣言」の関係とその意味について検討してみよう。
山川の「方向転換論」は共産党結成直後の22年7月に発表されたもので、これまでの社会主義及び労働運動は「大衆にさきだって階級的にめざめた小数の運動」として「一歩をふみしめ」てきたが、今や「第二歩」をふみ出さねはならぬ、第二歩のために「大衆の中へ!」というスローガンを掲げるべきだ、とした。そしてコミンテルン第三回大会の「大衆の中へ!」のスローガンを引き合いに出して「しかるに大衆の多くはなお改良主義と中間派の指導のもとにある。そしてそのあいだは、共産主義者はこれらの大衆と協同の戦線をつくらねばならぬ」(「無産階級の『協同戦線』論、8月)と、後に「共同戦線党」(一種の解党主義)へと結実する日和見主義の端緒的な主張をも明らかにした。
これらの主張が、主としてサンディカリズムの克服に向けられたものとはいえ、社民や大衆への追随主義を内包していることは否定しえないであろう。たしかに「大衆の中へ」入っていくこと、そして大衆を前衛党のもとに獲得していくことは必要だった。しかし、このことは大衆を前衛政党のもとに引きあげること、改良主義と中間派の指導から引き離して前衛の指導のもとにかちとっていくことをぬきには、なしとげうるものではなかったのである。「共産主義者と大衆との共同戦線」といっても、それは大衆の改良主義をそのまま容認するとすれば、改良主義への追随と屈伏に帰着してしまうであろう。
しかも、山川には党の闘いと労働組合の闘いの明確な区別、その関連についての正しい評価がみられず、党を労働組合に解消させるような主張をしている。
こうしたあいまいな点を西尾や赤松といった社会民主主義者は徹底して利用し、総同盟の右翼的転換に結びつけようとしたのは必然であった。総同盟の「方向転換宣言」は次のように述べている。
「我国の労働組合運動は少数者の運動から転じて大衆運動に向うべき一段階に到達したのである。改良政策に対する消極的態度は積極的にこれを利用することに改められなければならぬ」。
文章上は、左派の国領伍一郎、谷口善太郎の修正案が通って左翼的な形で採択されたものの、この「改良政策」の重視を右翼社民が、改良主義への転換として受けとめたのは当然である。すなわち「改良政策の積極的利用」という言葉では、左右の一致をみたものの、一方は労働運動を資本の体制に順応させ定着させる限りでの“現実主義”への転換であり、他方は、共産主義の影響力を拡大するために広く大衆の要求をくみあげ闘っていくという意味にである。この「現実主義への転換」が、左右の妥協の産物であった所以であるが、同時にそれは当時の共産党自身がかかえていた右翼社民に対する妥協主義と追随主義の一つのあらわれでもあったのである。
ともかくこうして左右の対立をかかえつつも、総同盟は、“現実主義への転換”をなしとげていったのである。
7.急進的な反ダラ幹闘争 ――総同盟の分裂――
友愛会(1921年に日本労働総同盟に改称)は大正元年(1912年)に15人で出発したが大正の最後の年(1925年)には大分裂に至る。資本主義の下で労働運動内の対立・抗争は“必然”であるが、この問題に対する左派の対応を中心にここでは論じる。
アナ・ボル論争を通じて“ポルシエヴィキ化”した総同盟は第二周年大会(大正11年)で戦闘的綱領を採択し、順調に発展するかであった。だが翌年6月の共産党の第一次検挙、9月の関東大震災を契機とした活動家への大弾圧を契機に総同盟幹部の右傾化が公然と進み始める。第十三周年大会は「方向転換宣言」で左右両派の妥協が図られたが、総同盟内の対立・抗争はしだいに強まっていったのである。
総同盟幹部(鈴木、松岡、西尾等)の右傾化(あるいはその顕在化)は政府の弾圧だけではない。他方ではILO(国際労働会議)代表選任への組合参加の容認や1925年の普選法にみられるアメの政策をも契機とするものであった。だがそれらはあくまで契機にすぎず、大戦後の恐慌・不況の長期化の中で総同盟が活動の展望を見失ったことが根本的原因である。個々の争議での英雄的闘いにもかかわらず労働者は敗北することが多かったのである。労働運動は“戦闘的”空文句だけでは前進しえない局面にたちいたっていたのである。
総同盟幹部達は運動の行き詰りを政府や資本家との妥協・協調によって切り開こうとした。これに左派は猛反発し、反幹部闘争を激しく繰り広げた。総同盟幹部は自らの路線遂行のためには左派切り捨ての決意を固めていった。取らの背後に支配階級の公然隠然たる支援があったことは言うまでもない)戦闘性を失った組合幹部が自らの地位を守るためにも左派活動家を除名するのは避けられない。問題は右派幹部のこのような分裂攻撃に左派がいかに対応するかであろう。
右派幹部の挑発行為にまんまと乗せられたのが左派である。総同盟・関東同盟大会における渡辺政之輔ら左派少数派の退席・関東地方評議会の設立などはその最たるものであろう。25年の大分裂の前夜においても左派は“ダラ幹”(総同盟分裂時にこの言葉が生まれた〉追放という「反幹部運動に終始した」(『近代日本労働者運動史』、社会経済労働研究所著)のである。
勿論、右派幹部の日和見主義、協調主義を追及・暴露し、彼らを組合指導部から追放していく闘いは必要である。しかしこの闘いは一片の決議や単なる糾弾だけでなし得るものではないのである。資本主義の労働運動が多かれ少なかれ経済主義的傾向を帯び、また右翼組合幹部を生むのも避けられない。これら幹部の背景に支配階級の支援があるだけではない。一般労働者も自然発生的には経済主義的意識を容易に超えず、右派幹部はこれらの「声なき声を利用して自らの地位を保全しているのである。
ダラ幹追放は長期のねばり強い、しかも労働者政党の指導の下でのみ可能となってくるのである。左派組合活動家は日常的な労働者の利益を守る闘いと社会主義の闘いを結合し、それを強めていく中でこそ右流幹部追放が実現されることを理解しなかったのである。彼らは右派幹部の腐敗、堕落、日和見主義を糾弾することに急で、それが組合機関で実現しないと組合分裂さえ辞さなかったのである。右派幹部の除名・分裂策動に乗せられてしまったのである。この結果、右派幹部の下に多数の労働者を放置(右派40組合、19,460人、左派32組合、10,778人。諸説あるが『日本労働組合物語』による)し、左派は自らの活動領域を狭めることになったのである。(I)
8.人民主義的労働運動の展開 ――評議会成立とその立場――
労働総同盟が分裂し、25年(大正14年)5月に日本労働組合評議会が結成された。評議会は、これから28年4月に解散させられるまでの3年近く、日本の労働運動を中心になって指導することになるが、その指導は多くの混乱に満ちたものとなった。
評議会は、その綱領の第一に「組合運動の目的」として次のような主張を掲げた。
「組織と闘争によって資本の搾取に対抗し、労働条件を維持改善し、生活の安定と向上をはかり、労働階級の完全なる解放と合理公正な社会生活の実現のために闘うことは組合運動の目的である」、と。
ここには、資本との妥協や協調主義をこととする総同盟の右翼社民に対し、闘争によって組合運動上の問題を解決すべさという正当な批判精神がこめられている。さらに総同盟が「改良闘争の利用」を強調することで労働運動を体制内の改良主義におしこめようとしたことに対し、労働者階級の最終的目標たる「完全なる解放」を対置している。
だが、総同盟分裂の際もそうであったが、評議会の西尾や赤松らに対する批判は、機械的な急進主義的反発の限界をこえることはできなかった。それは、評議会がめざす労働運動の展望と不可分に結びついていた。
評議会運動の特徴は、評議会が提起した「無産政党」の主張にはっさりと示されている。評議会は、云う。
「無産政党」とは「無産階級の全利害を代表し」「労働者小作人および一般無産階級を中心として組織し」「綱領的表現は当面の政策に限る」政党であり、「共産党であってはならないが」「組合運動の前戦にたちこれを指導する」ものでなければならない、と。
評議会がこうした「無産政党」を提起した背景には前年(24年)の共産党の解党という事情が存在しているが、しかし、ここには評議会のめざす労働運動の本質的特徴が示されていないだろうか?
評議会は、「無産階級の全利害を代表」した政党について語る。しかし、この「無産階級」とは単に労働者階級のことではなく、労働者と「小作人及び一般無産階級」であるというのである。これは、資本のもとで支配・搾取されている「資本主義の墓掘人」として歴史的な使命を担うべき労働者階級の役割を否定したものであり、労働者と農民(小作人)の階級的・歴史的地位を無視したものであることは明らかである。
「労働者の解放」と「小作人の解放」の課題が同一のものでないことは、戦後の農地改革をみれば明らかであろう。評議会は、「労働階級の解放」についてたしかに述べた。しかし、それは当時の被支配階級一般に対する同情と支配階級に対する怒りを自然発生的な形で表明したにすぎなかったのである。
すなわち、評議会のめざす労働運動は、労働者の階級的な独自の闘いと意義について自覚されておらず、「労働階級の解放も、労働者農民(小作人)の同時的な解放をめざす(全人類を一挙に解放しようとした空想的社会主義者と同じ)左翼エス・エル的な人民主義の運動に他ならなかったのである。これは、一言でいえば、評議会の運動が自然発生的な労働運動の水準を依然として抜け出すことができず、人民主義的な闘いをその本質とも特徴ともしていたことを示している。
かくして評議会は、右翼的な労働運動としての総同盟に対し、急進的な労働運動として日本の労働運動を指導し、闘うことになり、結成一年後には13,625名(32組合)から35,085名(59組合)へと成長していった。(A)
9.組合急進主義の限界を露呈 ――日本楽器の争議について――
評議会の労働運動の中で注目されるのは、26年に闘われた「太陽のない街」で有名な共同印刷、それに浜松の日本楽器の争議であろう。前者は渡辺政之輔ら関東地方評議会が指導して58日間のストライキ、後者は評議会本部から三田村四郎が派遣され、105日に及ぶ大ストライキが打たれた。争議そのものは、いずれも労働側の敗北に終わったが、評議会を象徴する闘いとなった。
ここでは、日本楽器の闘いをとりあげてみよう。
浜松は、遠州織物の産地として知られ、市内には織布、染色、醸造、製材、製菓、鉄工など400工場、労働者15000千人を数えていた。中でも日本楽器は、男工1046人、女工226人をもつ市内随一の大工場で山葉オルガン、ピアノなどの楽器では国内で独占的な地位をほこり、飛行機のプロペラなども製造していた。
25年末に市内の鈴木織機で評議会加盟の浜松合同を組織した際、争議となり、組合側の全面勝利となったのを契機に、日本楽器でも組合に加入する者がふえ、26年4月には1000人を突破して労働者の大半を組織するに至った。4月末「衛生設備の完成」「会社都合による休日の日給支給「公傷の際の日給支給」「年2回の慰労会」等、労働者は全く当然の“嘆願書”を会社側に提起したが、これを資本が拒否し、直ちにスト突入となった。
この当時の資本=経営者は、労働組合の存在そのものを憎悪し、ストライキを“犯罪行為”と考えていた。
日本楽器社長の天野千代丸は、争議勃発と同時に新聞紙上に「組合破壊のため飽くまで闘う」という声明書を発表し、政府、警察権力、右翼暴力団(社長の長男が右翼団体=大化会に属していた)を利用して弾圧にのり出した。
これに対し、労働者は連日のように示威行進や演説会を開き、暴力団とわたりあい、争議本部は「争議日報」を出し、6月6日には市内数工場の支援ストが敢行された。さらに5月末の警察の一斉検挙に対し、秘密の指導部=“アジト”と「細胞」が組織され、「争議日報」が再刊されるとともに、「細胞」は、労働講座を開いたりして争議の中心となって活動し、6月ごろまでは「一糸乱れぬ統制」のもとに闘った、という。
ここには、労働組合への組織が直ちに資本の激しい弾圧と攻撃に結びつき、それだけに激しい労働者の闘いが発展せざるをえない当時の状況が示されているだろう。
しかし、自然発生的な労働運動のもつ限界も示されている。労働運動が社会主義と結びつかない限り、たとえそれが激しく闘われようと展望を失わざるをえないのである。
三田村らは、細胞に「争議を維持発展させるだけでなく、政治的目的」も付与せねばならなぬとして、「共産主義者の養成」なる任務も与えたが、勿論こうしたことが労働組合一人で可能なはずもなかったろう。
加えて、彼は非合法の指導部=アジトを利用して全面的な闘争指導をすすめたが、闘争の長期化とともに一般組合員からうきあがり、かえって闘争の急進化を自己目的化する結果となったのである。
事実、闘いがこう着状態に入るとともに、評議会の闘いは、“戦術急進主義”の様相を強め、7月半ばに“最終的暴動”を敢行し(三隊の決死隊をつくって、市長、会社支配人、警察署を“襲撃”する)、闘いの展望を喪失するとともに、一斉に逮捕されてしまったのである。
日本楽器の闘いは、百人をこす来援者、51回の演説会、宣伝文書20万枚と評議会の総力をあげて闘われたが、その急進主義的組合主義の限界をうきあがらせたのであった。(A)
10.福本主義に翻弄される評議会 ――急進組合主義と観念的セクト主義の結合――
評議会の闘いは、組合急進主義=人民主義的闘いとして展開されたが、それは福本主義と結びついて一層観念的なものとなった。
福本主義は、再建共産党の指導的理論として、26年から27年にかけて一世を風靡したが、この理論が労働組合に与えた影響は大きなものがあった。というのは、評議会は、福本の「政治的意識の完成」のための「理論闘争」や「分離結合」の理論をそのまま受け入れ、実際の組合運動に適用せんと努力したからである。この努力は、組合員に対し「筆紙につくしがたい」(谷口善太郎)苦心を強要したという。
「組合員は議会解散請願運動のために闘い、健康保険問題で闘い、対華非干渉運動のために闘い、ストライキのために闘い、ビラまき、ボスター張り、演説会等々に活動し、そして食うために朝から晩まで工場で汗水流して働いたその暇に――実にこの多忙な闘争の間に『意識の完成』のために『理論闘争』を行い、『理論闘争』の戦場へ動員されたのである」(谷口『評議会史』214頁)。
もちろん、「理論闘争」が一般的に問題なのではないだろう。それは政治闘争、経済闘争と並んで階級闘争の一部分を構成している。だが、福本主義は、「主体の形成」のためにはまず「理論闘争」が必要だとし、労働組合の基本的任務としての労働者の生活や権利を守る闘いよりも優先する課題としてこの「理論闘争」を位置づけたのであった。
そもそも福本の「理論闘争」は、労働者の階級意識を育て発展させることとは全く無縁であった。彼の「理論闘争」は機械的で観念的な反対派の排除と同じであり、労働者の萌芽的な階級意識を一貫した科学的なものに高めていくことではなかった。その意味では労働運動の自然発生性への追随を意味する急進的な経済主義だったのである(現在の動労の革マル派と同じく)。
こうした観念的でセクト的な福本の急進主義は、評議会自身の歓迎するところでもあったろう。福本は、24年の総同盟の分裂に対しても「組合大衆が組合主義から分離して、全無産階級的政治闘争を受け入れる準備をしたもの」と合理化し、その急進主義・分裂主義をふりまわしたが、これは急進的組合主義者たる評議会の組合幹部の気分とぴったり一致していたろう。
そして「主体形成」のために「理論闘争」に努力しない者は「組合主義」「折衷主義」として断罪されたのである。しかも、隔日ごとに開かれたという「学習会」たるや、観念的で難解な哲学用語(しかも無概念な!)を羅列した福本自身の著作が選ばれた。
こうした観念的な「理論闘争」の展開は、必然的に労働組合の基本的任務たる経済闘争に対する「軽蔑的態度」を生ぜしめた。「やがて労働組合の基本的闘争が“経済闘争”として軽視され……労働争議の先頭にたって奮闘する活動分子を“ストライキマン”と冷笑するにいたった」(野田律太『評議会闘争史』)。
この経済闘争軽視の傾向は、27年前半とくに顕著な形であらわれた。ときあたかも、27年の昭和金融恐慌による日本資本主義の経済的混乱の時代であった。資本による激しい合理化と首切り攻撃が労働者の上におそいかかろうとしていた時、評議会は、「理論闘争」にあけくれ、「意識と主体の完成」といった観念的おしゃべりにふけっていたのである。
評議会が結成一年にして1.3万人から3.2万人に急増したのに対し、その後組織力を停滞させていったのは、評議会のこうした活動と決して無関係ではあるまい。(A)
11.赤色労働組合の全面展開 ――全協の極左戦術――
1928年の三・一五事件による共産党弾圧、次いで4月10日の三団体解散命令によって評議会は解散を余儀なくされた。この後をうけて同年12月に組織されたのが日本労働組合全国協議会(以下「全協」と通称す)である。
評議会の末期には、福本イズムを“清算”した共産党の「組合テーゼ」が打ち出され、そこでは「組合と政党との混合とそれからの脱却」、「これらの組織(党と組合)は各々に独立した組織であって機械的従属関係にあるものではない」等々の総括が出されていた。が、全協は評議会よりももっと露骨に党と組合の混同、赤色労働組合主義を深め、急進的政策を実践していくのである。全協は結成当初より「我国における唯一の革命的労働組合――赤色労働組合である」と謳い、「協議会(全協のこと)は労働者階級を搾取の鉄鎖より解放するために資本主義を克服し社会主義を実現するために闘っているプロレタリアートの最尖鋭分子の組織体としての日本共産党の指導のもとに闘争することによって直ちに階級的左翼労働組合の本質を獲得しなければならぬ」と主張したのであった。
組合が党の“指導”を受けることは勿論あるが、党の指導のもとに闘争することによって「直ちに階級的左翼労働組合の本質を獲得することなど不可能であり、大衆的な組織である組合を党の色メガネを通して観ているのである。このような赤色労働組合主義の思想の下で、全協は極左的戦術を展開していく。
1927年の金融恐慌から日本資本主義の矛盾はいたる所で噴出し、29年のアメリカ大恐慌は日本経済に決定的とも言える影響を与えた。賃金切り下げ、解雇、工場閉鎖等が相次いだ。工場労働者数は28年の193.6万人が、29年には182.5万人、30年には168.4万人、31年には166.0万人に減少した。逆にスト件数、参加人員は27年の383件、4.7万人、28年397件、4.6万人から、29年576件、7.7万人、30年907件、8.2万人、31年998件、6.5万人、と急増している。
資本主義の危機の犠牲が労働者に全面転嫁されるなかで、労働者は資本に対する激しい闘いに立ち上がらざるを得なかった。労働者が日常的利益を守る闘いと、さらに労働者の地位の根本的解放の闘いを結合して闘う絶好の機会だったのである。労働者の争議に官憲の介入は日常茶飯事であり、また右翼組合幹部はしばしば資本・当局と妥協して労働者の闘いを裏切っていた。労働貴族どもを暴露し、当局・国家の階級的本質を暴露する条件に事欠かなかったのである。
だが全協指導部は、大衆の急進的意識をそのまま激化させただけと言っても過言ではない。資本の横暴な合理化に工場破壊を、スキャップ・官憲の弾圧には武装自警団や赤色テロルを、そして右翼幹部の指導する組合には左翼分派を組織していく。全協の極左戦術は30年5月の武装メーデーで最高潮に達する。
資本・官憲の攻撃、弾圧は苛酷であり、右翼幹部の裏切りは目にあまるものがあったが、このような状況の下での極左戦術(官憲との武装衝突、ゼネ・スト万能主義、組合の分裂等々)は労働組合の組織的、階級的発展に寄与するどころか、むしろ資本・当局に一層の弾圧の口実を与え、また右翼幹部の「仝協は組合破壊者、分裂主義者の集まりだ」との反撃、居直りの契機を与えたのである。
全協は武装メーデーで破綻をあらわにし、武装闘争を“自己批判”するが、赤色組合主義そのものは何ら真剣に総括されることはなかった(国際的にもプロフィンテルンの赤色組合主義が横行していた)。
全協が工場・職場の日常経済闘争を軽視し、官憲等との激突に精力を費し、右翼幹部の暴露も具体的闘いと結びつけて展開されず、「反ダラ幹」闘争に終始したとすれば、全協が労働者から遊離していくのは不可避であった。30年代半ばの、帝国主義が全面的にのさばる頃には、完全に崩壊してしまうのである。全協は組合と党を混同し、又経済的闘いと社会主義の闘いを結合するすべを知らなかった(もっともこれは革命的労働者政党が存在して初めて可能となってくるのであるが)。戦前の労働運動の崩壊に全協もその責任を逃れることはできないだろう。(I)
12.労資協調の極致 ――産業報国会――
1929年に始まる世界的な大恐慌の波は底の浅い日本資本主義を根底から揺さぶった。工場閉鎖・解雇が相次ぎ、辛うじて職場に残った労働者にも労働強化や賃金切り下げ等々が加えられた。31年(昭和6年)には満州事変が軍部によって引き起こされた。この事件は結局十五年戦争となっていくのだが、最初は現地軍の独走であった。しかし“国難”を海外への侵略――とりわけ大陸への――で“克服”しようとする志向は支配階級全体の意志となる。そればかりではない、労働苦、生活苦、失業の増大の中で、労働者もこの排外主義に動員されていくのである。
外に帝国主義戦争が荒れ狂い、内に軍部ファッショが強まる中で、労働運動の中にもファッショ運動を支持するような国家社会主義が浸透してくる。右派組合でもその主流はこの露骨な運動には反発を示したが、彼らは自らの立場を「健全なる労働組合主義」として打ち出した。すなわち三反主義――反資本主義、反共産主義、反ファシズム――である。彼らの中心が「反共産主義」にあるのは言うまでもない。反ファシズムなるものも労資協調の域内平和を乱すファシズムに対する反発以上のものではない。昭和11年に総同盟と全労が合同して組合員十万を誇る全日本労働総同盟(全総)が結成された。この右派労働運動の大本山は翌年の日華事変を迎えるや否や、ストライキ絶滅宣言を発し、“国難”に労資一致団結して立ち向かうことを宣言したのである。
右派幹部は侵略戦争の支持、スト放棄宣言等々によって組合の“利益”を守り、又組合の“合法性”を維持しようとしたのであるが、昭和13年に発足した産業報国運動の展開の中で自らの存在も否定されてしまう。右派幹部は一応は労資の“対立”を是認して、その上での協調を唱えるのであるが、産報運動になるとそもそも労資の対立そのものが存在しないのである。労働組合が存在する余地はないのである。最初政府(そして右派組合幹部も)はこの産報と労資協調の組合の“両立”を考えていた。だが戦争遂行という資本の最大の緊急時にいくら穏健な組合とはいえ存在は認められない。ネコの組合でもいつトラの組合に変身すると限らないのである。全総は13年、産報への参加(組合解散)をめぐって、ほぼ以前の全労と総同盟に分裂した。労働組合の存続を主張した総同盟も15年には自主解散して産報に流れ込まざるを得なかった。
産報下の労働者の状態は辛酸を極めた。政府は、国民職業能力申告会、従業者移動防止令、重要事業労務管理令などの労務統制令を相次いで公布し、さらに勤労報国隊、学徒動員、女子挺身隊、国民勤労動員等で強制労働を強いた。賃金は賃金統制令等々により抑圧されたままであり、実質賃金は低下の一方であった。
苛酷な労働の下で自然発生的な労働争議も発生(昭和15年271件、16年159件、17年173件、18年292件、19年219件)したが、組織をもたぬ労働者の抵抗は絶望的であった。
産報運動の歴史は労働者が自らの組織を失った時、労働者にいかなる運命が待ち受けているかを示して余りある。又、労資協調の労働運動が結局は資本の完全な統制・服従に移行し、労働組合そのものを否定していったことを暴露した。だが産報下の労働者の悲劇は左派組合幹部(そして左翼政党)も責任の一端を有している。当局・資本の弾圧が相次いだとはいえ、労働者の緊急当面の闘いと社会主義の闘いを有機的に結合することができず、結局は労働者を資本・当局や右派組合の“挙国一致”の大波の中に放置してしまったからである。(T)
13.高揚する労働運動 ――産別の成立と十月闘争――
戦後の日本の労働運動は、産別会議の登場とともに始まるが、我々は産別会議の闘いを三回にわけて検討したい。第一に46年8月に成立した産別会議と十月闘争、第二は47年の二・一ゼネスト、第三はそれ以後の地域人民闘争や産別民主化同盟の成立の中での産別崩壊、である。
産別会議は、46年8月結成されたが、戦後の労働運動はこの産別会議の誕生を契機に46年末から47年の二・一ゼネストに向けて爆発的な高揚を示していく。
戦前、戦中の産報化運動の中で壊滅状態にあった労働組合は、日本帝国主義の崩壊、その国家権力の解体、そしてアメリカ占領軍の民主化政策の中で急速な拡大を示した。労働組合は45年末の509組合、組合員数38万人から、46年6月には1.2万組合、368万人、同年末には1.7万組合、492万人とわずか一年で十倍以上に拡大した。さらに翌年には百万人以上の組合員が拡大している(戦前の最多組織人員は36年の42万人であったことを考えても、この急速な労働組合の組織化の一端が示される)。
産別会議は、46年8月21組合、163万人を擁して出発した。総同盟は1700組合、85万人であったが、実数はこれを下回るといわれ戦後の労働運動を指導したのは、産別会議であった(こうした分裂には右翼社民の分裂政策とともに共産党の「赤色組合主義」があった)。
産別の十月闘争は、3月に発表された三・一物価大系に対する闘争であるとともに、それと前後して出されていた国鉄・海員の大量首切りに反撃する闘いとしてあった。
帝国主義戦争に敗北した日本独占資本は、この戦後の混乱状態の中で資本主義の再編をはかるためには、その矛盾と困難をすべて労働者大衆に転嫁しなければならなかった。それは、具体的にはインフレを利用して“飢餓賃金”を労働者に強要することであり、さらにまた大量の合理化首切りを意味していた。実際にこの資本主義的再建を敢行するためには、数年を要したのであるが、それには労働者の激しい階級的反撃を支配階級は覚悟しなくてはならなかったのである。
まず六月に成立した吉田内閣は、国鉄7.5万人、海員4.3万人の大量首切り方針を7月に発表した。これに対し国鉄は内部の調整がつかずゼネスト突入を一日のばしにしていたが、海員は9月、10月から全国の港で無期限ストに突入した。これにはげまされて国鉄も次々にスト突入をはじめ、海員、国鉄とも首切りを完全に撤回させてしまった。
産別会議は、池貝鉄工、新潟鉄工、三菱下丸子、日産、全炭九州・北海道等を次々にストに突入させるとともに、さらに三・一物価大系に反対する(五百円枠突破の)大闘争になだれこんでいった。
この三・一物価大系とは、戦前を基準に物価は十倍・貸金は五倍という露骨な政府の低賃金政策であり、インフレと食糧難の中で、この枠突破がこの時期の生活防衛闘争の中心課題の一つとなっていたのである。
10月1日の東芝(要求「平均千円、最低六百円」)、5日新聞スト、10日全炭北海道、さらに全鉄労、全電工、機器、全日化、日映演、印刷出版などがいずれも平均千円以上の要求でストライキに突入した。
そして、電産も平均2400円(税ぬき)の要求を出して闘う中で――この要求は当時の他の組合の要求の倍近い水準だった――、とうとう電産大停電スト突入直前の12月初、政府は労働組合に屈服した。
こうして、大量首切り反対と賃金引上げの十月闘争は、ほとんど労働側の勝利に終った。そして、このことは資本が大量解雇と飢餓賃金なくしては、どんなまともな生産再開もなしえないだろうこと、彼らは生産を組織するよりも生産をサボり、インフレを昂進させ、投機等で詐欺的な利潤を得ることを選ぶ社会にとって寄生的な存在であること、早晩、国家権力をめぐる労働者の階級的闘いに発展しなければならないことを示していた。つまり、産別は、この勝利に酔うことなく、資本の体制の根本的な変革をめざして闘いを高めていく必要があったのである。さもなければ、首切りや賃上げの成果は、インフレや新たな資本の再建の策動とまき返しの中で、水泡のように消えてしまうからである。だがこうした自覚は、共産党に指導された産別がもつべくもなかったのである。(A)
14.労働者を武装解除した共産党 ――流産したニ・一ゼネスト――
十月闘争を勝利した労働者は、翌47年2月1日のゼネストに向けて、さらに闘いを発展させていった。
二・一ゼネストの中心となったのは、国鉄、全逓、全教組、全官公など官公労働者であった。十月闘争で民間の賃金引き上げに遅れた公務員労働者は、12月10日全官公庁共闘を結成し、その後の参加組合も加えて260万人が結集した。47年年頭の吉田の労働者に対する「不逞のやから」発言や聴涛産別議長テロ事件は労働者の怒りに油をそそぎ、47年1月15日には産別、総同盟、日労が参加して全国労働組合闘争委員会(全闘450万人)が組織され、全闘は全官公庁共闘を全面的に支援することを表明し、二・一ゼネストが準備されていった。
二・一ゼネストは、形式としては賃金闘争であった。しかし、労働者大衆はすでにそうした水準にとどまっていなかったし、とどまることはできなかった。というのは、インフレと食糧難の中で政府の低賃金攻撃を打破するためには、吉田政権と闘い抜き、それを打倒する闘いを発展させざるをえなかったからである。労働者は、この賃金闘争は政治的ゼネストの性格をおびざるをえないし、権力闘争に発展していくだろうと信じ、又そう期待していた。
すでに、二・一ゼネストに向けた各種の集会では、「吉田内閣打倒」が公然と叫ばれていたし、この主張は労働者大衆の意識にも矛盾や抵抗なく入っていっていたのである。
だが、このゼネストを指導していた産別及び共産党は、こうした大衆の闘いの盛り上がりを、労働者権力をめざす闘いへと発展させる真剣な準備も展望も持っていなかった。むしろ彼らは、このゼネストが政治ストに発展し、権力をめぐる闘いに発展していくことをおそれ、内心では占領軍の中止指令を待っていたのではないだろうか?
実際この段階での産別を指導した共産党の“方針”はひどいものだった(この時に限らないが)。その最たるものが「解放軍規定」であったが、共産党は二・一ゼネストの前日までアメリカ占領軍はこのゼネストを弾圧しないと説いてまわっていたのである。すでに1月25日マーカット(占領軍経済科学局長)の中止勧告が出され、占領軍の首都集結の動きが具体化していながら、しかしまだ占領軍は「民主勢力」であり、占領軍と協力して「人民共和国政府」をつくりうるなどと妄想していたのである。
だから、共産党がいくら「ゼネスト全面支持」を主張し、ゼネストで吉田内閣打倒、人民政府の出発点にとわめいても、それは少しも真剣でも、実際的でもなかったのである。吉田内閣を支え、「日本の民主化」をめざす占領軍にとって、労働者の闘いが「民主化」の枠をこえて発展し始めれば、弾圧に乗り出すのは当然だった。占領軍に対する幻想をあおりながら吉田内閣打倒をいったとしても、それは単なる言葉の遊び以上ではなかったのである(ここには、三二テーゼ以来のスターリン主義者のブルジョア民主主義に対する美化が存在していた)。
このため、労働者大衆の大きな期待と情熱を結集して準備された二・一ゼネストは、占領軍の弾圧や介入に対し、全く無防備であった。共産党は「吉田内閣打倒」や「人民政府樹立」の空文句は並べたてたが、このゼネストを階級的闘いとして発展させ、政治権力をめぐる闘いへと高めていく意義について、全く無自覚であり、その実際的準備など何一つやってこなかったのである。いわば、労働者階級を武装解除したまま無責任に(単なる人気とりとして)ゼネストを叫んだだけであり、そしてゼネスト後の現実的な闘いの展望を労働者大衆に示すことなど、全然できなかったのである。
二・一ゼネストは占領軍の中止指令でもろくも瓦解したが、それは必然であった。そして、この中止を境に労働者の闘いは、攻勢的なものから受け身のものになり、一歩一歩資本に有利な状態へと追いつめられていくのである。(A)
15.資本の経済再建に協力 ――地域人民闘争と生産復興闘争――
二・一スト挫折後、産別会議は地域人民闘争と生産復興闘争にとりくむことになる。
22年11月に決定された産別会議の第三回大会の“運動方針”では次のように述べられた。
「運動方針は『地域人民闘争』を全面的にとり入れ、産別会議では『働く者の手による生産復興』のため、金融機関をはじめ、石炭、電力、肥料、鉄鋼などの重要産業の国有・国営人民管理をめざすとともに、……最賃制の確立と職場、企業、居住のなかから要求し、その闘争を地域、地方の農・市民との共同闘争に拡大していくことになった」(「労働組合物語」241頁)。
さらに23年11月の第四回大会では、「職場における生産復興闘争が権力に対する闘争に発展し」「重要産業を国営人民管理に移すもの」と規定された。
こうした「生産復興闘争」や「人民管理」が労働者の階級的立場をなげすてた小ブル的な空文句であったことは、明らかである。資本の体制の根本的な変革なしに「生産復興」をわめいても、それは資本の経済再建に手を貸すだけだし、事実そうなった。産別は、労働者に向って「賃金支払ができるよう生産増強」にはげめと、資本や総同盟と同じお説教をやったのである。国家権力との闘いを抜きに「人民管理」を叫んでも、それはサンディカリズムの卑俗化されたものに他ならないし、労働者の階級的闘いと切り離されて「地域、地方の農・市民との共同闘争」といってもそれは階級協調へといきつく以外にないだろう。
また、ここでいう「地域人民闘争」とは、労働者の自然発生的な職場放棄を――つまり二・一スト挫折による大衆の失望と産別(日共)に対する不信の表明――大衆の「創造的な戦術」ともちあげ「天皇制の末端を破壊し新しい民主政府が小さいながら町村に発生する」としたものである。共産党はこれに「経済闘争と政治闘争の結合」を夢みていたのであるが、中央権力との闘争をタナ上げした「町村の民主政府」が単なる急進的空文句以外の何ものでもありえなかったことは、自明であった。
こうしたおしゃべりは、労働者の闘いをますます混乱させ、困難なものに追いつめていった。傾斜生産方式による重要産業への資金の集中的投下や、片山内閣による1800円ベース(物価は65倍、賃金は27倍)のおしつけによって、47年、48年と労働者の生活は依然として危機的状態が続いていた。しかし産別は、生活不安にあえぐ労働者を組織し階級的闘いを発展させるよりも、「町村の民主政府」だの「生産復興を」とわめいて労働者の闘いに水をさすばかりだった。
そして、片山、芦田内閣のもとで提出された政令201号や労組法の改悪に対しても、産別はほとんど有効な反撃を組織しえず、その反動的な法律をうけいれていったのである。
こうした産別の混乱した指導と闘争放棄は、49年のドッヂ・プランによる本格的な日本資本主義の再編整備の強行、つまり大量の首切りと賃金切り下げの中で決定的に暴露された。
財政均衡をはじめとする経済九原則は、中小企業の倒産を引きおこし、全産業で首切りの嵐があれくるったが(百万人もの首切りといわれる)、産別は何とこの九原則について「この原則を民族産業復興の一環としてわれわれの手で闘いとる」と主張したのである。日本独占がいよいよ戦後の混乱を労働者の犠牲のうえにのり切ろうとした時、産別は犠牲の転嫁に反対して全力をあげて闘い抜くのではなく、「民族産業復興」について語ったのである。そしてあげくのはては、敵は買弁資本だから「民族資本を積極的に啓蒙」し、民族資本と提携しようとさえ主張した。これがいわゆる産別と共産党の「民族産業防衛闘争」であった。これが労働者の闘いをどんなに混乱と解体へと導いたかは容易に想像しうるだろう。
このために労働者はドッヂ・プランとの闘いにたちあがったものの、資本への無原則的な妥協と屈服を余儀なくされていった。労働者の産別への不満は強まり、結成当時163万人であった産別は49年11月には78万人(実数は40万人弱)へと激減した。
すでに48年2月に細谷松太を中心に産別民主化同盟が結成されていたが(その主張は組合の中立主義を掲げ、占領軍に支援されていたが)、49年10月には総評の前身である国会共同闘争委が結成され、産別は、解体してしまう。(A)
16.ニワトリからアヒルへ ――総評の結成と「左旋回」――
1950年3月に総評(397万人)が結成された。産別内の民主化同盟と総同盟を中心として発足したものである。
総評がGHQ(と日本の独占資本の支援の下に生まれたことは公然たる秘密である。アメリカは日本資本主義の再建に真剣に取り組んでおり、“穏健な”労働運動の擁立を志向していたのである。日本の独占資本も戦後の労働攻勢を終焉させたいと切望していた。
49年の百万人にも達するドッジ・プランによる首切りの遂行。(この年には下山、三鷹、松山事件等のフレーム・アップ事件が引き起こされ、労働運動は弾圧された)50年には1万2千人にのぼるレッド・パージの強行。権力の側のこれらの労働運動弾圧と相前後して総評は結成されたのである。
だが権力側が労資協調の“穏健な”労働運動の育成に乗り出すのは階級的利害からして当然である。総評結成を単に権力のさしがねと評価することは一面的である。急進的空文句と日和見主義の混乱した日共の指導(産別会議)が労働者の闘いを解体させたが故に、労働者は右派の“現実路線”を受け入れざるを得なかったのである。
産別の民主化運動、そして総評の結成に参加した組合幹部は、運動の急進化に反対し労資協調を志向する部分と、共産党・産別のセクト主義や混乱した指導に反発し労働運動の発展を志向する部分(組合主義的限界は存在していたが)があった。結成当初は前者がヘゲモニーを握っており、反共労資協調の労働運動を掲げたのであった。結成直後の7月の第一回拡大評議会での、朝鮮戦争における国連軍=米軍支持決議に総評の性格が端的に示されている。
だが産別に代わる総評の反共労資協調の労働運動が定着するにはまだ時代が早すぎたのである。平和・戦争の問題では、第二次大戦の惨禍の記憶がまだ強烈であり、また経済問題では労働者は食うや食わずの状態に依然として留まっていたのである。労働者は産別への反発から総評幹部を一応“支持”したものの、この“支持”を長く続け得る条件にはなかったのである。
52年には総評がニワトリからアヒルに、すなわち左転換をとげた年である。すでに前年の第二回大会から「再軍備反対」「中立堅持」「軍事基地提供反対」「全面講和」の“平和四原則”を総評は取ることを明らかにしたが、52年の第三回大会は「左旋回」を定着させた。反共主義・自由主義擁護から第三勢力論(米ソともに距離をおく)を打ち出し、さらにはソ連圏平和勢力論へと突き進んでいく。
経済的にはデフレ政策の下での中小企業の倒産が相次ぎ、大企業でも人員整理が続いていた。労働運動は49、50年頃の停滞状況から脱け出し再び戦闘性を帯びてきたのである。首切り反対、賃上げ闘争と政治闘争(先の四原則にみられるような小ブル平和主義、民族主義的なものだが)が“結合”されて展開された。
労働者の戦闘性を示すエピソードは、52年2月から5月までの五次にわたる破防法粉砕のための政治ゼネスト(「労闘スト」)に反対した武藤炭労委員長は「山」から上京した数十名の炭鉱労働者から吊るし上げられ、直後の炭労大会で委員長から追放され、総評議長からも引きづり下ろされたことである。この「労闘スト」で右派幹部は“追放”されたのである。
生活条件の悪化や政治的反動攻勢に対する労働者の自然発生的な闘いの高揚の中で、事務局長になる高野実らと共に平垣(日教組)、宝樹(全逓)、太田(合化)らの民同左派の指導権が総評の中で確立されたのである。労働者の急進化の中で、労働者の意識を社会主義にまで高める前衛党が不在(実に共産党はと言えばコミンフォルム批判をめぐって分派闘争中であった。主流派は米軍=解放軍から反米民族民主革命を主張し(51年綱領)、火炎ビン闘争などの極左“武装闘争”を展開中であり、労働者本隊から全く遊離していた)な状況の下では急進主義的な労働運動が擡頭してくるのは必然であった。(T)
17.高野時代…「ぐるみ闘争」 ――戦闘的だが急進主義の限界を越えず――
総評の高野時代(1952年〜55年)は、総評の中でも最も急進的、戦闘的時代である。闘争がしばしば「家族ぐるみ」「地域ぐるみ」の形態をとったため高野時代の闘いは「ぐるみ闘争」とも称される。1973、4年頃「国民春闘」が登場し、高野の「ぐるみ闘争」との関連が一部で云々されたが、闘いの「広さと深さ」で高野時代の闘いはふやけた「国民春闘」の比ではない。
この時代には歴史に残る大闘争がいくつも激烈に闘われた。52年の破防法反対の政治ゼネストに続いては、同年秋から年末にかけての電産と炭労の大闘争である。電産は86日、炭労は63日の大闘争を展開した。
28年には三井炭鉱労働組合連合会(三鉱連)の「英雄なき113日の闘い」、半年間にわたる日産自動車の闘い、29年の尼崎製鋼の77日の長期ストの闘い、日鋼室蘭の193日におよぶ苛烈なスト等々が生じている。尼崎、日鋼の闘いは「ぐるみ闘争」を代表する闘いでもあった。
これらの大闘争は直接には賃上げや首切り・合理化に反対する経済闘争を契機にしていた。しかし高野はこのような経済闘争を「政治闘争」と“結合”して展開したのである。勿論「政治闘争」と言っても、革命的政治ではなく小ブル急進主義的民族主義、平和主義的闘いであったが。全面講和・平和四原則の闘い(51年)から始まって、破防法、軍事基地化、公労法改悪反対の闘い(52年)、MSA反対の闘い (54年)等々である。不況下の労働運動は激しい経済闘争と急進的平和主義、さらには政治反動反対等の政治闘争と並行して進んだのである。「平和」の問題は未だ大戦の記憶が生々しい上に、朝鮮戦争の勃発により危機意識は一層盛り上がっていた。破防法や公労法の改悪は戦後民主主義の成果の一部を奪い去るものであった。
高野は経済闘争、「政治闘争」の両面において生じていた労働者大衆の自然発生的闘いを“結合”したのである。「ぐるみ闘争」を支えていたのは、このような経済闘争と「政治闘争」の“結合”であった。
経済闘争と「政治闘争」の“結合”の下、28年から29年にかけて「ぐるみ闘争」は大々的に展開されていったが、高野のこの闘いは大きな限界を有していた。それは労働者の階級的、革命的闘いを発展させる方向で闘いが組織されなかったことである。労働者階級の社会主義的政治との結合は追求されず、小ブル急進主義、民族主義(完全独立)、平和主義(戦争にまきこまれるな)や単なる政治反動との闘いが提起されただけである。これらの問いに労働者の闘いが限定されるなら、必然的にそれは展望のない「国民運動」の一部(最も戦闘的部分とはいえ)にとどまらざるを得ないであろう。
三鉱連の闘いを除いて大闘争は労働者の側の事実上の敗北であった。各地の「ぐるみ闘争」も成果ははかばかしいものではなかった。これらの“責任”をめぐって高野路線に対する反発が生じてきた。一つは全繊同盟、海員、日放労、全映演等の右派組合(54年に分裂し「全労会議」を結成)で、彼らは「日本の経済機構を改変しない限り、今直ちに解決できない要求を、現実の闘争の上にのせるべく主張する総評」を非難し、又「総ての闘争を、再軍備反対と軍事予算の粉砕に集約するという方針」は組合員大衆と遊離している、と攻撃したのである。彼らは高野の観念的な左翼主義を右の“現実主義”から衝き、労使協調の運動に突き進んでいくのである。
他の一つは総評主流派内部からの高野批判である。高野の「ぐるみ闘争」に労働運動(といっても経済闘争のことだが)独白の役割の軽視、「国民運動」への解消を観てとった太田(そして岩井)の登場である。太田は「産業別統一闘争」をひっさげて登場し高野を“追放”する。経済闘争を賛美する大田・岩井時代の始まりである。
18.露骨な経済主義への転換 ――太田・岩井体制の成立――
総評は、55年の総評大会で高野体制から太田・岩井体制へと移った。太田や岩井は、高野の「政治闘争」(といっても平和主義、民族主義的な政治であってプロレタリア的な政治闘争ではなかったが)と経済闘争の「結合」を強調する運動が、労組の限界をこえたものであり、労働運動(経済闘争のこと)を「国民運動におきかえる危険な傾向」であると考えた。従って、彼らは労働組合はまず経済闘争を重視すべきであり、「国民総抵抗の政治的カンパニアよりもまず賃上げ闘争を」、そして「地域ぐるみ」の闘争に対して産業別統一闘争を強調したのである。
太田は、高野時代の運動を批判して次のように主張した。
「労働運動とは労働者の即物的な現実的な要求をとりあげて、立ち上がってゆくべきものだと思っている」、「高野さんのように本来の労働者の要求をそのまま放置しておいて平和運動に専念するようなことは賛成できない」(『闘いのなかで』)、賃金闘争の「必勝の鍵は産別統一要求、統一闘争にある」としたのである。 こうした主張が露骨な経済主義であることは、明らかであろう。高野のいう「政治闘争と経済闘争の結合」についていえば、その「政治闘争」の内容が問題だったのである。ところが、太田や岩井は、政治闘争よりもまず第一に経済闘争を重視すべきだと主張し、総評の闘いを賃上げや合理化反対闘争に切りちぢめていこうとしたのである。
まず賃金闘争からみると太田、岩井は“春闘方式”といわれる賃上げ闘争を定着させた。
55年合化労連、炭労、私鉄総連、電産、紙パ労連、全金、化学同盟、それに中立系の電機労連が参加して八単産共闘(約80万人)が結成された。翌年には国家予算編成との関連で年末に闘争をくんでいた国労をはじめとする官公労がこの統一闘争に参加し、春に賃上げを求める産別統一闘争が展開されるようになり、参加者も前年の80万人から一挙に300万人にふえた。また要求も一律プラスアルファとし、急増しつつあった若年労働者にもわかりやすい形式を採用するようになった。
こうして春闘は組織労働者の大半をまきこみ、しかも経済成長の中で毎年賃上げを獲得しうる有利な条件にも助けられて労働運動に定着していったのである。
また太田、岩井は合理化絶対反対のスローガンを掲げた。これは資本の生産性向上運動の中で合理化に賛成した全労に対抗して提起され、三井三池の闘争で爆発したが、この方針は三池敗北の中でゆきづまり、口先だけのものとなっていった(三池については、回を改めてとりあげる)。
太田、岩井体制の成立は総評労働運動が労働者の「即物的、現実的」な利益のみを追求する経済主義的な労働運動に転化したことを物語っていた。だが、この背景には、日本資本主義が急速な経済発展の時代へと移っていった客観的な条件が存在したことを見忘れてはならないだろう。すなわち、資本主義の経済的発展と安定の時代にふさわしい労働運動が登場せざるをえなかったのであり、その意味で高野の抽象的な平和闘争や国民運動は魅力を失い、「即物的、現実的」利益を追い求める太田、岩井の経済主義が支配権を獲得したのである。
50年代末から60年代にわたる日本の高度経済成長は、一方で労働者の生活の向上を一定程度可能にするとともに、資本は春闘の定着で賃金闘争を年一回に集中させ、それ以外は安定的な生産活動を保障されることになった。だから資本主義的発展がいきづまるとともに総評労働運動は矛盾と頽廃を露呈せざるをえなかったのである。(A)
19.左翼観念主義の敗北 ――三井三池闘争――
太田・岩井体制のもとで60年を前後して三井三池闘争が展開された。50年代後半以降資本の生産性向上運動がすすめられる中で、総評は「合理化絶対反対」のスローガンを掲げてきたが、この三池闘争は資本主義的発展の時代におけるこのスローガンの空虚さを浮かびあがらせることになった。とくに、社会主義協会派などは、この三池闘争を反合闘争や「職場闘争」の一つの“お手本”としてもちあげているが、実際にはその左翼観念主義的運動の限界をはっきりと示したのである。
三池闘争は、59年11月、三池労組員1200名の指名解雇を契機に始まった。三井資本は「生産阻害者」の名で400名の活動家を狙いうちしてさたのであった。
三井労組は、当時日本の中でも「最強の労働組合」といわれており、事実53年の「英雄なき113日の闘い」では大量首切りを撤回させ、55年には長期計画協定を結んで首切りの歯どめや保安体制の改善をのませ、56年からは「到達闘争」(スケジュールをくんで戦術を次第に強化していく)、「あっち向け闘争」(職制を資本にはむかわせる)など「幹部闘争から大衆闘争」を叫んで職場闘争は発展していた。
三井資本はこうした組合の強い抵抗の中でおいこまれ、他の石炭資本に比べても低い利潤率しかあげていなかった。三井資本が資本として生き残っていこうとすれば、反撃は必至だったのである。
この首切り案に対し、炭労と総評は激しく闘った。二百数十日におよぶ無期限ストがうちぬかれ、30万人をこす現地への動員が組織され、20億円もの資金カンパが届けられた。第二組合が分裂する中でホッパー(坑口)前では、数千、数百の組合員と警察や右翼暴力団がにらみあい、労働者の多数がけがを負った。
だが、総評や炭労はこの石炭の大合理化攻撃に対し、その意味を正しく位置づけ闘いを組組したとはいえなかった。被らは、「石炭斜陽論」は単なる政府や資本の言伝であり、職場闘争に対する会社のまきかえしであり、「合理化絶対反対・首切り阻止」を叫んだのであった。
しかし、「石炭産業斜陽化」論が、単なる労働組合切り崩しの宣伝にすぎなかったかどうかは、その後の歴史が示しているだろう。石炭よりも安いコストの石油がエネルギー源の中心にすえられるのは、歴史的に必然の道であった。そして石炭の大合理化攻撃も、こうした石油に追いつめられた石炭資本として生き残りをかけた死にもの狂いの試みであったのである。
資本主義の展開の方向、必然的な法則を恣意的に無視し、「合理化絶対阻止」のスローガンに固執して運動を導いていけば、それは破産せざるをえなかったのである。
もちろん、10万人もの石炭労働者が資本に首切られることに対する反対と抵抗の闘いは必然であり、必要である。だがそれは、資本主義の動向や必然的展開を無視したり、否定したうえで組織されるべきではないだろう。エネルギー産業の転換のもつ意義、その矛盾、労働者の将来、労働者はどう闘っていくのかを明らかにしつつ、労働者への犠牲の転稼に反対して闘うべきであって、「合理化絶対阻止」とか「妥協なき闘い」とか「会社はつぶれてもヤマは残る」等々といった左翼的な観念主義をふりまわすことではないのである。
この章味で三池の闘いは生活苦の中で革命的に闘い、ストライキをうちぬき、ホッバー前で闘った労働者の闘いの敗北では絶対にないが、「合理化阻止」にみられる総評や向坂協会派の観念的な左翼組合主義の敗北ではあったのだ。
60年8月の藤林斡旋案で炭労は1200名の首切りをのまされ、労働者の失望が拡る中で、総評や炭労は「政策転換闘争」に切りかえ、労資アベック闘争をおしすすめるが、それは左翼的観念主義の破産の必然的帰結であった。もちろん、その“闘い”は少しも炭坑労働者の生活や雇用を守ることはできないのは当然で、石炭資本への数千億円の救援資金の引き出しと十万人以上の労働者の首切りとして労働者に一層の苦しみをおしつけたのだ。(A)
20.プチブル平和主義・民族主義に埋没 ――総評の60年安保闘争――
総評は、三池闘争と並んで60年の安保改訂反対闘争を闘った。経済主義者は、政治闘争一般を否定するのでなく組合主義的政治を闘うのであり、この安保闘争も「戦争にまきこまれたくない」という小ブルジョア平和主義・民族主義の政治闘争として闘われたのである。
60年安保改訂の意味は、51年の旧安保条約における日米の「片務的」な関係を、その後の日本独占の経済発展をふまえた「双務的」な同盟関係に再編することであった。日本独占が安保改訂で得ようとしたものは、@条約期限の明確化、A米軍の配置及び行動の事前協議制、B条約適用範囲の明確化、C共同防衝問題、等であった。そこには51年以来の日本の力関係の変化が反映されており、日本独占の敗戦からの復活と自立という現実が存在していたのである。
従って労働者階級は、日本独占の安保改訂のねらいを暴露しっつ、その資本主義国家間の同盟関係の再編、強化に反対し、資本の支配そのものに反対する自主的な階級的闘いを発展させなければならなかったのだ。
しかし、社会党も共産党も総評も(従ってまた安保阻止国民会議も)安保改訂の本質を何一つ正しく理解することができず、「平和と民主主義を守れ」という小ブルジョア的平和主義、民主主義の闘いに没頭したのである。
社会党は、安保改訂を「戦争への危険」「軍備増強による国民負担の増大」「改憲コース」ととらえ、安保闘争の基本的課題を「平和と民主主義を守る闘争」とした。共産党は、戦争の危機と民主主義への制限ととらえる点で社会党と一致しつつも、安保改訂は「対米従属の強化」であると民族主義的立場を強調し、「民族挙止・中立」の闘いとして位置づけた。
つまり、国民会議の安保闘争は、資本主義社会のもとで戦争にまきこまれず「平和」を手にしたい、資本の支配を倒さなくても安保改訂を阻止すれば日本は軍事同盟から離脱して平和な「中立国家」になれるという小ブルジョア的な幻想を追い求めた運動であった。或いはさらに「米国からの独立」を要求する徹底して小ブル民族主義の運動であった。総評はこうした小ブル的平和主義、民主主義そして民族主義の運動に完全に引きこまれ、労働者階級の独自の闘いについては何一つ必要性も意義も認めなかったのである。
国民会議は、二十数波の反安保の統丁行闘をくみ、総評は60年4月以降デモの高揚の中で大量動員を組織し、6・4、6・15、6・22の時限ストライキを組織したが、そこには労働者階級の階級的指導性は一切発揮されることなく、国民会議という階級性を喪失した小ブル的平和主義、民主主義の運動に完全に埋没していたのである。
むしろ、この4月から6月の高揚の中で安保闘争をリードしたのは市民主義者であった。学者知識人が提起したといわれるデモに代る“大請願運動”や5月19日の衆院強行採決を契機に「民主主義の危機」(安保に賛成の人も反対の人も「民主主義」の破壊に対してたちあがろう云々)におびえた小市民グループ、学者、知識人の小市民的運動に総評は完全に主導権を奪われたのが実情だった。
だから、総評などは「政治スト」といわれる六・四ストについても「国民の支持を前提とし、それにつつまれた形なら、抗議の意志表示という限界内でのストライキをうてる」として闘っただけである。「国民の支持の前提」とした限りでのストをわめいた総評幹部には、階級的闘いを発展させる意思も方向性も何一つ存在しなかったのである。そして、労働者の階級的闘いを小市民のレベルまで引きおろそうとする国民会議の日和見主義を批判した共産主義者同盟(新たな労働者階級の闘いの始まりという意義をもっていた)の「行きすぎ」を非難しさえした(共産党は「挑発者」とデマをとばした)のである。
「安保のように闘おう」が決まり文句になっているが、総評の安保闘争は、経済主義者にふさわしい政治闘争、小ブルジョア平和主義、民主主義の政治闘争の限界を明らかにしているのである。(A)
21.共産党の四・一七スト破り ――「民族民主」革命路線の必然的帰結――
1964年は労働運動の「転換の年」と呼ばれていた。太田・岩井体制の定着、とりわけ春闘方式の定着の中で、青年労働者と組合幹部の乖離が指摘され、春闘のマンネリ化、独占資本による賃金決定ンステムへの包摂等々の危機が叫ばれていた。60年の安保・三池の大闘争後の停滞状況があった。太田・岩井総評指導部はこのような状況を運動の急進化で乗り切ろうとしていた。六四春闘を「はなし合い」方式から「スト」方式に転換させることを強調していた。その具体的戦術として民間の長期ストがあり、そして公労協中心の4月17日のストがあったのである。
総評の組合主義や経済主義の行き詰りをこのような単なる戦術の急進化(の構え)だけで克服することは勿論不可能である。だが共産党は経済主義に“反発”する余り経済闘争そのものに敵対するに至った。共産党の四・八声明は言う。
「もし社会党、総評、各労働組合が、安保国民会議をただちに再開させる現実的態度をとらず、独立、平和の日本人民の闘争に背をむけたままで、春闘をおしすすめようとするならば、労働者の闘争を挑発者、分裂主義者、修正主義者の策謀にさらす危険があります」。
共産主義者はサンデイカリストのようにストライキを絶対的には美化しないし、時には階級間の力関係の中でストに反対することもあり得る。しかし共産党は総評が共産党の政治(独立、平和の愛国闘争だ!)をないがしろにして経済闘争一本槍だから反対だ、というのである。全く現実の階級闘争とは遊離して自らの宗派的政治の立場から反対したのである。さらにこの立場を“補強”すべく、諸々のデマゴギー的な権力による「挑発のにおい」を嗅ぎ集めたのである。
戦後の数多くの共産党の労働運動政策の中でもこの四・一七スト破りは“罪一等”であり、共産党員の労組活動家をスト破り、分裂主義者としていっそう浮き上がらせ、相対的に民同幹部を美化することに帰着したのである。共産党は後にスト破りを“自己批判”し、それは宮本書記長の中国訪問中に偶然生じたかの如く述べたてている。だがこのスト破りが一時的、偶然的なものでないことはその後の共産党の労働運動における実践からして全く明らかである。教師=聖職者論、自治体労働者=奉仕者論、スト万能論批判、等々のスローガンの下で、共産党はしばしばストに敵対してきたのである。
共産党の四・一七スト破りは必然であった。「民族民主革命」路線の共産党にあっては、労働者階級はそのための統一戦線の単なる一翼にすぎず、彼らが自己の経済闘争に精力を費せば費すほど「反米愛国」の統一戦線が、共産党の政治闘争が“困難”になるのである。労働者の階級闘争の発展よりも「国民の統一戦線を重んじる共産党が組合主義者の過激な〈構えだけだが)経済闘争に反対するのは避けられないのである。今日では「国民的労働連動」が美化され、とりわけ中小企業の労働運動では労資協調が公然と謳われる有様である。
太田・岩井らの経済主義の限界、ブルジョアジーとの裏取り引き(四・一七ストも太田・池田会談のボス交で中止された)などは共産党の馬鹿げたセクト的政治によって暴露されることはなかった。むしろ彼らの地位の安泰に貢献したのである。共産主義者は、例え組合主義者の下で経済闘争が展開されるとしても、それに反対するようなエセ革命主義とは無縁であり、経済闘争を闘いつつ、この闘いの限界を率直に語り、経済闘争と政治闘争(共産党流の小ブル的政治ではなく社会主義の政治、プロレタリア政治)の結合のために奮闘するのである。共産党の四・一七スト破りは共産党の政治が労働運動の発展とは無縁の反動的な代物であることを示す象徴的なものであった。(I)
22.高度成長とJCの台頭 ――総評労働運動の凋落と一体――
1964年5月に結成されたIMF・JC(国際金属労連日本協議会)は日本労働運動の転機をなした。
総評の「春闘」方式の行き詰りの中で、総評の経済主義“克服”のために共産党が馬鹿げたスト破りと宗派的政治の押しつけを行ない、一層労働者の反発を買ったことは前回見た。左の側からの正しい総括、批判の欠如の中で、総評労働運動はこのJCにみられるような露骨な労資協調の労働運動に圧倒されていくことになる。
「国際連帯の窓口」にとどまると“控え目に”スタートしたこのJCは短期間の内に日本の金属産業(鉄鋼、造船、自動車、電機等)の主要な労組を網羅し、75年9月には「共闘組織として位置づけられ、名称も「全日本金属産業労働組合協議会(略称IMF・JC)」となった。
60年代後半は総評系の民間労組が同盟・JCの労資協調派の労組に侵食され、追放されていく時代である。全国金属プリンス自工、全造船機械の三菱重工、石川島播磨重工等々での、管理職と一体となった労資協調派の切り崩し工作がその典型である。
民間で総評の労働運動を支えていたのは現場の熟練労働者であった。だが60年代の相次ぐ技術革新・合理化によって彼らの“技術”や基盤は掘り崩されてしまった。総評は「合理化反対」を唱え、この流れに抗したが(尤も実際の運動の中では賃上げと引き換えにしばしば合理化を飲んできたのだが)、しかし大量の若年労働者にとっては技術革新・合理化は労働条件の改善(とりわけ賃金上昇)につながると写ったのである。年功賃金に代わる職務給・職能給に対しても若年労働者は必ずしも“反対”ではなかったのである。総評は「労働運動と社会主義の結合」の観点から中高年労働者と若年労働者の“対立”を止揚しえず、結果として若年労働者を資本や労働貴族の側に放置したのである。
60年代は日本資本主義の全盛期であり、資本の繁栄(それはしばしば技術革新・合理化と一体であった)の下での労働者の地位改善というブルジョアジーやJC等労働貴族の主張が一定の説得力を有していたのである。
資本の繁栄の時代に急進的な労働運動が衰退していくのは必然である。若年労働者を中心として急速に広がっていった資本主義への幻想に総評は抗すべくもなかった。「春闘」方式による経済的成果のみを追い求めてきた総評は、資本主義の高度成長の中で自らの存在基盤を失なっていくのである。「闘わなくても」ある程度の賃上げが可能な状況の下では労資協調派の台頭は必至であった。総評は自らの存在価値を示すため大ボラ(大幅な賃上げ要求)を吹いたが、実際にはストの“構え”だけで低額(要求額と比べて)妥協する場合がしばしばであった。急進的労働運動のこの欺瞞性に対し、労資協調派は「ホンネの労働運動」を売り込んだのであった。総評が“ダポラ”によってしか自らの“戦闘性”を示しえない状況の中では、労資協調派の「現実主義」は一定の説得力を有したのである。
戦後日本の労働運動には産別―総評の左派の流れと全労―同盟の右派の流れがある。JCはこうした左右のナショナルセンターを横断して結成され、労働運動の右傾化推進の役割を果たしてきた。ナショナルセンターの枠組を越えて労資協調の運動を作り上げたのは同盟幹部のなし得ない所であり、JC幹部の“存在意義”を十二分に示している。今日進められている右翼的労戦統一は総評、同盟、中立労連、新産別のナショナルセンターを横断したJCの“活躍”があって初めて可能となったのである。
60年代後半の総評の没落(とりわけ民間部門)とJCの擡頭は対をなしている。JCは「世界の工場」にまでのし上がった日本資本主義に“適合”した労働組合であり、それは資本の繁栄を背景に資本の側の“近代的”労務管理(QC、ZD等々)と一体化して、民間大単産の労働者支配を“貫徹”していった。社会主義と結びつかない総評の“戦闘的”労働運動は後退一路であった。(I)
23.「国民春闘」の登場 ――組合主義的小ブルジョア的政治の美化――
総評労働運動は60年代後半に行き詰まりを呈していく。民間においてはJC派の擡頭に圧倒され、総評が主導権をにぎるのは官公労だけになってしまった。また総評の“存在音義”を示してきた春闘も高度成長の中で、年一回のセレモニー的な要素を強めてきた。組合員〈とりわけ若年労働者)の“政治嫌い”、“組合離れ”が進み、“マイホーム主義”が充満していった。
運動の停滞を打破すべく総評は73年から、中立労連を巻さ込んで、「国民春闘」を展開するようになる。今までの賃上げ闘争“一本槍”から制度的・政策的要求――年金、税金、公害、最賃制、社会保障、等々――を含む闘いへの“発展”である。そして又この転換と関連して闘いの主体も組織労働者のみの闘いから、社会的“弱者”(未組織労働者、生活保護者、年金生活者、等々)、小ブルジョアを含む闘いへと“拡大”した。73、4年頃はこの「国民春闘」が一世を風靡し、この運動の転換の中に労働運動の再生があるかの観を呈した。
「国民春闘」への“発展”は社共の“労働者政党”が社会主義的政治を放棄している中にあっては一つの必然であった。高度成長の中で労働者未組織労働者も含めて)は“大幅な”名目賃金の上昇を獲得することができた。だが他方で物価の大幅な上昇は実質貸金の伸びを制約していた。年金、貯蓄の目べりがあった。名目賃金の伸びの中で重税の問題もあった。さらに又資本主義の疾風怒涛時代の産物は労働者大衆(とりわけ都市の)にとっての生活環境の急速な悪化――土地・住宅問題、交通問題、公害等々――であった。組織労働者は自分達の生活を守るためには「政治」をも闘う必要があったのであり、これらの“社会悪”に同じく苦しめられていた大衆と“連帯”する基盤も存在していたのである。
華々しく打ち出された「国民春闘」、だが数年後にはすっかり色褪せてしまった。何故か。「国民春闘」が労働者の“多様な要求”に対応し、また小ブルジョア大衆をも闘いの中に巻き込もうとしたことは積極面であろう。だが総評は、組合主義的・小ブルジョア的政治を“体制変革”の政治であるかに美化し、この体制の下でもそのような政治によって労働者大衆の“救済”があるかに主張した。又労働者の大衆的実力闘争よりも“統一戦線”のパートナーたる“弱者”ゃ小ブルジョアの“声なき声”に依存する闘いが実化された。「国民春闘」の限界は明らかである。資本主義の危機の到来は経済闘争のみならず組合主義政治をも押しつぶしてしまった。労働者の主体的な実力闘争を背景に押しやっての「世論」頼りの政労馴れ合い交渉は、資本の危機の時代にはますますその無力性と反動性を暴露した。
労働者は労働苦、生活苦からの解放のためには経済闘争に諸々の制度・政策要求(ブルジョア政府への改良要求を加えるだけでは決定的に不十分だったのである。労働者を支配・搾取している資本の体制を変革する闘いを日常闘争と結合して展開しなければならなかった。“弱者”や小ブルジョアとの“連帯”は資本の体制を前提し、単に資本のもたらす“社会悪”という結果に反発するという“自然発生的連帯”に留ってはならなかったのである。利潤のための生産というこの体制そのものが労働者・人民を苦しめていることを明らかにし、大衆の根本的解放の方向を指し示さねばならない。これこそ労働者階級の“弱者”ゃ小ブルジョアへの階級的義務である。だが「国民春闘」はそのような壮大な展望を示しえず、単に“弱者”等への“同情”に留まり、時には自らの経済闘争の“正当化”の楯(“労組エゴ”攻撃等に対する)としてさえ利用したのである。
資本がまだ活力を有していた時代は「国民春闘」は資本のおこぼれを頂戴することができたが、その後の“低成長”の下では無残な姿をさらけ出した。「国民春闘」の後にはより深い労働運動の混迷と頽廃がやってくる。(I)
24.“管理春闘”定着と闘いの展望 ――“低成長”下の労働運動――
日本資本主義は、73年の“石油ショック”を契機に資本主義の内在的矛盾を顕在化させ、危機の時代に、いわゆる“低成扶の時代”に突入するが、それとともに労働運動は同盟・JCのブルジョア組合主義が大きく擡頭し、総評や社共系の小ブルジョア的労働運動は決定的に衰退していった。
70年代後半から“社会契約”的労働連動や“経済整合性論”が、ブルジョア組合主義者によって宣伝されたが、その実態はますます労資協調を深め労働者を資本に一方的に売り渡すことであった。
このことは75年には労働組合の争議件数7547件、参加労働者461万人であったものが、83年には4814件、177万人へと減少していることを見ても明らかである。労働組合は、“低成長の時代”を迎えて、ますます労働者の生活と権利を守る階級的組織としての内実を失い、ストライキも組織することなく資本の低賃金攻撃や首切り合理化攻撃に屈伏していったのである。
“ストなし春闘”や“管理春闘”が定着し、鉄鋼、自動車、電機、造船を中心とするJC系の労組の“一発回答”で低額の春闘相場が形成され、春闘とは同盟・JC系のブルジョア組合主義者と大独占との“春談”とまでいわれるようになった。
そして、ブルジョア組合主義者のヘゲモニーの確立の中で、労働者の生活状態や労働条件も次第に悪化してきている。
彼らは、「経済整合性」論なる「理論」をふりまわして次のように言った。大幅賃上げを獲得してもそれによって物価が上昇しインフレを招いたり、経済成長が阻害されたりしては何にもならない、経済全体の中で賃上げ闘争を位置づけることが労働者の生活向上につながる、と。
しかし、こうした主張がストライキを回避し資本のいい値に賃金を抑制する“貸金自粛”論でしかなかったことは、この10年程の経験をみても明らかである。同盟・JCがヘゲモニーを握った75年から83年の8年間をみても、実質経済成長率は年平均約4.5%の伸びに対し、実質賃金の伸びは1.3%程度、実質可処分所得に至ってはその半分以下という有様であり、80年代には社会保険料の値上げ等によって実質可処分所得はマイナスすら記録している。少しも労働者の生活向上にはつながらなかったのだ。
″経済整合性”論とは、もともと“過少消費説”ゃ“計量経済学”などのブルジョア経済学の受け売りであり、その“科学性”の装いによって労働者をだまし、賃金自粛を強要するものでしかなかったのである。
だが、こうした露骨なブルジョア組合主義者の労資協調主義に対し、総評も社共も追随と屈伏を続けるばかりであった。総評は「内需を中心とした堅実な5%巾外の中成長経済の創出」(今年の「春闘白書」)をうたい「国民のための経済整合性論」についてしゃべり散らしているのだ。
資本主義の経済的繁栄に依存した総評労働運動(その経済主義は、“低成長時代”の訪れとともに展望を失い、“国民春闘”等のかけ声の中でますます国民主義、改良主義を深め、ブルジョア組合主義者にその主導権を奪われてしまったのである。
この事実は、「社会主義から切り離された労働運動は卑小化し、不可避的にブルジョア性に陥る」というレーニンの指摘を改めて確認させる。
従って、“管理”春闘に象徴されるブルジョア組合主義者の支配と闘うには、「国民春闘再構築」等の展望ではなく、労働運動と社会主義の結合をはかること、労働者は経済闘争を闘うだけでなく危機と顛廃を深めるこの独占資本の体制を変革する闘いと結びつけて闘うことが必要であり――そしてその中心環が社労党の飛躍的発展である――、こうした展望をもってこそ労働運動の危機を切り開くことができるだろう。(A)
補遺1.国民主義的労働運動の敗北 ――75年のスト権スト――
今回から数回にわたって「日本労働運動史」の“補遺”を行うことになった。テーマは、スト権スト、全労活から労研センターにいたる急進的労働運動、及び統一労組懇の運動の総括である。
スト権ストは、75年11月26日から12月3日にかけて、国鉄、全逓等公労協労働組合が8日間の統一ストライキを闘い抜いたものである。公務員労働者のスト権は、48年の政令201号で全面一律禁止されて以来、公務員労働者の闘いの大きな“足かせ”になっており、スト権獲得は公務員労働者の一つの“悲願”とまでなっていた。
総評はスト権問題の75年決着をめざし、公労協は10月頃よりスト権ストの態勢づくりに入った。11月5日には三木首相に対し、公労法撤廃、すべての労働者へのスト権保障、法制化まで一切の不当処分撤回、ILO105号条約批准等の統一要求を提出し、25日までの回答を求めると同時に「日の区切りをしない」「長期強じんなスト」戦術を決定した。
しかし、総評、公労協は同時にこの闘いを、労働者の階級的な闘いとして断固設定することはできなかった。すでに70年代初頭より「国民春闘」路線を謳い、スト権闘争も「民主的権利」の闘いにおしとどめられ、「国民に支持される労働運動」といった階級協調主義の精神の中でしか提起されなかったのである。
従って、総評や公労協の指導部は、労働者の階級的な闘いの手段としてのストライキ権をかちとるには、断固たる実力闘争で政府に迫り闘いとること、そしてスト権を獲得することは、資本とその国家に対する階級的闘いの発展の一つの契機にすぎないことなど何一つ考えてはいなかった。彼らは、同年6月の政府統一見解の中で、部分的に三木がスト権を認めるかの発言をしたことに期待をよせ、また10月の三公社総裁の「争議権付与」の国会での発言に大きな幻想をいだいたのである。
だが、三木のおしゃべりに期待することが全く幻想にすぎないことはスト突入とともに明らかになった。政府自民党は、「違法スト論」「国民迷惑」論などをわめき散らし、労働側の要求をすべてはねつけてしまったのである。
公労協側は、当初4日間でストをうちあげるつもり(もともと力でスト権を奪取することなど本気で考えていなかった)だったが、何の成果も引き出せないため、収拾することもできず、公労協の統一ストとしては空前の192時間以上という“大闘争”をうちぬいてストライキを中止した。
12月3日、公労協は「主体的判断でストを中止」したとし、次のような中止声明を発表した。
「6日に政府は統一見解として実質スト権保障の方向を示していた。しかし今回の基本方針は経緯を無視し、公約を破り、10年以前というよりは労働運動を刑罰でもって抑え込む内容であり、30年前に逆戻りしたものだ。われわれは今日以降も十分闘い抜く力量をもっているが、ストによって被害をうける国民の立場も謙虚にうけとめて収拾を決定した」。
この声明文には、彼らの無力さと泣き言が十分にちりばめられている。政府の統一見解に対するバカげた幻想、政府が資本の階級的利益(なぜなら、スト権付与は公務員労働者の階級的闘いの大きな発展の契機にもなりうるからだ)をむき出しにしてきた時の無力さ、まだ闘えるなどといった空いばり(早く収拾したくて仕方がなかったのが実情だ)、そして「国民迷惑論」への屈服、等々。
この“スト権闘争”は、結局何の成果もないまま終了した。彼らは“水入り”などと強がったが、その後スト権ストが一度もうたれていないことをみても、政府の強圧的姿勢に全面降伏したことは明らかだ。その敗北の責任はあげて総評、公労協及び共産党の国民主義的労働運動の指導にあるといえるだろう。そして、その後も処分は乱発され、国鉄の損害賠償といった動きまで出てきたのだ。
この敗北を契機に労働運動の主導権は同盟・JCのブルジョア組合主義者の手にうつり、70年代後半以降の“管理春闘”へと移行していくことになったのである。(山田明人)
補遺2.総評の美化追従に帰着 ――70年代以降の急進的労働運動――
今回は70年代以降の急進的(新左翼)労働運動について総括しておこう。
この時代の急進的(新左翼)労働運動は「全労活」(後の労組連)に代表されるもので、その基本的立場は「既成労働運動の指導部の指導路線に批判的または否定的立場を共通基盤として結集」したものである。
だから、そこには既成労働連動の右傾化、ブルジョア化に対する左派活動家の正当な批判を含んでいたことは明らかである。しかし、全体としては、その批判を労働連動と社会主義の結合といった観点からとらえかえすことには無自覚であり、既存のとりわけ総評労働運動に対する過大な幻想と急進的反発をあわせもつ運動にとどまっていた。
具体的なとりくみとしては全金ペトリや田中機械の生産管理闘争、関西生コンの組織化の闘い、京セラ玉川工場、ゼネ石川崎工場、日産川口工場等の閉鎖合理化反対の闘い、山谷の日雇労働者の闘い、中小未組織産業の組合づくり(大阪港合同や江戸川ユニオンなど)等があり、労働者の現実的利益を守るうえで一定の成果をあげたものもある。
しかし、その部分的な成果にとどまらず、全体としてみた場合、労活運動は資本の支配そのものと闘う「階級的労働運動の構築」という点からは、決定的な限界も露呈せざるをえなかった。というのは、この「階級的労働連動の構築」という課題は、総評労働運動に対する徹底した総括――つまりその組合主義的労働運動に対する総括のうえにしかなしとげられないはずだが、労活運動そしてその後の労組連運動は、こうした基本的問題に対する徹底した総括を回避し続けたからである。
むしろ、実態的にはかつての総評の「左翼性」「戦闘性」に大きな幻想をもち、「総評の階級的再生」といった方向に流され、その左翼的補完物の役割を果してしまったのである。
80年代に入って、労活運動は右翼的労戦統一に対抗し、“闘う労組懇運動”などの“提言”を行い、今年の2月には「労働者宣言(綱領)」(案)を発表した。しかし、これらの提案も、総評労働運動の危機に対する自然発生的な反発の水準をこえてはいないのである。
例えば「宣言」の中で総評の運動を「賃金闘争としての春闘方式、反独占を旗印にした反合職場闘争、反戦、反安保を掲げた国民運動」の「三本柱」としてとりくまれたことを指摘しているが、こうした「三本柱」の運動こそ現在の総評の解体的状況を準備し必然化したことには一言もふれていない。「宣言」はただこの「三本柱」が空洞化した、全民労協に主導権を奪われたと嘆き、技術革新や合理化に抵抗できなかったとか、資本の差別分断支配と闘えなかったといった現象を並べたてるのみである。これは果して総評労働運動に対する美化であり追従ではないだろうか。
元総評議長であり、「労働情報」代表でもある市川誠は、「労働者宣言」を次のように語っている。
「『労働者宣言』の提案による総評再生を軸とした新しい戦略を提起した」。
つまり、市川にとっては、彼を含めた総評三顧問による労研センター路線、「総評の階級的再生」の道の中で「労働者宣言」が位置づけられているのである。
しかし、こうした市川らの発言に対し、何ら「労働情報」は反論しないし(できないし)、むしろそれを担ぎあげ美化しているのが実状ではないだろうか。労活・労組連運動を、既成労働運動に対する急進的反発、急進組合主義と規定するゆえんである。
70年代以降の労活・労組連運動を通じて急進組合主義が一つの潮流として一定の影響力を保持しえたのは、プロレタリア革命派の未成長という問題と不可分である。「既成労働運動に対する反発」という左派活動家の健全な志向は、社共に代わる新しい労働者党=社労党の闘いと結びつき、その闘いに止揚されていく時、真の意味での「労働運動の階級的再建」の道が切り開かれるだろう(そしてこの兆しは、今年の全逓代議員選のとりくみの中にみられたといえよう)。(山田明人)
補遺3.国民的労働運動の説教 ――統一労組懇――
この連載の最後に共産党系の統一労組懇について論じておく。
共産党は総評の一党支持の締めつけや総評の右傾化に反発し、共産党系の総評内組合を統一労組懇の下に組織し、新たなナショナルセンターの旗上げの機をうかがっている。総評の右傾化が余りにも急速であるが故に(例えば同盟・JCに追随した“労戦統一”策動を見よ!)、この統一労組懇は一部の労働者の中で“市民権”を得ているように見える。だがその実態が明らかになれば、それが労働運動の発展とは無縁の代物であることが分かるであろう。
まず第一に党と大衆組織の混同がある。共産党は総評は右傾化しているから新たなナショナルセンターを展望しなくてはならない、と言う。政党が主義・主張の下に純化される必要があるのは当然だが、大衆組織たる労働組合で、政党系列ごとの組合・ナショナルセンターを作る(共産党の主張はこうならざるを得ない)というのは愚の骨頂である。それはまさしく赤色組合主義であり、政党が自らの影響力を狭めるものであり、また労働組合レベルにおいても組合の分裂は労働者の日常的な利益を守る点においてもマイナスとならざるを得ない。すでに共産党はたとえば郵政の職場において郵産労という全逓から独立した組合をつくっている。こうした組合の分裂のタネを共産党・統一労組懇は振り撒いているのだ。
彼らは「政党支持の自由」なるブルジョア自由主義的原則を掲げるが、これが実際の組合運動においてはセクト主義と結びついていること、等々の問題があるが、これはこれまでもたびたび論じてきたのでここでは割愛する。
第二に統一労組懇の運動の中味である。彼らは総評指導部は同盟・JCに屈服している、右転落だ、などと騒がしく非難している。ではどのような展望を彼らは労働者に与えるのか。彼らは総評の経済主義を非難し、経済闘争と“政治闘争”の結合などを説く。だがこの“政治闘争”なる代物はかつて70年代中頃もてはやされた「国民春闘」路線を超えるものではない。さまざまな組合主義的政治、小ブルジョア福祉政治であり、それに共産党流の核兵器の全面廃絶や安保破棄等々の“政治”が加わるだけである。
彼らは総評没落の原因を総評の経済主義に見い出し、それに対置して国民的労働運動路線を打ち出している。この路線の下では労働者の闘いは“国民”の支持がある場合にだけ成功するのであり、労働者の独自の“突出した”闘いは否定される。
こうした国民的労働運動の実態がどのようなものであるかは、「教師=聖職者論」、「自治体労働者=奉仕者論」、「スト万能論批判」等々を通して十分に明らかになっている。それは労働運動の階級的発展に益するどころか、「国民」の名の下にそれを抑え込む役割さえ果たしてきたのである。
今日の労働運動の混迷を克服する道は、同盟・JC、そして彼らの後からトボトボ歩いて行く総評の連中が志向している労資協調の強化によっても、また共産党・統一労組懇の経済闘争に小ブルジョア政治を接ぎ木することによっても不可能である。むしろそれらは労働運動を一層解体する道である。労働者の日常的利益を守る闘いと、労働者の根本的解放の闘い(社会主義のための闘い)を結合する場合にのみ労働運動は新たな発展をとげるであろう。労働運動が自らの狭い利益の擁護にとどまることなく、社会主義という歴史の大道に接近していく時にのみ小ブルジョア大衆も労働者の闘いの側に立つであろう。(I)
― 完 ―
「変革」38号(1985.2.17)〜72号(1985.10.27)