●『海つばめ』第911〜919号連載
『資本論』の修正問題――エンゲルスは正当か (林 紘義)
1.「銀行学派」批判の根底
第三巻二十八章冒頭の一句
預金通貨の問題に続いて、我々の会の内部で「エンゲルスによる『資本論』の修正」問題に関する議論が勃発した。エンゲルスは読者に断わることなく、独断でマルクスの原稿の重大な修正を行っていたのだが、それは正当であり、妥当であったか、という極めて重要な問題である。この問題について何回か論じることにする。
エンゲルスによって編集された『資本論』第三巻が、大きく手を入れられていることは、エンゲルス自身が第三巻の序文でも、その補遺でも語っているのであって、そのこと自体にはどんな問題もなかった。
そして、我々はみなエンゲルスの言葉を文字通り信用していたのであって、マルクスの文章の修正もエンゲルスが説明した限りでのものであり、それ以外にはどんな本質的な手入れもなかったし、あるはずもないと思っていたのである。
だから、一九九〇年代、マルクスの草稿が読めるようになって、学者たちがその草稿と、エンゲルスの修正が、エンゲルスが説明している通りではないと言ったときも、問題はそんなに重大なものではない、訓詁解釈学など時間つぶしだと思い込んでいたのであった。
しかし預金通貨をめぐる議論が起こり、預金通貨の概念を弁護した論者たちが、盛んに『資本論』第三巻二十八章を持ち出して、我々を批判したとき、我々もまたこの二十八章を「避けて通ることができなくなった」のである。
「避けて通ることができなくなった」というのは、つまり、できれば避けたい、という意識があったからである。二十八章は“難解”で何を書いているか分かりにくい、苦手だ、といった意識があり、そこに「深入りしたくない」というのが、私の当初の感じであった。
しかしそんな折、大谷禎之介氏の研究に触れることができ、二十八章に対してエンゲルスがどんな具合に、またどれくらい手を入れ、それを修正したか――その多くを読者に断わることなく――を知るに及んで愕然とし、エンゲルス修正問題が決してどうでもいい小さな問題ではないことを悟らされた。
そしてまた、なぜ預金通貨弁護論者があんなにも二十八章にこだわるのかも理解できたのである。つまり、預金通貨弁護論は、エンゲルス修正によるマルクスの概念の混沌化を“悪用”するのだ。
かくして、我々はエンゲルス修正問題という、大きな系争問題に直面し、それを否とする人々と、それを是とする人々に分かれたのである。エンゲルス修正は何ら非難されるものも、否定されるものもなく、むしろマルクスの概念や文章の改善である、という横井氏が、エンゲルス弁護論者の代表であり、代表委員会は、エンゲルス修正はよくないとする立場を代表する。
そんなわけで、我々はエンゲルス修正問題を何回かの連載で取り上げ、その問題点を明らかにしたい。
今回は紙面の都合もあるので、すでに何回か論じられている問題、二十八章の冒頭の一文を取り上げてみよう。
二十八章の冒頭の文章は、銀行学派とは何か、そしてマルクスの銀行学派に対する批判の根底は何ということにかかわる、極めて重要な一句である。マルクスの当初の文章は次のようであった。
「トゥック、ウィルスン、等々がしている、通貨と資本との区別は、そしてこの区別をするさいに、鋳貨としての流通手段と、貨幣と、貨幣資本と、利子生み資本とのあいだの諸区別が、乱雑に混同される」
このマルクスの文章を、エンゲルスは何の断わりもなく(つまり、もとからのマルクスの文章であるかに見せ掛けて)、次のように修正した。
「トゥック、ウィルスン、等々がしている、通貨と資本との区別は、そしてこの区別をするさいに、貨幣としての、貨幣資本一般としての、利子生み資本としての流通手段とのあいだの諸区別が、乱雑に混同される」
エンゲルスの文章の方は、大谷氏の訳文から取ったもので、全集などの訳文と違っている。しかしドイツ語の原文から見れば、大谷訳の方が正確であろう。
日本語版全集にあるように、「貨幣、貨幣資本一般としての流通手段と利子生み資本としての流通手段」としても、違いはないと言えるが(この場合、最初の貨幣を、初めから流通手段としての貨幣と理解するのだが)、しかし全集の訳はエンゲルスの文章の真意を伝えるものではない。
エンゲルスの文章の日本語訳はさておくとして、明らかにここには全く違った概念が提出されているのであって、二つは同じことを言っているとか、エンゲルスはマルクスの言わんとするところを別の形で言ったのだ、あるいは一層正しく表現したのだ、などと言うことは決してできない。
マルクスは銀行学派が通貨学派を批判するに当たって、通貨と資本を区別しようとしてめちゃくちゃな概念区別をやっており、流通手段としての貨幣、貨幣としての貨幣、資本の循環過程の一段階としての貨幣資本、利子生み資本等々を「混同」していると言っているのだが、他方、エンゲルスは流通手段として、貨幣、貨幣資本、そして利子生み資本の三つを「混同」しているという罪で、銀行学派を告発しているのである。
一見して、エンゲルス修正の奇妙さ、あるいは概念的混沌は明らかであろう。我々はマルクスの観念はよく理解できるが、エンゲルスのそれは全く理解不能と言うしかないではないか。
2.何が「正しい見解」か不明
エンゲルスの手による「注」
さて、我々の理解を絶するのは、二十八章の最初の注である(『資本論』、岩波文庫第七分冊一八四頁)。
そこでは、トゥックからと、キニーア(岩波文庫、以下、キニアとする)からの二つの引用文が並べられ、その間に、エンゲルスの書いたと思われる「キニアは次の個所で正しい見解にずっと近づいている」という文章があって、二人の見解が関連づけられている。
この注におけるトゥックとキニアの引用文は、マルクスのこの部分の原文にはなく、エンゲルスが、それぞれ他の別のところから持ってきたものであるが、しかし意味不明の注になっているのである。
というのは、トゥックの見解も、キニアの見解も基本的に同じことを主張しているように見え、トゥックの見解に対して、キニアの見解のどこが優れており、「正しい」のか少しも明白ではないからである。
トゥックの主張は次のようなものである。
「銀行業者の業務は、スミスが指摘したように、商人相互間の取引と、商人・消費者間の取引との区別に対応する、二つの部門に分割される。銀行業者の業務の一方の部門は、資本の直接の運用をもたない人々から資本を集めることと、それをもつ人々に資本を分配または移転することである。他方の部門は、彼らの顧客の所得から成る預金を受け入れることと、顧客がその消費目的物への支出のために必要とする額を払い出すことである。……前者は資本の流通で、後者は通貨の流通である」
他方、キニアの見解はこうである。
「貨幣は二つの本質的に異なる操作を行うために使用される。商人相互間の交換手段としては、それは、資本の移転が実現されるための道具である。すなわち、貨幣での一定額の資本と、商品での同額の資本との交換である。しかし、労賃の支払いと商人・消費者間の売買において支出される貨幣は、資本ではなく、収入である。全社会の収入のうちの、日常の支出に使用される部分である。この貨幣は不断の日常的使用において流通する。そしてそれのみが厳密の意味で流通手段と呼ばれ得るものである。資本前貸しは、もっぱら銀行またはその他の資本所有者の意志にかかわる――というのは、借り手はいつでも見出されるからである。しかるに、流通手段の額は、貨幣が日常的支出のために、その内部で流通する全社会の必要にかかる」
見られるように、トゥックもキニアも、基本的に同じような見解を持ち出している。――つまり、資本家間、資本家と商人間で流通する貨幣は資本であり、他方、商人と消費者間で流通する貨幣は流通手段である、と共に主張しているのである。
ある意味では、これは当然である、というのは、トゥックもキニアも共に銀行学派であり、そしてこうした見解は銀行学派を銀行学派として特徴づけるものだからである。
しかしマルクスに言わせれば、資本家間、商人間等々で流通する貨幣は支払手段しての貨幣であり、その限り、流通手段としての貨幣である。
他方、商人や資本家と消費者間で流通する貨幣は、購買手段であり、その意味で、この貨幣もまた流通手段である。
というのは、流通手段は一方で支払手段であり、他方では購買手段だからである、あるいは支払手段といい、購買手段といい、それらは流通手段としての貨幣のそれぞれの機能でしかない。
つまりマルクスに言わせれば、資本家間の流通と、資本家と消費者・労働者の間の流通の違いは、資本と通貨(流通手段)の違いではなく、同じ流通手段のうちの、支払手段と購買手段との違いでしかないのだ。
マルクスの言葉を借りれば、「区別は、実際のところ、収入の貨幣形態〔購買手段〕と、資本の貨幣形態〔支払手段〕との区別であって、通貨と資本の区別ではない。なぜならば、商人相互間の媒介者としても、消費者・商人間の媒介者としても、同様に貨幣の量的に見て一定の部分が流通するのであり、したがって、貨幣はいずれの機能においても、等しく通貨〔流通手段〕なのだからである」(同一八六頁)。
いかなる点で、そしていかなる意味で、エンゲルスが、キニアの見解はトゥックの見解よりも「正しい見解にずっと近い」と見なしたかは、よく分からない。
二人の見解が区別されるのは、キニアがトゥックと違って、貨幣は「商人相互間の交換手段としては、それは、資本の移転が実現されるための道具である」などと評価していることくらいだが、エンゲルスはこんな主張にいくらかでも共鳴したのだろうか。
しかし仮に、貨幣がこの場合、「資本の移転が実現されるための道具」であるとしても、だからといって、この貨幣が流通手段として機能するということ、支払手段であって資本ではないということを否定しないのだ。
むしろ、資本家間で流通する貨幣が「資本が移転される道具」であるから資本であると結論することこそ、まさに典型的に“銀行学派的な”見解であった。
エンゲルスはマルクスの批判の意味を理解していなかったというしかない。
3.繁栄期に比べて「強い」か
沈滞期における「貸付への需要」
マルクスは「収入の流通としての流通〔通貨〕と、資本の流通としての流通〔通貨〕との区別(マルクスはこれをそれぞれ、第一の部分と第二の部分、と呼んでいる)を、通貨と資本の区別に転化することは、全くの倒錯である」と銀行学派を批判した後、これと密接に関係するもう一つの別の問題を提起する。
それは、二つの流通部面(すなわち第一の部分と第二の部分を反映するそれぞれの通貨量)の内的な関連ということである。この両者は、景気循環の局面において、相互に特有な、そして反対にさえ動く動揺をなすのであり、そしてこうした事情が、銀行学派の「通貨と資本とのばかげた区別に新たなきっかけを与え」(『資本論』第三巻二十八章、岩波文庫七分冊一九一頁)たのである。
まず繁栄期には、第一の流通は増大する、というのは、労働者への支払が、すなわち消費の支出が増大するからである。しかし第二の流通は相対的に、ある場合には絶対的にさえ縮小する、というのは、その流通の大きな範囲が信用によって代位されるからである。
他方、「再生産過程の停滞と一致する信用減退が生ずれば、第一の収入の支出にとって必要な流通量は減少するが、他方第二の資本移転にとって必要な流通量は増加する」(同一九四頁)
というのは、経済的不況は労働者への支払いの縮小であり、消費の減退だからであるが、他方、資本家、商人間ではさし迫った支払いのための貨幣への需要が急増するからである。
マルクスはここで、トゥックの次のような見解を問題にする。
「貸付け資本に対する需要と追加流通手段に対する需要とは全く別ものであって、両者が結合されて現われることは余りない」(同一九四頁)
マルクスは、通貨学派が第一の流通と、第二の流通を混同しているのに対し(両方とも「資本」であるとして)、銀行学派が(両者を区別したのはいいとしても)、第一の流通を媒介するもの「通貨」と呼び、第二の流通の場合には「資本」と呼んで、間違った区別を持ち込んでいることを非難するだけではなく、さらにこの間違った区別と関連して、両者の関係を全く見ていないことを批判するのである。
さて、こうした問題意識からするなら、エンゲルスが、沈滞期を繁栄期から区別するのは、「貸付に対する需要の量ではない」としたマルクスの文章を、「貸付に対する強い需要ではない」に変えたのはどんな積極的な意味もなかったばかりか、マルクスの意図をゆがめる可能性を含むものであったと言えよう。
マルクスは「フラートンのなすような対置は正しくない」として、次のように述べたのである。
「沈滞期を繁栄期から分かつものは、決して彼の言うように貸付けに対する強い需要〔マルクス、需要の量〕なのではなく、繁栄期におけるこの需要の充足の容易と、沈滞期に入ってからのその困難とである。繁栄期における信用制度の巨大な発展、したがってまた貸付資本に対する需要の激増、そしてかかる時期におけるこの需要に対する供給の寛大な応諾、実にこれが、沈滞期における信用逼迫を招来するものなのである。したがって、二つの時期を特徴づけるものは、貸付けに対する需要の大いさにおける差異ではないのである。
二つの時期は、まず第一に次のことによって区別される。すなわち、繁栄期には消費者と商人とのあいだの流通手段に対する需要が主勢を占め、反転期には、資本家相互間の流通手段に対する需要が主勢を占めるということである。沈滞期には前者が減少して、後者が増加する」(一九七頁)
問題になっているのは、繁栄期には購買手段に対する、つまり消費者の支出を媒介するものとしての流通手段に対する需要の増大であり、他方、沈滞期には、資本家や商人間における支払手段としての流通手段に対する需要の増大である。
それが、第一の部面と、第二の部面における流通手段の変化や動きを特徴づけるのであって、問題は、繁栄期には一般的に流通手段への需要が強いか、弱いかということではないのである。
一般的に、沈滞期にこそ「貸付けに対する強い需要」がある、と言うことはできない。支払手段としての貨幣に対する需要は、この時期、一挙に拡大し、パニックを引き起こすが、しかしそれは支払手段としての貨幣に対する需要が急激に増大するからである。
他方、繁栄期においても、購買手段としての、あるいは支払手段としての貨幣に対してさえ需要は大きくなるのであって、この時期、貸付けに対する需要が強くない、ということはないのである。ただ、沈滞期におけるような、支払手段に対する熱病的な、急性の需要はない、というにすぎない。
エンゲルスはしばしば何か安易に、マルクスの個々の言葉も修正しているが、しかしここでは、少なくともエンゲルスの修正が必要なかったということ、あるいは修正によって、マルクスの文章の趣旨があいまいになったことは確かだろう。
問題は、銀行学派の概念の混乱を明らかにすることにあったのだから、ここでは、一つの言葉、一つの概念さえも、いいかげんに扱っていいということにはならないのだ。
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エンゲルスの“大修正” ◆マルクスの草稿 「(中略)。では、地金の流出を度外視すれば、どうしたら、たとえばイングランド銀行は、自行の〔銀行券の〕発行額〔の増加〕なしに、自行の有価証券を(すなわち自行の貨幣融通の額を)増やすことができるのであろうか? 同行の店舗の外にある銀行券は、流通していようと私人の金庫のなかで眠っていようと、同行自身に関していえば、すべて流通の中にある、すなわち同行自身の保有にはない。だから、流通を増やさないためには、有価証券にたいして発行された銀行券は同行に還流しなければならない。これは二つの仕方で起こりうる。 第一に、同行はAに、彼の有価証券に対して銀行券を支払う。Aはこの銀行券でBに満期手形の支払をし、Bはその銀行券を同行に預金する。発券はこれで終わりとなるが、しかし貸付は残っている。(「貸付は残っているが、通貨は、もし必要がなければ、発行者のもとに帰っていく」。フラートン)。同行がAに前貸したものは、資本ではなくて、銀行券であったが、同じ銀行券がいま同行に帰ってきた。これに反して、同行は、この銀行券で表現されている価値額だけのBへの債務者であり、だからBは、銀行の資本のうちのこの価値額に相当する部分を自由に使うことができる。それゆえ、同行の元帳の立場からすれば、取引は、同行がAに資本を前貸しした、ということに落ち着くのである。しかし、この元帳の立場は、取引の本性をいささかも変えるものではない。そしてその本性とは、Aが必要としたものは資本ではなくてBへの『支払手段』であったということ、発行された銀行券は支払手段として機能したということ、そして貨幣融通への圧迫はけっして資本への需要ではなくて、支払手段への需要だということである。ただし、最後の場合に同行が需要を満たすことができるのは、流通総量にそれだけの銀行券を追加することによってではなくて、同行がBにたいする一定価値額の債務者になることによって、つまり前貸が同行の資本の勘定にかかってくる、ということによってでしかないのではあるが。 第二に、AはBに支払い、そしてB自身か、またはさらにBから銀行券で支払を受けるCは、この銀行券で同行に、直接または間接に、満期手形の支払をする。この場合同行は、自分自身の銀行券で支払を受けたのである。だが、この場合には取引はこれで終わっている{Aから銀行への返済だけを除いて}のだから、同行がなんらかの仕方で資本を前貸ししたと言うことはできない。同行は銀行券を発行し、それがAにとってはBへの支払手段として、Bにとっては同行への支払手段として役立ったのである。ただAにとってのみ資本{これはここでは、事業に投下される価値額という意味においてである}が問題になるが、それは、彼がのちに自分の還流金を、したがって自分の資本の一部分を、同行に支払わなければならないというかぎりでのことである。この場合、彼がこれを金で返済するか、それとも銀行券で返済するかは、彼にとってまったくどうでもよいことである。というのは、彼は(銀行とは違って)なんらかの種類の商品資本を譲渡しなければならない、言い換えればなんらかの譲渡の受取金を銀行に支払わなければならないのであり、したがって金または銀行券を、それらの貨幣名に等しいなんらかの等価物と引き換えに受け取ったのだからである。彼にとっては、この金または銀行券は資本の価値表現なのである」 (大谷禎之介「『流通手段と資本』(『資本論』第3部第28章)の草稿について」より) ◆エンゲルスの修正(『資本論』現行版) 「ところで、金の流出は別として、どうすれば、銀行券を発行する銀行、たとえばイングランド銀行は、自分が行なう貨幣融通の金額を、自行の銀行券発行額を増やさずに、増やすことができるであろうか? 銀行の壁の外にある銀行券は、流通していようと個人の金庫のなかで眠っていようと、その銀行自身に関して言えば、すべて流通のなかにある。すなわち銀行の保有の外にある。だから、銀行が割引や担保貸付、有価証券担保前貸を拡大すれば、そのために発行される銀行券は再び銀行に還流しなければならない。なぜならば、もし還流しなければ、それは流通額を大きくすることになるが、必ずしもそうなるわけではないからである。この還流は二つの仕方で起こりうる。 第一に、銀行はAに有価証券と引き換えに銀行券を支払う。Aはこの銀行券でBに満期手形の支払をし、Bはその銀行券を再び銀行に預金する。この銀行券の流通はこれで終わるが、しかし貸付は残っている。 銀行がAに前貸しした銀行券は今では銀行に帰っている。ところが、銀行はAの、またはAによって割引された手形の支払人の、債権者であり、この銀行券で表されている価値額だけのBの債務者であって、Bはこうして銀行の資本のうちのこの価値額に相当する部分を自由に使うことができるのである。 第二に、AはBに支払い、そしてB自身が、またはさらにBから銀行券で支払を受けるCは、この銀行券で銀行に、直接または間接に、満期手形の支払をする。この場合には銀行は自分自身の銀行券で支払を受けたのである。これで取引は終わっている(Aから銀行への返済だけを残して)。 では、銀行からAへの前貸は、どの程度まで資本の前貸とみなされ、どの程度まで単なる支払手段の前貸とみなされるのか?」 (『資本論』三巻二十八章、全集25巻a五八〇頁) |
4.奇妙な修正や削減
道義的責任さえ問われる
次は、いわば「エンゲルス修正問題」の山場とも言える個所、今我々の内部でも激しい論争の焦点となっている個所である。幸いにも、この個所については、マルクスの原文をエンゲルスがいかに、どんな程度に(非常に大幅に)訂正したかは、前号の『海つばめ』で紹介されており、読者は簡単にそれを照会できる、という利点がある。
エンゲルスがここで二個所で大幅な削除を行なっていること、そしてそれは全く正当なものでも、根拠あるものでもないことは、すでに多く語られている。
そしてその大幅な削除と密接に関係しながら、そのほかにも、いくつかの削除、追加、文章の変更などを行なっている。
まず一番目は、「銀行が有価証券に対して発行する銀行券」というマルクスの単純な文章を、「銀行が割引や担保貸付、有価証券担保前貸を拡大すれば、そのために発行する銀行券」と書き替えたこと、
二番目は「同行がAに前貸したものは、資本ではなく、銀行券であったが」というマルクスの文章から、「資本ではなく、銀行券であったが」を削除したこと、
三番目は、「第一に」という文の途中の「同行は、この銀行券で表現されている価値額だけのBへの債務者である」に、同行(イングランド銀行)は、「Aの、またAによって割引された手形の支払人の、債権者であり、……」というおかしな文章を追加したこと、最後に、マルクスには全くなかった、あの“悪名高い”文節、「では、銀行からAへの前貸は、どの程度まで資本の前貸とみなされ、どの程度まで単なる支払手段の前貸とみなされるか?」を追加したこと、である。
これらはみな、エンゲルスがマルクスがここで論じている課題を全く理解せず、何かおかしな先入主にとらわれていたことを暴露している。
まず第一であるが、「(Aに対する)貸付は残っている」と言っている限り、手形割引ではないことははっきりしている、というのは、手形割引では(貸付一般ならともかく)、Aに対して「貸付」が残ることはないからである。特に、ここで「手形割引」をつけ加えることに、どんな意味があったのか、また手形割引を持ち出すなら、マルクスの「(Aに対する)貸付は残っている」という文章も変えなければ、全体の意味が混沌として来て、理解不能になってしまう。
何からのエンゲルスの“誤解”――決して偶然のものとは言えないような――があったとしか思われない。
そしてまた、マルクスが簡単に「銀行が有価証券に対して発行する銀行券」と言っているのを、わざわざ「担保貸付、有価証券担保前貸を拡大すれば」と言いなおしているのも分からない。おそらく、担保貸付と有価証券担保前貸は同格のつもりなのだろうが、しかし実際には、それらは同じではなく(担保一般と有価証券担保は同一ではないし、また貨幣の lending と advance も結局は利子生み資本としての運動ではあるとしても、形式は違うだろう)、だからこそ誤解を招く文章になっているのである。
さて二番目の修正、つまりイングランド銀行がAに前貸したのは「資本ではなく、銀行券であった」というマルクスの言葉の削除もまた理解に苦しむものである。
これはイングランド銀行がAに渡す銀行券は、「資本」(lending)としてでなく、貨幣融通(advance)として譲渡されたということを言っているのであって(その限りでは、手形割引に近い)、ある意味ではきわめて重要な言及であり、削除する意味など全くないばかりか、削除することでマルクスの言わんとすることは弱まりこそすれ、強まったり、一層明確になる、などということは決してないのである。
この削除は、エンゲルスが「担保貸付」をここで持ち出していることと不可分であろう。つまりエンゲルスは担保(一般)を取った「資本」の貸付と、有価証券に対する貨幣前貸を区別せず、前者をも想定しているのだ(そんなことはここでは全く問題にもなっていないにもかかわらず)。
三番目については、銀行がAの債権者であるのは、まあ、いいとして(というのは、貨幣融通をしたのだから)(しかし、こんなことをこの文脈で言う必要があるのか、ということはまた別である)、それがなぜ「銀行が、またAによって割引された手形の支払人〔受取人――大谷訳〕の、債権者である」ということになるのであろうか。このことは全く違った二つのことであろう。
そして問題の最後の一文節は、それ以下のエンゲルスの署名入の長い挿入文に続くのであり、またそれと不可分である。エンゲルスはこの問いに答えて、署名入りの文章をつけ加えているのだが、しかしその問い自体はマルクスのものであるかに見せ掛けているのである(問いも答えも実はエンゲルス自身のものであるのに、問いはマルクスのもので、エンゲルスはそのマルクスの問いを正しく解くために答えを書いた、というのだ)。
しかし実際には、そんな問い自体、マルクスは決して発していないのであり、マルクスの問題意識からしても、発することはなかったのである。
この問いも、それに対する答えも徹底的にエンゲルスの問題意識に貫かれているのであって、マルクスの全く預かり知らないところであろう。
もちろん、エンゲルスのやったことは、普通の常識では、決して正当化されえないだろう(卑劣である、という非難さえ受けかねない)が、エンゲルスとマルクスの間のことだから許される、といったことでもないように思われる。問題はそんなに安易ではない。
次回では、この問いと答えの部分を検討しよう。
5.全くのピント外れ
混乱のもと・長大な挿入文
エンゲルスが、自分の文章だと断わらずに(つまりマルクスの問題意識であり、問題提起であると偽って)、「では、銀行からAへの前貸は、どの程度まで資本の前貸とみなされ、どの程度まで単なる支払手段の前貸とみなされるか?」という文章をつけ加えたことは、これまでもすでに何回も紹介されてきた。
このことは決してどうでもいいことではなく、すでにこのこと一つ取っても、エンゲルスの修正の真意が疑われても仕方ないほど重要な問題であろう。
まず第一に、マルクスは決してこのような問題提起をしなかっただろうし、するはずもない、ということである。これは決定的にエンゲルスの問題意識であって、マルクスのそれではない。
マルクスがここで主張しているのは、銀行が前貸するのは銀行券であり、仮に資本家に融資され、資本家間で流通するとしても、それは銀行学派が言うように「資本」ではなく、支払手段(流通手段つまり「通貨」)である、ということであった。資本と通貨を区別すると言いながら、銀行学派はそれを正しくやっていないことを暴露するのが、マルクスの課題であった。
マルクスの問題意識は、銀行学派の概念の混乱を解きほぐし、明らかにすることであった、そしてそのためには、銀行から様々な形で貸し出される利子生み資本が銀行にとって、そしてまたそれを受け取る側にとって、どんな意味をもっているか、どんな経済的規定性においてそれぞれ理解されるべきか、を明らかにし、銀行学派の「通貨と資本の区別」がどんなに混乱したものかを暴露することであった。
だから、マルクスはここで、銀行が前貸するのが、どんな程度まで資本であるとか、支払手段であるとか言うはずもないし、そんな問題を提起するはずもないのである。問題はそうした“程度問題”ではなかったのだ。
しかも、マルクスがこうした問いを発し、自分ではきちんと整理して回答していないから、エンゲルス自身が答えるという形にしていることは、さらに許しがたいものであろう。
そして、エンゲルスが自分で発し、自分で与えた回答はまったく理解を絶するものであった。彼は、この“程度”問題を、担保があるなしという基準に基づいて、三つの場合に分けて“解決した”のである。
第一の場合は、担保なしで銀行が貸し出す場合で、この場合は、銀行は「資本」を貸し出す、というのは、それは受け取った側で「追加資本」として使用し、価値増殖されるからである。
第二の場合は、担保貸付けであり、第三の場合は手形割引である。
そしてエンゲルスは、第一の場合は、「資本の前貸」と言えるが、第二、第三の場合はそうは言えない、と結論するのである。というのは、第二の場合は、「貨幣資本」を受け取った側(これまでの議論で言うと、A)は、「追加的な資本を受け取らなかったが(むしろ反対!)、必要な支払手段は受け取った」からであり、第三の場合は、「決して前貸でなく、単なる売買」だからと説明するのである(この最後の説明も、こうした形では正当ではない)。
奇妙な話ではないか。
そもそもここでは、担保なしの貸し付けといったことは問題になっていない、というのは、マルクスはひっ迫期に、公債など(有価証券)を担保にした銀行券融通を問題にしているのだからである。
そして担保のあるなしで、資本貸付と貨幣融通を区別する議論はおかしなものであろう。担保があれば資本の貸付けだというが、担保のない資本貸付の場合もいくらでもあるだろう(利子率は高くなるだろうが)。銀行にとって問題なのは、利子の獲得であって、それが保証されることが本質的だからである。
資本貸付であるか貨幣融通であるかは、担保のあるなしによるのではなく、まさにそれを受け取る側がどう使用するかという経済的規定性の問題であろう。
もちろん銀行の方でも銀行資本(資本金と預金)を貸し付けるのでなく、銀行券を発行するという場合もあり、そうした意味で資本貸付と貨幣融通を区別できるであろう。
しかし今マルクスが問題にしているのは、基本的に(「資本貸付」でも、「手形割引」でなく)貨幣融通であり(マルクスは有価証券を担保にとっての貨幣融通を問題にしているが、それは現実にそうだったからであって、担保を取るかどうかということは概念規定にとってはどうでもいいことであるが、エンゲルスがこのことを理解していたようには見えない)、それ(融通された銀行券)が資本家間で流通するなら「資本」であり、資本家と労働者・消費者間で流通するのは「通貨」であると、銀行学派によって主張されているのを批判することなのだから(マルクスによれば、どちらの場合も流通手段しての貨幣であり、ただ資本家間は支払手段として機能し、資本家と消費者間は購買手段として機能し、そうした意味で区別されるにすぎない、区別は流通手段の枠内での区別にすぎず、「資本」と「通貨」の区別ではない)、エンゲルスの言っていることはまったく的外れ、ということだ。
エンゲルスがここで、担保なしの貸し付けにこだわり、それは「資本」であるなどと言い出していることは、マルクスが問題にしていることを理解していないとしか思われないのだが、それはこの二十八章の最初で、奇妙な課題設定をしたことと無関係ではないだろう。
6.改善とは到底言えず
エンゲルスの「介入」の仕方
今回は、エンゲルスがマルクスの文章にどんな具合に「介入」し、それを修正したか、その典型的なやり方の一つを見てみよう。まずマルクスの原文を紹介する。〔 〕内は、エンゲルスの代表的な語句修正。
「このような貨幣融通を求める圧迫〔需要〕が資本に対する圧迫〔需要〕であるというかぎりでは、それが《そのようなもの》であるのは、ただ、銀行業資本にとって、すなわち、金(地金流出の場合)、イングランド銀行券――これは私営銀行業者にとっては、ただなんらかの等価物で買われるだけのものであり、したがって彼らの資本を表している――にとって、最後に、金や銀行券を手に入れるために売りとばされなければならない公的有価証券(国債証券やその他の利子付証券)にとってでしかない。
(しかし、これらの有価証券は、それが国債証券であれば、それを買った購入価格を表わし、それを買った人にとってだけ資本なのであって、この人にとっては、彼の購入価格を表わし、彼がそれに投下した資本を表わしている。それ自体としては、それは資本ではなく、ただの債権である。もしそれが土地抵当証券であれば、それは将来の地代に対する単なる指図書であり、またもしその他の株式であれば、将来の剰余価値の受領を権利づける単なる所有証書である。すべてこれらのものは、資本ではなく、生産的〔エンゲルス、削除〕資本のどんな構成部分をもなしていないのであって、実際それ自体としてはどんな価値でもない。)
最後に、そのような取引によって、銀行のものである貨幣等々が預金に転化し、その結果、銀行はその貨幣の所有者から債務者になり、別の占有権限のもとにそれを保有するということもありうる。銀行自身にとってはこのことがいかに重要であるにせよ、それは国内に現存する資本の総量を、また貨幣資本の総量さえも、いささかも変えるものではない。つまりこの場合、資本はただ貨幣資本として現われるだけであり、また貨幣を除けば、単なる資本権限として現われるのである。これは非常に重要なことである。というのは、銀行業資本へのそのような圧迫やそれに対する需要と比べてのそれの相対的な欠乏〔銀行資本の欠乏やそれに対する切迫した需要〕が、実物資本の減少と混同されるからであって、実物資本はこのような場合には、市場を供給過剰にしているのである〔反対に、生産手段や生産物の形態で過剰に存在して市場を圧迫しているのである〕」(大谷禎之介、法政大学『経済志林』一九九四年)
マルクスの文章はこの部分は全体として、一続きであるが、便宜上三つに分けた。真中の部分は、マルクスの原文でも括弧に入っていたのだが、エンゲルスはこの括弧をはずしている。
このマルクスの文章に対して、エンゲルスの行なった修正を全部紹介する、もしくはエンゲルスの書き替えた文章そのものを提供することはしないが(紙面の都合もある)、しかしそれは現行『資本論』の文章そのままであるから、簡単に照会することができる(『資本論』原文で四七四頁、マル・エン全集二五巻a五八四頁、岩波文庫七分冊二一〇頁)。
こうしたマルクスの原文に対する「介入」は、エンゲルスは断わりなく、いくらでも行なっているのであって、ここで特に激しいというわけではない。問題はそれが正当であったか、そしてまた必要であったか、ということである。
例えば、括弧をはずしたのはよかったのか、マルクスの文章の意味を理解する上で、何か積極的な意味があったのか。
しかし我々はそんなものを見出すことはできない。かえって、括弧をはずすことによって、マルクスが言おうしていたことの流れがあいまいになり、ぼかされているとさえ言える。括弧内の部分は、このセンテンスでマルクスが言わんとしたことの流れからいくらか脇道にそれている、だからこそ、マルクスはそれを括弧に入れ、文章の流れから区別したのだ。
また「圧迫」という言葉を、「需要」に変えたことも、少しも改善であると言えないであろう。マルクスがこの「圧迫」という言葉で表現したかったことは、単に貨幣資本(利子生み資本)に対する「需要」があるということではなく、もっと後の文章で言っていること、つまり銀行業資本(利子生み資本)に対する「需要と比べてのそれの相対的な欠乏」ということであった。エンゲルスはマルクスの文章を(したがってマルクスの言いたいことを)一面化し、平面化してしまっており、お世辞にもマルクスを改善したとは言えない。
マルクスの文章にも「最後に」が二回も出て来るとかの混乱があって、その面では、エンゲルスの修正も正当である、といった弁護論もあり得るかもしれない。
しかしマルクスはいったん、最初の「最後」で終えようとしたが、しかしさらに考えてみれば、まだもう一つ例証があったと思い直した、ということであって、そうしてマルクスの思考過程がまだここでは残っているということであろう。
マルクスの文章が「草稿」であることが確認されているなら、それはそれとして、悪くないのではないか。
7.問題設定が別ものに
マルクスへの敬意欠く
さて三巻二十八章の中でも重要な文章、つまりそのまとめともいえる部分でも、エンゲルスは大きな修正をやっているが、しかしどうしてそんな必要があったのかを疑わせるのである。現行の『資本論』の文章(エンゲルスの文章)は次のようになっている。
「こういうわけで、流通手段の総量は不変であるかまたは減少するのに、どうして銀行が担保として保有する有価証券の量が増大することができるのか、つまり、銀行からの貨幣融通を求めて殺到する増加需要にどうして応ずることができるのかということは、全く簡単に説明がつくのである。しかも、この流通手段の総量はこのような貨幣欠乏の時期には二重の仕方で制限されるのである」(全集二十五巻a五八五頁、原四七五頁、岩波文庫七分冊二一一頁)
マルクスのもとの文章は以下のような簡明なものであった。
「ところで、われわれは銀行の有価証券の増大(あるいは貨幣融通を求める圧迫の増大)と、それと同時に生じる貨幣の総量の減少ないし停滞とを、二重の仕方で説明した」
マルクスの問題としていることと、エンゲルスの問題としていることは明らかに違っている。
エンゲルスはここで問題設定を逆転させており(まるで問題が、銀行の有価証券保有の増大であるかに)、さらに、銀行が逼迫期に「貨幣融通」を求める増大する需要に「どうして応ずることができるか」、といった課題を持ち込んでいるが、しかしそんなことは、ここでは全く問題になっていないし、またマルクスも問題にしていない。
むしろ反対に、マルクスは銀行学派が、逼迫期の増大する貨幣需要(支払手段としての貨幣への需要)に銀行が自らの有価証券を販売するなどして(これは、銀行にとって、資本の減少として現象する)、そのカネ(中央銀行券、あるいは金)で貨幣融通するのを「流通手段ではなくて、資本の貸付だ」としている“銀行業者的な”観念(すなわち銀行業者的立場からの“資本”概念でしかないこと)を批判しているのであって、銀行が増大する貨幣需要に「どう応じるのか」といった問題意識で対応しているのは、実は銀行学派であるにすぎない。
またマルクスが「二重の仕方で説明した」と言っているのを、「しかもこの流通手段の総量はこのような貨幣欠乏の時期には二重の仕方で制限される」と言い変えたのも全く奇妙である。
エンゲルスの文章では、まるで「流通手段の総量が制限される」ことが問題であるかに読まれるが、ここでは「制限」云々は少しも問題にはなっていないのである。
確かに、逼迫期、銀行保有の有価証券は増え(というのは、支払手段としての銀行券に対する需要が増え、その担保として持ち込まれる有価証券も増えるから)、他方、それに対応して流通手段(流通する銀行券)は増えない(あるいは停滞し、ある場合には減少しさえする)としても、それは「制限される」といったこととは別であろう。
マルクスは、支払手段として(購買手段としてではなく)銀行から出て行った銀行券はすべからく迅速に銀行に還流するからこそ、その流通手段としての存在は「瞬間的」だからこそ、銀行学派が言いはやしているような現象が生じているのだと説明しているのであって、「流通手段の総量の制限がいかになされるか」といったことは、全く無関係なのである。
銀行学派が言うように、「資本だから流通手段の総量は増えない」のでなく、銀行から出ていく銀行券が支払手段として機能するから、そうした機能における貨幣として出て行くから、銀行券は容易に増えないのだ、増えなくて当然だと言うのである。
「いかに制限されるか」なのではなく、かりに「制限」されずに出て行っても、客観的に増えないのである、というのは、銀行券は支払手段として機能する場合にはすぐに銀行に還流してくるからである。
しかも、逼迫期には購買手段としての通貨は減少するということも加わり(この流通は繁栄期にむしろ増えるのだが)、一層銀行券の増大に歯止めをかけるというわけだ。
またエンゲルスは、マルクスが「(貨幣が支払手段として機能する場合は)支払の媒介が貨幣取引の唯一の目的」としたのを、「支払の決済が取引の唯一の目的」と書き替えているが、そんな必要は全くなかったと言わなくてはならない(エンゲルスの修正は日本語としてもおかしい)。
問題になっているのは、貨幣の機能の問題であって、取引一般ではないのは明白である。誰かして、こんなものは“小さい”、どうでもいい修正だ、どちらでも同じではないか、というのか。必ずしも「どうでもいい修正」とは思わないが、仮にそうだったとしても、エンゲルスのように変える必要が全くないことは明らかであろう。
また、マルクスのこの文章の結論的な部分、「支払手段としての流通は、彼ら〔銀行学派〕にとっては流通ではないのである」の冒頭に、エンゲルスは「発行する銀行にすぐに還流して来る銀行券の」とつけ加えているが、まさに言わずもがな、蛇足というものであろう(「銀行券の」だけならまだしも)。
見られるように、エンゲルスのやっていることは、マルクスに対する、その文章に対する敬意と尊重の念を欠いているとしか思われない。
8.エンゲルスの「誤解」の根底
なぜ「追加資本の借入れ」持ち出すか
さてエンゲルスの「誤解」もしくは「間違い」の根底は何だったのか。我々は最後に、それを明らかにしている彼の修正を取り上げよう。
銀行学派(トゥック、フラートンら)を批判する、マルクスの見解の要点は、マルクス自身の言葉を借りて言えば、次のようなものであった。
「貨幣がただ諸支払の決済のためにのみ機能する場合には(そしてそのような恐慌のときに借りるのは、支払うためであって買うためでなく、過去の諸取引を終わらせるためであって、新たに諸取引を開始するためではない)、その貨幣の流通はただ瞬過的でしかないのであって、……したがって巨大な額のこのような取引と貨幣融通にたいする大きな圧迫とが、流通を拡大することなしに行なわれうるということ、これは貨幣の特性である。
しかし、銀行学派が持ち出している事実、すなわちイングランド銀行が有価証券の膨張によって示されるような大きな貨幣融通をしているのに、それと一緒に同行の銀行券流通(Circulation)が停滞したままであるかまたは減少しさえもするという単なる事実は、決して彼らの誤った『資本の問題』のために主張しているのとは違って、支払手段としての機能における貨幣(銀行券)の流通は増加も膨張もしないということを証明するものではないのである」(大谷翻訳文、なお該当する個所は『資本論』では原典四七五頁、岩波文庫七分冊二一一頁)
マルクスが一貫して主張することは、逼迫期においては、支払手段に対する要求は大いに拡大し、したがって銀行の貨幣融通は膨張する、そしてそれにつれて有価証券の保有量も増大するが(貨幣融通に対する担保として持ち込まれるから)、しかし流通通貨(銀行券)は増えない、というのは、支払手段として貸し出された銀行券は迅速に銀行に還流するからである、という事実である。
ところが、この事実に対して、銀行学派は、流通通貨が増えないのは、それが「資本」として貸し出されて、流通手段(通貨)として貸し出されるからではないからだ、と説明したのである。
彼らがそう説明したのは、通貨学派に対する批判ということがあった。通貨学派は、銀行は銀行券の発行によって通貨を勝手に増大させ得るからこそ、通貨の恣意的な膨張が生じ、それが恐慌の一原因になったと主張し、通貨の“管理”を訴えたのだが(その結果が一八四四年の銀行条例)、銀行学派は、通貨の管理など必要はない、というのは、通貨は経済と流通の必要に従って出て行き、経済的法則に従うものにすぎないからだと反論したが、こうした理屈の一環として、逼迫期に流通通貨が増えないという現象を「資本」の問題である(つまり貨幣の流通法則に従うものではない)として、つじつまを合わせようとしたのである。
だからマルクスの課題は、当然、逼迫期に銀行が融通するものは支払手段としての貨幣であって、「資本」ではないことを説明することであり、またそれに尽きたのだ。
支払手段としての貨幣もまた流通手段としての貨幣であって、それは基本的に商業信用に基づいているのである(あるいは、マルクスはここでは商業信用に基づく信用の問題を扱っている)。
支払手段としての通貨は迅速に銀行に還流するのであり、そのことが理解されるなら、逼迫期に「銀行の有価証券が増大しても、通貨が増えない」という現象は簡単に説明されうるのであって、ここで「資本」などを持ち出す必要はないし、それは間違っている、とマルクスは言うのである。
問題はエンゲルスだ。彼は、マルクスの「彼らの誤った『資本の問題』のために主張しているのとは違って」という文章を、「貨幣融通を貸付資本の借入れ、追加資本の借入れと同一視するという彼らの誤りの結果として」と書き替えている。
つまりエンゲルスによれば、銀行学派の「誤り」は、逼迫期の貨幣融通を、「貸付資本の借入れ、追加資本の借入れ」と同じにみたところにある、と言うのである。
すでに見たように、エンゲルスはこの貨幣融通を、一方では貨幣融通であるとともに、他方では、資本貸付、しかも「追加資本」の貸付である、と規定している(彼は長文の挿入文の中で、担保のない場合は、追加資本の貸付だとした)。
彼は銀行学派が貨幣融通を資本貸付と「(全く)同じにみなした」ことを批判するのだが、これは途方もないことであって、マルクスの銀行学派批判の意味を全く理解していないと言うしかない。
マルクスはまさに、銀行学派が逼迫期の貨幣融通を「資本の問題」としたこと自体を非難するのだから、エンゲルスの立場は混乱で、半分銀行学派の立場だ、と言えるだろう。
条件付きであれ、彼は貨幣融通もまた「資本」の貸付である、と主張しているからである。
もちろんマルクスは、逼迫期の貨幣融通の場合でさえ、「資本」の側面のあることは十分に承知しており、その点についても詳しく語っている。
しかし問題は、逼迫期において急増する、銀行による貨幣融通の本質であって、それは支払手段(つまりそうした意味での、通貨=流通手段)の貸付以外ではないのである。
9.『資本論』の理論を妨げる
不当なエンゲルスの“修正”
我々は、エンゲルス版『資本論』第三巻第五編(いわゆる『信用論』)の内の、特に二十八章を取り上げて、エンゲルスの修正と、その不当性を論じてきた。
二十八章を取り上げたのは、そこにおけるエンゲルスの修正がとりわけひどかったからであり、またある意味で、エンゲルス修正における本質的なものが現われていると考えたからである。
そこでは、エンゲルスはマルクスの銀行学派批判を台無しにしてしまい、マルクスが少しも問題にしていない「資本」――借り手にとっての――について論じたのであったが、そのことによって、マルクスの銀行学派批判は全くわけの分からないものになってしまった。
というのは、逼迫期に企業家が銀行から受け取る銀行券は「資本」でなく、「支払手段(流通手段)」である、というのがマルクスの見解だったからである。これを「資本」であると主張した者こそ銀行学派であるが、まさにその点にこそマルクスの批判が向けられていたのである。
だから、エンゲルスの修正は「とんでもないこと」であり、事実上、二十八章のいくらかでもつじつまの合った、合理的な理解を全く不可能にしてしまったのである。
この章を中心にあれこれの恣意的な理解や“理論”や勝手な解釈や憶測――修正主義者、日和見主義者ら、衒学的なインテリらが自分たちの居場所を見つけることができるような――が横行してきたのも偶然ではない。
マルクスは第五編において、ここで論じる銀行貸付は、基本的に「本来の商業信用のみを扱う」と明記しているのであって(『資本論』三巻二十五章)、エンゲルスのような問題意識は生まれて来るはずもなかったのである。この点では、エンゲルスには根本的な“勘違い”、あるいはマルクスとの認識の違いがあったといえるだろう。
このことは、第五編でマルクスが「貨幣信用」とした言葉を、ほとんど「銀行信用」と書き替えてしまったこととも関係があるように思われる。
マルクスはもちろん、銀行信用も論じるのだが、それは基本的に商業信用の枠内での、あるいは商業信用と絡み合う限りでのそれであって、銀行が産業資本と有機的に結び付いていく、あるいは一体化するという意味でのものではない。
エンゲルスの時代は、すでに後にヒルファーディングらが論じたような「金融資本」の現象が現われていた――ところでレーニンの定義によれば、「金融資本」とは、産業資本と銀行資本の結合もしくは癒着である――かもしれない、そしてエンゲルスはそうした現実を考慮した、あるいは反映したのだという弁護論もあり得るだろう。
産業資本の台頭が、銀行資本をして、単なる商業銀行的性格を後退させ、まさに「金融資本」として、つまり産業資本との結合する資本としての性格を強めた、というのである。
しかし仮にそうだからといって、エンゲルス修正が正当だということにはならない、というのは、問題はマルクスの理論であり、また銀行学派の「間違い」であり、それをどう評価し、批判するか、だからである。
エンゲルス修正は第五編の全体にわたってなされており、そのほとんどが問題があると言えるが、ここではいちいち取り上げない。
しかしどうしても最後につけ加えておかなくてはならないことは第五編の全体の編集においても、エンゲルス修正は非常に問題を残している、ということである。その結果、第五編の理解はますます困難になっているのだが、これは大谷禎之介が強調しているところでもある。
一番の問題は、二十五章の標題になっている「信用と架空資本」というのは、決して二十五章だけのものでなく、第五編全体の標題であったが、エンゲルスが「誤解」したということである。
実際、二十五章を見ても、「信用と架空資本」についてはほとんど、あるいは全く論じられておらず、一番それが展開されているのが二十九章であるという事実、そしてまた、二十八章以降の章が多かれ少なかれ、こうしたテーマで論じられているという事実は、このことの正当性を語っている。
そしてまた、二十六章の見だし、「貨幣資本の蓄積。それが利子率におよぼす影響」もまた、エンゲルスがマルクスの書き込みを誤解したもので、この部分のものとしてふさわしくないことも明らかであろう。
大谷によれば、二十五章の文章は二十七章に続くのであり、そしてこの二つの章は、第五編の以下の部分(エンゲルス版『資本論』の二十八章から三十五章)の「総論ないし序論」として位置づけられるべきである。
エンゲルスの『資本論』修正は相当にひどいものであり、それを論じ続ければ切りがなく、とりあえずここで一たん筆を置くことにする。
しかし最後に一言付け加えれば、エンゲルスのやったことは、マルクスとの“友情”に大きなひびを入れ、それを裏切るものであった、ということだ。それは、マルクスの意図や文章の意味をねじ曲げ、『資本論』三巻五編の理解を促進するどころか、それに大きな障害を置いたのである。エンゲルスは勝手にマルクスの文章を“いじる”べきではなかったし、そんな権利もなかったのだ(もちろん、純粋に編集上の問題や、誤字訂正等々は別のことだが)。
(終わり)
2003年4月27日〜7月13日