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マルクス主義同志会機関紙
『海つばめ』◆隔週日曜日発行
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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

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・マルクス主義同志会第6回大会−国際情勢・国内情勢
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・日本共産党と憲法――プチブル党の裏切りの歴史

 
 
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まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動


●1075号2008年8月10日       1075号全文を読む

【一面トップ】バラマキ政治に走る福田改造内閣
 消費税増税を公言――古い自民党へ完全回帰

【主張】七年越しのWTO交渉の決裂
 再び世界の分裂と抗争の時代か

【草枕】労働者の“悪い友”
【コラム】飛耳長目
【二面トップ】派遣労働そのものの禁止を
 やっと日雇い派遣の禁止――これでは労働者の地位は変わらない
【各地の“草の根”政治】神奈川/階級的視点が必要だ
 原子力空母反対闘争
【三面トップ】ベトナムでもODA汚職
 ワイロは“商習慣”と――居直るコンサルタント企業家
【三面サブ】“亡霊”は甦る――マルクス怖れるインテリたち
【三面サブ】過酷な労働実態を告発――『ルポ・“正社員”の若者たち』
【四面トップ】天安門事件を背景に青春像
 芥川賞受賞作『時が滲む朝』を読む
【四面書架】『斎藤一郎著作集(第一期全八巻)』/血の通った戦後労働運動史
【四面サブ】公教育退廃の一側面――大分教員汚職事件に思う
【四面連載小説/天の火もがも(4)――林 紘義】
 こはいかに 入学即デモ、全学ストとはC

『海つばめ』の校正
・1074号二面、韓国シチズン精密労組の写真説明「ヘンバーネットより転載」→「レイバーネットより転載」

 1075号全文を読む


バラマキ政治に走る福田改造内閣
消費税増税を公言
古い自民党へ完全回帰

 福田は十七名の閣僚中、十四名を入れ替え、清新さを装うとともに、来たるべき総選挙に向けて、その体制を整えようとしている。“改革”などを棚上げし、「景気」や「生活」などをスローガンに財政膨張(バラマキの人気取り政策)に走り、その帳尻を消費税増税で埋め合わせようという“戦略”である。しかしこの貧弱な改造内閣は、まさに自民党政権の終焉を予感させるものである。こんなもので、“国民”の支持を回復し、自民党権力を継続させ得ると考えているとするなら、彼らは現在の自分たちの置かれている状況が全くわかっていないのである。「結党以来の」危機に直面しながら、こんな「内閣」しか準備できなかったこと自体が、この党がすでに頽廃し、茫然自失して、なすすべもなく敗退するしかないことを教えている。

 改造内閣の評価で、ブルジョア・ジャーナリズムはまっ二つに割れている。

 福田内閣の支持率が劇的に四一%(読売)、もしくは三八%(日本経済)にまで回復した(産経もまた二九%と支持率を高めにはじきだした)、麻生効果だ、などとうれしそうに語る反動派が存在する一方、朝日と毎日はせいぜい二〇%代半ばで、改造はほとんど評価されていないと結論づけている。

 どちらが正当かはさておくとして、少なくとも労働者の意思は明白であろう。この内閣は自民党権力の「終りの始まり」以外の何ものでもない。

 福田は、改造内閣を「国民の目線」でものごとを処理する、「安心実現内閣」だと自称したが、実際には、現実的な観点をますます失いつつある。

 経済財政相に与謝野、財務相に伊吹、そして国土交通相に谷垣が起用されたことに象徴されるように、これまでの“改革”路線を放棄して、“古い”自民党に戻るということでしかない、つまり福田内閣が言う「財政再建」とは、消費税増税による「財政再建」であって、「構造改革」を徹底的に推し進め、支出のありとあらゆるむだや不合理を一掃することによるものでは全くないのである。

 しかもこの大増税は、「法人税」や財産税や累進的所得税の強化や不労所得への課税拡大等々によるものではなく――こうしたブルジョア層や寄生階級への税金はむしろ一貫して軽減されてきたし、今後も軽減が約束されるのである――、“大衆課税”として悪名の高い、消費税によるものでしかないのである。賃金労働者や低所得者層の負担を実際的に大きくし、その生活を追いつめ、破綻させる“逆累進課税”の強化である。

 公共事業を削るとか、道路特定財源の一般財源化を断固として実行し、それによって社会保障を充実させるといったことは事実上棚上げされている。社会保障は労働者人民のためのものだ、だから消費税でやるのは当然だ、くらいにしか彼らは考えていないのである。

 要するに、労働者人民から一層大規模に、徹底的に収奪するなら、国の財政は好転する、「財政再建」も可能になるということでしかない。

 消費税の導入こそ「財政再建」である、などという主張は途方もなく厚かましいものである。政治家やブルジョアたちが国庫にたかり、浪費に走ることで作り出してきた膨大な借金を、なぜ“国民”が、つまり労働者人民が負担し、清算してやらなくてはならないのか。全く冗談ではない。

 政治家やブルジョアたちは“自己責任”を盛んに言うのだから、彼らは自分の責任や負担で借金を一掃すべきであって、借りるときは自分の権力や特権の保持のために借り――つまり選挙や人気を意識し、そのために財政膨張や“バラマキ”政策に走り――、返すのは労働者人民だ、消費税だなどということが許されるはずもない。

 福田改造内閣は、一方で「財政再建」を謳いながら、他方で、選挙を意識して、ありとあらゆる“人気取り”のための支出を拡大し、この面で、「財政再建」などを全く空語に変えようとしている。

 しかも、物価上昇などに対する救済策は、「中小企業や農林水産業への支援が柱になる」と言うのである。なぜ労働者は除外されるのか、考慮の外に置かれるのか。

 政府自民党は国家財政を、それは福田内閣の“経済政策”が、もっぱら選挙で有利になるためにのみ、自らの支持基盤を固めるためにのみ、つまり事実上の買収費としてのみ、悪用しようとしている。

 彼らは漁業者の圧力を受けて、すでに七四五億円もの「原油高対策」を大急ぎで決めており、またこれからも似たようなものを次々と持ち出している。まさに「バラマキ」政策のオンパレードである。

 彼らは口を開くと「バラマキ政策はしないが」と言うが、しかしやっていること、やろうとしていることは「バラマキ政策」以外ではないのだから、彼らの厚かましさと破廉恥さには限度がないと言うべきであろう。

 だからこそ、消費税率の大幅な引き上げが必要だ、というのであろうか。つまり「バラマキ」政治の復活で国家財政がさらに破綻していくなら、国民も結局は消費税増税を受け入れる以外ないだろう、だから、いくらでも財政を膨張させても問題はない、というわけである。

 政治家たちが国家に寄生し、それを食い物にするに比例して、国民の負担が増大するという、小泉以前の自民党政治への公然たる復帰である。

 今や福田内閣と自民党は、財政再建を口にしながら、歳出削減にはどんな努力も払おうとせず、反対に、選挙に勝つためとばかりにひたすらバラマキ路線に傾斜し、財政支出の膨張を容認しようとするのである。福田も新大臣たちも、財政の膨張に、「必要なら仕方ない」とばかりに傍観を決め込んでいる。かくしてすでに破産している国家財政の状況はさらに悪化する以外ないが、彼らは一向に心配する気配もない。「政権維持だけが問題だ、国家などどうなろうと構ったことではない」のである。

 要するに、福田内閣の「財政再建」のスローガンはまっ赤ないつわりであり、空文句である。

 伊吹は「バラマキはしないが、やるべきことはする」と言うが、これは実際にはバラマキをひたすらやるという宣言である。福田も伊吹の言葉に、「いずれにせよ、選挙に勝たなくてはならないから」と応じている。

 福田は内閣改造後の最初の記者会見で、「石油価格の異常な高騰により深刻な影響を受けている方々への緊急対策を着実に実行する」、「機動的な経済運営を行っていく」と発言したが、同じ意味である。

 そして新閣僚たちは声をそろえて、“景気対策”や、農業、中小企業への緊急の支援を強調した。一般財源でだめなら補正予算でやればいい、カネなどどこからでも出てくる、とうそぶくのである、つまり選挙のためにカネをどんどんばらまこう、後のことは後のことだ(「後は野となれ山となれ」)、選挙で負けたらすべてが失われ、元も子もなくなるのだ、手段を選ばずやらなければならない、というのである。まさに、無原則と破廉恥と無政府主義が大手を振ってまかり通っている。

 福田は「安心プラン」といったものを持ち出したが、不安定雇用、失業、低賃金、物価上昇が労働者を次々と襲い、その生活を破壊し、また年金不安、医療不安が加わるのだから、そんなものが気休め以上を出ないことは自明であろう。福田は小手先細工がすでに通用しなくなっていることを知らないのであろうか。

 福田が、あれこれの小手先の対症療法をこせこせとやって、支持率が上昇するなどと考えているとするなら、それは途方もない思い違いというものであり、彼がいかに現実の情勢を理解していないかを、つまり政治家としてどんなに無能な存在であり、失格であるかを教えるだけであろう。

 彼らは一一年度までに「プライマリーバランス」(“基礎的財政収支”の黒字化)を達成すると、ここ数年(小泉内閣以来)、国民に約束してきた。どんなに矮小なものではあっても、これこそ彼らの「財政再建」路線の前進と成果を象徴する公約でもあった。

 プライマリーバランスの回復とは、国債費――政府の借金である国債の償却と利子の費用――を除いて、その年の「政策にかかる経費を新たな借金なしにまかなうかどうかを示す指標」と説明されている。つまり「借金関係はさておいて」、実際の収入と支出の均衡を実現するというものである。

 しかし今では、それは実現不可能であって、実際には四兆円もの不足が出る、と盛んに言われ始めている。そんな指標にこだわることはない、さっさと放棄してしかるべきだ、というのである。

 しかしこれは政府の公約であり、それは“誠実に”実行されなくてはならず、また実行されなければその責任が明らかにされなくてはならないはずである。新しく財務相になった伊吹は、「プライマリーバランス」について、こんな風に語っている。

 「一度決めたことだから目標は維持していくが、非常に難しいのは確かだ。ただ、福田首相の『消費税(増税)を2、3年で考える』との言葉は示唆的だ。選挙も終っているし、平成23年度にも間に合う。財政規律を守りながら、一年一年のことを誠実にやる」(産経新聞八月五日)

 「選挙も終っているし」とは、言いえて妙である。今は消費税増税の実施は言えないとしても、「選挙が終わ」ればいくらでも実行できる、というのである。

 伊吹はここではっきり語っている、つまり「プライマリーバランス」の達成は難しいがやりとげる、しかしそれは大幅な消費税増税を行うことが前提である、と。

 しかしそもそも「プライマリーバランス」の回復は消費税増税とは別に、国と政府と政治家の自助努力によって、財政のむだをなくし、“小さい政府”を実現することによって実現すると、国民に公約してきたのではなかったのか。消費税増税でやるというなら、こんな目標を掲げること自体無意味だったのである。伊吹の言っていることは根本的にごまかしであり、政府自民党の責任を回避するものであろう。

 もともとこの公約自体が矮小であって、しかも借金が増えないかに言うのは(「新たな借金はしない」云々)ペテンであった、というのは、その場合でさえ、国債利子の支払いのためには、「新たな」借金をする以外ないからである。

 というのは、この政策で言う「政策にかかる費用」の中には、利子費用は含まれていないからである。国債そのもの(借金の元本)なら、それを「借り替え」て行くことができ、たしかにここでは新しい借金は生じない、しかし利子の支払いは別であって、そのためには「新しい」借金をする以外ないのである(「政策にかかる費用」に繰りこまれていないのだから)。

 だから、仮に「基礎的財政収支」が均衡したとしても(それまでの借金を一円も減らさないばかりではない)、利子の支払い分だけ、借金は(毎年毎年、十兆円等々の規模で)ふくれ上がって行くのであり、行かざるをえないのである。

 だから「プライマリーバランス」の回復という目標自体、「財政再建」といったこととはほとんど関係がなかったのであり、当初は、小泉内閣も「とりあえず」ということで、こうした目標を提起したにすぎず、さらに徹底した「財政再建」の単なる出発点としての意義しか持ちえなかったのである。

 ところが、今や福田改造内閣は、こうした矮小な「財政再建」策、ほとんど改革の名に値しないような公約さえも重荷に感じ、反故にするというのである。

 むしろ労働者は、金融資本や金持ちたちが保有する国債をすべて無効にして、国の財政負担を清算せよと要求するだろう。

 少なくとも、十兆円もの国債利子は凍結すべきであろう。金融資本や大量の国債を保有する金持ちたち、ブルジョアたちは、すでに政治家たちとともに、国庫にたかり、国庫をさんざんに食い物にしてきたのであり、十二分に「元を取っている」のである。

 実際、自民党の政治家たちの議員としての地位と権力のために膨張させられてきた国家財政や、国家の借金に寄生して、すでに十分に利益をむさぼってきた金融資本やブルジョア層の保有する国債などを一切切り捨てて悪い理由など、すでにない。少なくとも、国債の利払いをただちに停止すべきであろう。

 そうすれば、たちまち十兆円、二十兆円の余裕が国家財政に生まれ、“国民”が納めた税金が、金融資本や金持ちの手に流れるのではなく、いくらかでも“国民”のために支出されることが可能になる。

 福田内閣は、「構造改革」や「財政再建」を空語に変えつつ、バラマキ政治によって、そして結局は消費税増税によって、政治のつじつまを合わせ、当面の危機を乗り切ろうとしているが、もちろんこうした政治はかつての自民党政治への回帰であり、福田内閣の敗北を避けられないものにするだろう。

 矛盾の根源には全く手を触れることなく、小手先だけで問題を解決できると思っているところに、福田の甘さが現われている。例えば、社会保障費の“自然増”を二千二百億円削減しながら、他方では、来年度予算には三千三百億円の「特別枠」を設け、支出(選挙目当ての、つまり“バラマキ”用の)を増やすというのである。

 そしてこうした矛盾した、姑息なやり方でもって、一方では財政再建政策を推進し、他方では、「安心実現」を実行すると、“国民”をも自分をもあざむくのであり、あざむくことができるのである。

 新内閣の顔ぶれを見ても、福田内閣のこの“志向”は明白である、にもかかわらず、彼らは自らの路線を断固として、具体的な課題として、政策として打ち出すことができないで、ただその「議論を深める」等々と言うだけである。

 もし本当に財政再建のために、社会保障のために消費税増税しかないというなら、正々堂々と“国民”に訴えて選挙をやり、支持を得るべきであろう。福田内閣が万が一にも勝利するには、それ以外に道はないように思われる、しかし福田内閣は自らのこの“信念”を――“国民”にとって、その「生活安定」にとって正しいという政策を――国民に訴えることができないのであり、訴えようともしないのである。

 しかしなぜ、労働者人民は社会保障を充実させて、彼らの生活を「安定」させる政策だというのに、強烈に反発するのか。

 言うまでもなく、消費税増税の政策が骨のずいまでブルジョアや金持ちたちの利己主義的政策だからであり、労働者人民にのみ犠牲を強いる政策だからである。

 この政策は“心やましき”政策であり、自らその正当性をあやふやにしているからである。

 自分たちの国家の費用だというのに、ブルジョアたちは法人所得や高所得への課税に一貫して抵抗し、法人税減税や、所得税の累進制の緩和――高所得者優遇策――にうつつをぬかしてきたのである。

 もしブルジョアや金持ちや政府自民党が、まず「自ら姿勢を正し」、自分たちへの増税から始めたなら、そしてその後に消費税増税を謳ったなら、労働者人民の反発もいくらかは弱まったかもしれない、しかし彼らは自分たちにはさっさと減税をやりながら、“大衆課税”の消費税率だけはいくらでも引き上げるというのだから、そんな利己主義に、労働者人民が反発し、怒りに燃えて立ち上がるのは当然というものであろう。

 福田内閣が消費税増税のみが財政再建のかぎだと言いながら、それを実行に移すことが出来ないのは、彼ら自身がやましい観念に取り付かれているから、本当の信念を欠いているからである。彼らは労働者人民の強烈な反発を恐れなくてはならない十分な理由を持っているからである。

 自民党の政治は完全に行き詰まっており、すでに“国民”から完全に愛想をつかされている。彼らは三年前の小泉選挙で大勝したことをもって、「民意の支持を得ている」と言い張り、新しい総選挙から逃げてきたが、このこと自体が、彼らがどんなに自信を喪失し、「民意」が自分たちから離れ去ってしまったことを自覚しているかを教えている。

 安倍内閣も福田内閣もともに選挙を恐れること蛇蠍の如くであって、できるだけ引き延ばすことだけに汲々としてきた。選挙をすれば、確実に負けると分かっているのである。

 にもかかわらず、福田内閣は、状況を切り開いていく展望も政策も示すことができなかった。まるでへびににらまれたカエルのように麻痺状態におちいり、身動きさえできないのである。古い自民党に戻って選挙で支持されるとは思われないのだが(そんな自信もないのだが)、そこに帰って行くしかないのである。

 彼らは安倍内閣が参院選で大敗北をこうむったのは、小泉改革路線のためであり、古い自民党が“壊された”せいだと総括したが、その結果として、小泉以前の自民党に戻るしかなく、“族議員”のヘゲモニーが復活し、“バラマキ”政治が大手を振ってまかり通ることになったのである。

 敗北するとわかりきっている路線にしがみつく以外ないところに、自民党政治の命が完全に消えかけていることが暴露されている。麻生を取り込めば選挙で有利だなどといった浅知恵を働かせることしかできないのだから、福田の、そして自民党の命脈は尽きたも同然である。麻生が仮に「アキバ」で空っぽの人気があろうと、それは“国民的な人気”といったものとは全く別であろう。安倍は没落したのに、麻生には人気が集まる、などというのは幻想でしかない。

 福田改造内閣の本性は、一方における「財政再建」派(つまり消費税増税派)を置き、他方に、財政膨張派の保利政調会長等を据えてみれば明瞭に見えてくるだろう。

 つまり、財政再建などは建前にして、選挙で勝つために無節操、無原則にカネをバラまき、それでもって一層財政破綻が深化していくなら、消費税増税(露骨で厚かましい大衆課税だ)をやればいいといった、その場かぎりの、最も無責任で、寄生的で、収奪的で、破廉恥な路線である。

 最近、自民党内部には、“財政再建”について二つの路線の対立があった、すなわち小泉“構造改革”路線の延長に立つ「上げ潮」路線――あくまで“構造改革”を推し進め、“小さな”政府を実現し、「経済成長」を勝ち取ることで、財政再建につなげようする、中川秀直に代表される路線――と、与謝野や伊吹らに代表される「財政再建派」路線――これは要するに消費税増税によって端的に財政再建を実現しようという路線――の対立である。

 そして福田は、前者を切り捨て、後者を優遇することによって、自らの立場を明確にしたのだが、しかしだからといって、ただちに消費税増税を実行に移そうというのではない。そんなことをしたら、ただでさえ苦戦が予想される総選挙で大敗するのは確実である。

 しかし自らが信奉する決定的な政策を封印して選挙戦をやるというのだから、ただこのことだけでも、福田内閣が勝利から見放されていることは明らかであろう。こんな勢力は自らを鼓舞することも勇気をもって闘うこともできず、意気消沈するしかないのである。自らが信奉する政策を封印するなら、どんな断固とした、一貫した闘いも行うことができず、まして勝利することなど夢のまた夢であろう。

 中川は福田路線では自民党は勝てないと予感して、自らのホームページで次のように主張する。

 「2005年の小泉自民党のように、党分裂覚悟で改革の旗を掲げない限り、選挙には勝利できない。郵政民営化の見直しの動きが色々な所にあるようだが、わが党でも見直しの動きが出てくるかは注視したい」

 自民党が“古い”自民党に戻って、選挙で勝つことはできないという中川の判断は正しいだろう。

 小泉が三年前に大勝したのは、とにもかくにも小泉が“古い”自民党の破壊を呼びかけ、「改革」(ひどいインチキ改革であったにせよ)を謳ったからであって、安倍内閣、福田内閣が停滞し、“国民”の支持をますます失って行ったのは、これらの内閣が“古い”自民党を代表しているとみられたから、小泉政治より後退し、逆戻りしているとみなされたからである。

 そして、福田は小泉のインチキ改革では自民党はじり貧に陥るしかないと結論し、一切の“古い”自民党的なものと妥協し、それと融合した。福田内閣は“構造改革”を一切棚上げし、バラマキ政治を公然と復活させ、また消費税増税さえ実現すれば「財政再建」を始め、「福祉」問題などすべての国の困難が解消するかの幻想に後戻りした。消費税増税でなければ、借金財政で行くしかないというところに行き着くのも「時間の問題」かもしれない。

 国家に寄生するだけの“バラマキ政治”も保護主義も今は公然と“復活”し、族議員たちもみな大手を振って闊歩しつつある。

 麻生幹事長の実現に代表されるように、安倍内閣の挫折によって深刻な打撃をうけた反動政治家たち、国家主義の悪党たちも“復権”をとげつつある。

 改造内閣はどんな魅力も持っていない、というのは、単に“古い”自民党に先祖返りしただけだからである。彼らは小泉“改革”を経て一回りし、元の自民党に帰ったし、帰らざるをえなかったのである。彼らは昨年の安倍の敗北を、小泉“改革”のせいだと誤って総括し、その結果として、“古色蒼然”とした自民党路線に復帰したのだが、そんなものはすでに“国民”からすっかり見捨てられていることを理解できないのである(あるいは理解できても他の道を知らないのである)。

 彼らは農民や漁民、中小企業の支援は口にするが、労働者については「補償」とか「緊急支援」について語らず、まさにその階級的本性を暴露している。彼らは急激な物価上昇によって、どんなに労働者の賃金や貯金、年金などが目減りし、労働者の生活がたちまち悪化して行こうと知ったかぎりではないのである。

 福田内閣はますます“古い”自民党へと回帰し、狭い、“うち向きの”政治に閉じこもるのであり、それでもって選挙に勝てると思い込むことができるのであるが、それほどに愚劣な思い違いはないのである。

 かくして、徹底的に反動化し、完璧に行き詰まった福田改造内閣の行く末は明らかである、すなわち労働者人民の総反撃を受けて敗北し、打倒されるしかないのである。

 問題はすでに、その後に何が来るのか、である。

 最後に一つだけ言っておくと、民主党は七月、原油価格の高騰を受けて、総額二兆七千億円の「緊急経済対策」を策定したが、こんなものは、政府自民党とバラマキ政治で競い合おうということでしかなく、客観的には自民党政治の補完の役割を果たし、その政治の延命に手を貸すという意義しか持ちえないのである。

 参院選で小沢が、農民保護で自民党と競い合ったと同様な政治、自民党の政治をまね、その枠内で張り合おうというこでしかない。民主党が勝とうが負けようが、労働者にはどんな関係もない。労働者の政治は民主党とは(そして共産党や社民党とも)全く別個のところで始まらなくてはならないのである。


七年越しのWTO交渉の決裂
再び世界の分裂と抗争の時代か

 自由貿易の深化を目指した、七年越しのWTO交渉が決裂した。

 農業関係者らはホッとしているが、しかしこの決裂が日本にとって――日本の労働者にとって――利益だと言うことはできない、というのは、これは自由貿易主義が敗北し、保護主義の論理がまかり通ったということだからである。

 決裂の直接のきっかけは、インドと米国が、農産物の特別緊急輸入制限の発動条件で対立し、妥協が不可能になったことにあるが、それ以外にも、参加国間には多くの利害対立があり、インドと米国のこの対立が、それを集約し、象徴したとも言える。

 世界中の諸国家は、建前は自由貿易やグローバリズムを唱えながら、国家的利己主義や自国優先主義を徐々に強めており、経済的危機が深化して行けば、こうした傾向が一挙に強まりかねないことを示唆したともいえる。

 日本もまた矮小な農業保護主義に固執して孤立し、どんなヘゲモニーも発揮できず、守勢的姿勢に終始した。世界のブルジョア諸国家にはびこる頽廃的傾向を代表したとも言える。

 日本は米国やオーストラリアなどと、農産物の関税問題で対立し、輸入関税の引下げを要求され、飲まされたのだが、WTO交渉の決裂で安堵の溜息をもらすことになったのである。

 しかしそれが“国益”につながったかとなると疑問であって、むしろ“国益”を大きく損なったと言った方がはるかに正しい。

 というのは、まず第一に、そのことによって安価な外国の農産物の消費を自ら諦めたからであり、第二に、国内の農業の「構造改革」を、つまり大規模農業に移行するきっかけをまたまたなくしたからであり、さらに最後に、より安価に工業製品を外国、とりわけ高関税で自国産業を防衛している発展途上国により多く売り込むことができなくなったからである。

 実際、農業関係者が決裂に大喜びしているのに反して、電機資本や自動車資本は大きな失望を味わっている。自動車資本などは、例えば、インドやブラジルに自動車が輸出できるなら、農業で妥協するなど重大事では全くなく、農業への打撃――実際の、あるいはむしろ空想上の――を補って、さらにおつりがくると考えるのである。

 というのは、自動車はインドでは六〇%、ブラジルは三五%等々の高い輸入関税が課せられ、輸出がひどく制約されているからである。これらの国家が関税を大きく引き下げるなら、停滞する米国市場に代わって新しい市場が期待できるというわけである。

 農業保護主義はまた、日本の農業の停滞と衰退の原因ともなってきた。保護主義のために――とりわけコメなどのごく一部の農産物への徹底した保護主義のために――、日本の農業は全くゆがんだ、偏頗(へんぱ)なものになってきたのである。大規模な農業が展開されたなら、コメの生産は世界に対抗できるコストで、十分に自給できる産業に育ったであろう。平野部だけで国内の需要を満たすことができ、休耕田などといった奇妙で、不合理なものの存在する余地はなかったであろう。山間地の狭隘な土地で無理をしてコメを作る必要もなく、それらは他の用途にいくらでも利用されたであろう。

 そして日本の工業もまた一層合理的に再組織、再編成され、一層安いコストで世界中に輸出されたであろうし、労働者に対する搾取もその分緩和されたであろう。

 労働者は保護主義か、自由貿易かと問われるなら、つねに一貫して、自由貿易主義に味方してきたのであって、それは、自由貿易が一層資本主義的発展を、つまり生産力と社会一般の前進を保障するからであり、その分、社会主義の実現への接近だからである。

 直接的にも、自由貿易によって、労働者階級はより安価な工業製品や食料品を手にすることができるのであって、それはまた搾取の実際的な緩和を意味し、労働者の生活に一つの余裕をもたらすことができるのである。

 だから、労働者にとって、長期にわたって延々と続けられてきたWTOの交渉が土壇場になって決裂したということは決してどうでもいいことではない。WTOは、二国間の貿易協定等々――これは本質的に国家利己主義の一つの現れでしかなく、WTOとは全く別個のものである――といったものによって代替され得るものではない。

 かつて第二次世界大戦後、WTOの前身であったガットの自由貿易主義と、それにもとづく国際的交渉や合意は、平和で繁栄する戦後世界の象徴として、明るい希望の的となることができた。

 しかし今や、“先進国”にインドや中国やブラジル等々が加わり、世界中の国家の利害関係は一層複雑で錯綜したものとなり、世界的な“合意”の形成は一層困難になったかに見える。

 それに加えて、米国の“指導力”、覇権力もとみに低下し、世界は分裂傾向を強めている。

 しかし世界的な規模の自由貿易が停滞し、保護主義や“地域主義”、ブロック経済等々がはびこることは、世界人類にとって少しも好ましいことではない。

 我々はすでに一九三〇年代、似たようなブルジョア世界の分裂と国家的利己主義と戦争の時代を経験しているのである。

 労働者はいつの時代にあっても国際主義者であり、民族主義や国家主義に対する一貫した、頑強な反対者であった。

 もちろん、労働者階級はブルジョア的“国際主義”、つまりグローバリズム等々を決して支持せず、その自由主義的欺瞞と限界を暴露するのだが、しかしまた民族主義や“地域主義”や国家主義等々の高まりに対して常に警戒を怠らず、その危険性、その反動性を明白に指摘し、闘うのである。

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