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●1081号2008年11月2日
【一面トップ】暴走する国家の無政府主義 暴走する国家の無政府主義 欧米とは違うと、不安を押し隠しながらも、悠然と構えていた日本のブルジョアや政府は、今やあれこれの“緊急の”経済対策を打ち出すに懸命である(それを謳っていれば、解散を後送りすることができ、麻生もいくらかでも長く首相の地位にとどまっていることができる、という思惑もある)。かくして、経済対策だ、その追加だ、と大騒ぎだが、しかしそれらは実際に“効果”があるのか、また仮にいくらかあるとして、本当に日本の社会全体にとって利益があり、いいことなのか。わずかな“効果”とともに、それに何倍もするデメリットをもたらさないのか。我々は彼らの「経済対策」なるものを検討することで、それらの愚劣さと、露骨な階級性と、そしてまた麻生政権の本性をも明らかにしなくてはならない。 何よりも目立つのは、「追加経済政策」の矮小性と能天気ぶりである。 それは、「公的資金の投入」であり、二兆円の「定額減税」であり、証券優遇税制の延長であり、公共事業の拡大である。 さらにそれらに加えて、日銀による銀行保有株の買い取り再開や、これまで必要ないとしてきた証券化商品についての時価会計の「緩和」や、自己資本比率規制の見直しである。 また、政府機関が保有する株売却の凍結、自社株買いの規制緩和、カラ売り規制の強化等々大騒ぎである。 こうした政策は、中川(昭一)が「あらゆる対応策を検討していく」と言う言葉とは裏腹に、小手先の対応策であって、深化する危機に対してほとんど意義を持ちえないようなものばかりである。つまり日本のブルジョアも政府も、現在の危機なら、こんなもので何とかなるだろうと“楽観”しているかに見える。 「公的資金の投入」といっても、政府が想定しているのは、主として“地域金融”機関(「対象」は、信金中央金庫、信用協同組合、労働金庫、それに農林中金)に対してであって、大銀行は当面“危険”ではない、と請け合っている。彼らは、日本は証券化商品の被害は浅い、日本の大銀行は相対的に安定している、と甘く考えているのだが、その判断が正しいかどうかはすぐに明らかになるであろう。 そしてこの「公的資金の投入」も、金融機関の貸し出し計画が不十分でも「経営責任」は問わず、中小の金融機関の再編も促さないと言うのだから、証券化商品に手を出すなどして傷を大きくし、破綻しつつある現存の中小金融機関を救済し、温存するという役割以外は持っていないのである。 多くの中小の金融機関、“地域金融”機関が破綻したら、“地域”経済が持たない、というのが政府の言い分であるが、しかし、“地域”経済に「ファイナンシャルする(カネを貸す)」、他の金融機関――大銀行等々――はいくらでもあるだろうから――もし“需要”があるなら――、こうした理屈はこじつけでしかなく、本当の目的は別であると言わざるを得ない。 そしてまた、地方銀行に「公的資金の投入」をやったからといって、その貸し出しが増えて、“地方”経済がうるおう、といったことにはならない。事実、中小企業への「公的資金の投入」を謳い、今年の三月まで施行されてきた「金融機能強化法」は、二兆円のカネを準備したが、わずか二件、四百億円が利用されたにすぎない。まさにお笑いとしか言いようがないような、無意味な法律だったのである。 政府はそれを再び復活して、金融危機に備えようというのだが、最初の失敗が繰り返されないという保証は何もない。 いくら銀行にカネを貸す余裕ができたからと言って、それが中小企業への貸し出し増に結び付く、ということには必ずしもならないのである。というのは、銀行が中小企業にカネを貸して返って来ない、つまり焦げついて不良債権化する恐れがあるなら、銀行は簡単にカネを貸さないだろうからである。倒産の恐れのある中小企業が、いくら銀行の“貸し渋り”に文句を言ってもむだである、というのは、銀行もまた儲けのために経営しているのであって、人助けのために金貸しをやっているわけではないからである。 銀行はいくら「公的資金を投入」されたからといって、不良債権になるのが明々白々なカネを貸すはずもないし、貸さないだろう。それとも、不良債権が増えても当面は仕方ない、石原の新銀行東京がやったように、相手かまわず貸し付けよ、と言うのか。しかし、そんなことをすれば、今度は銀行が持たないことは、石原銀行の例を見ても余りに明らかである。 だから、銀行に「公的資金の投入」をすれば、銀行貸し出しが増え、危機にある中小企業が救われるなどと単純に考えること自体がばかげており、幻想であろう。経済全体が過剰生産で苦しんでいることを忘れて、こんな小手先細工で、中小企業を救えるなどと考えているところに、政府自民党や金融庁の官僚たちの愚昧さが暴露されている。 今度の法案は、地域金融機関の「再編成」を条件とはしない、経営の責任も追及しないとわざわざ断わっている、つまりこれは、この法律が露骨な中小銀行の救済策であり、あからさまにいえば、政府自民党の選挙対策の一つにすぎないことを暴露している。農林中金にまで「公的資金の投入」を謳ったことは、政府自民党の意図を教えている。 政府自民党はこれまで散々、地域金融機関の“体質”が問題だ、それを強化しなくてはならないと言ってきた、にもかかわらず、どさくさに紛れて、こんな法律を出して恥じないのである。 ここには本質的な問題がある、つまり政府自民党がやっている救済策や公的資金の投入や財政支出の膨張は、ただその場かぎりの救済策、もしくは選挙対策であって、日本経済の“強化”や“健全化”には何の役にも立たないものであること、そればかりか、“不健全で”、“非効率な”企業や銀行、“放漫経営”、無責任経営で失敗したような企業や銀行をいくらでも温存し、禍根をのちに繰り延べし、温存しているにすぎないということ、さらには「小さい政府」の最近の決まり文句も投げ捨てて、国家自体の破綻と瓦解さえも準備するものである、ということである。 そして最新のニュースによれば、政府はこのカネを二兆円ではなく十兆円に増やすという。これまでたった四百億円しか利用されなくて、二兆円でも多いと散々にいわれてきたというのに、である。四百億円の“需要”に対して、十兆円! とにかく名目だけでも潤沢にすれば、“市場”が安心して、金融危機もいくらか緩和されるかもしれない、というわけである。まるで子供だましである。 また、今年で廃止が決まっていた、証券優遇税制――本来なら、二〇%である、株式の譲渡益(いわゆる“キャピタル・ゲイン”)や配当への課税率を、半分の一〇%にする減税措置、〇三年から「株価対策」として行われ、金持ち優遇税制と呼ばれてきた、悪名高いもの――を大幅に延長することを謳っている。つまり、株の売買や配当から得られる、金持ちや企業の儲けに対して、本来なら二〇%の税金を、一〇%にまけてやる“優遇”をさらに続けようというのである。余りに露骨な階級的政策と言わざるをえない。 そして問題の本質――株を大量に持ち、売買して儲けている「金持ちを優遇」し、また株価を引き上げて大企業を助けるという、この措置の階級的本質――をごまかすために、政府や金融庁は、すでに五百万以下の譲渡益、百万円以下の配当には、この優遇措置の二年延長を決めていたが、さらに、「高齢者」にも、同じ条件の場合、税金をゼロにするとか、一定の投資額以下の「小口投資家」には、十年間、配当金課税をゼロにするとかいったことまで言い始めている。つまり減税継続は、少額の投資家や「高齢者」のための措置だと見せ掛けようというのである。 高齢者への優遇策の拡大などやったところで、普通の高齢者の株式投資が増大するはずもないのである。だから、これは実際には金持ち「高齢者」への優遇でしかないのである。 今株が暴落しているのは、政府や金融庁が、例えば、こうした証券優遇税制などによって、小金を持つプチブルや、「金融資産」をたっぷり持つ「高齢者」の“貨幣資本”を証券市場に動員あるいは誘導し、株価を人為的に引き上げてきたことの結果でもある、とするなら、証券優遇税制をただちに廃止することこそが必要であり、正当であるように思われる、だが、政府や金融庁は反対であり、株価が崩落していく今こそ、それが必要であり、優遇はさらに継続され、拡大されなくてはならないと信じるのである。 もし優遇措置にもかかわらず、個人投資家たちが証券市場から逃げ出したとしたなら(実際いま、それは滔々たるすう勢になっているのだが)、そんな制度をいくらか継続することによって、彼らを引き戻すことができると考えるとは、麻生内閣や金融庁などはまた何という愚昧な連中であることか。 日銀による銀行保有株の買い取りとか、カラ売り規制とかも同じようなものであろう。 日銀や国家が、“価格”を急落させた株を買うにしても、どんな価格で買うかという問題が常につきまとうのであって、安ければ銀行は売らないだろうし、高く買えば、国が、つまり税金を払う国民が損失を負担することになる。 そしてまたここには、国家機構が大銀行の保有株を大量に買って、“民間”の企業を救済するなどといったことが、“市場経済”で行われていいのか、許されるのかという大問題がある。 またカラ売りを規制するなら、バブルの時期にこそ行われるべきであって、すでにバブルがはじけた時点でやっても大した意味もなく、かえって株価を押し下げる、一つの契機にさえなりかねないだろう。つまり政府のやることなすことの多くは、みな時宜を失しているのであり、ばかげているのである。 また彼らは、日本は欧米ほど危機が深化していないとして、これまで無関心を装ってきた、時価会計方式を廃止もしくは緩和も実行に移すと言い始めている。 言うまでもなく、債権(例えば、「証券化商品」)などの「時価」が崩落していくなら、それを保有する金融機関や企業は、たちまち「資産」の価値を減らして破綻に直面せざるを得ない。そして保有有価証券の評価額が減れば、銀行は損失を計上しなければならず、損失を計上すれば自己資本が減り、貸し出しが制限される、つまり「貸し渋り」がはびこることになる。 かくして、有価証券を「時価」でなく「簿価」等々で評価するという方式に逆戻りせよ、というのである。仮に「簿価」で評価ということでないにしても、「時価」でなくていいということになれば、銀行は有価証券の減価をいくらでもごまかすことができ、バランスシートに損失を計上しなくて済む、というわけである。 銀行は証券化商品の価格暴落で、買ったときの「価格」の一割、二割の「時価」になっている――事実、最近、ある金融資本は証券化商品を買価の二割の価格で売ったというから、現時点では、それ位が、あるいはそれ以下が「時価」であろうか――が、それを会計処理をしたら大きな損失にしなくてはならない、せめて六割くらいで「評価」することにしよう――というのは、簿価の五割以上なら、損失として計上しなくてすむから――、そうすれば破綻をごまかすことができる、というのである。 つまり時価で評価しないというのは、金融資本の危機の実体を隠そうということでしかないのであって、危機そのものをなくすということとは全く無関係なのである。 つまりブルジョア諸君の知恵は、せいぜい、実際の損失を隠し、小さく見せ掛けることが、「経済対策」であり、恐慌と戦う手段だというのだからお笑いである。 また、危機に対応するための国のカネがない、借金(国債)を増やすことはできない(そんなことをしたら、バラまき批判が一層強まる)、借金ではなくて、「埋蔵金」を利用しようと言い出している。外為特別会計にある運用益や金利変動準備金を三兆円ほど転用しようというのである。 しかしこんなことは途方もないことで、許されざることである。 まず外為特会に運用益などが出た場合、それは国債の償却に利用することが法律で決まっていて、政府の一存でできることではない。 そもそも外為特会に積み立てられている余剰金など(二十兆円近くある)は、百兆円ほどの外貨準備金にドル安などで生じる「評価損」(目減り)をカバーするためでもあり、しかも今やドル安が急速に進んで、このカネの意義と必要性が確認されるのである(ドル安で一ドル=九十九円になると、この二十兆円がふっ飛ぶという)。 何よりも麻生内閣や自民党がばかげているのは、仮に外為特会から三兆円くすねてきたとしても、それが国債を発行する(借金をする)ことと、事実上、何も変わらないことを自覚していない――あるいは自覚していても、知らん顔をしている――ことである。 実際、この外為特会の“余剰金”の三兆円を国債(借金)の償却にあて、他方、国が新しく国債を三兆円発行することと、三兆円を外為特会から直接にくすねてくることとは、国家の国債発行(借金)残高が同じで、しかも国家が三兆円のカネを手にするという点で、事実上同じことである。 それを違うかに見せかけ、何か借金を増やさないかに言うのは、小手先の欺瞞でしかない。政府は国に対する借金を増やさない代わりに、外為特会に事実上債務を負うのだが、その三兆円は実際には、国の借金返済に当てられるはずのものなのである。 つまり、政府は、国家機関(外為特会)が国の債務を減らすために準備した金を、横からくすね、流用するのであり、そうしておいて、「だから政府は借金をしなかった、つまり、国の債務を増やさなかった」と言うのである。しかし、外為特会がその三兆円を国債償却にあて、他方、政府が三兆円の借金をして国債をそれだけ増やしても、差し引きはゼロであり、同じことであることを、彼らは隠しているのである。 最後に、公明党が強く主張した二兆円の「定額減税」であるが、しかし財政が危機のまっただ中にあり、巨額の国債の発行が必要だ、消費税増税をしなくてはどうしようもないと言われているときに、なぜいまさら「減税」なのか。景気にプラスである、というのが理由であるが、しかしこれまでも、こうした減税が景気を上昇させたなどという明白な証拠や「因果関係」はどこにもないのであって、これもまた、公明党の露骨な選挙対策でしかないのである。 彼らは選挙を目前にして、彼らの支持者に“手柄”や、自民党と組み、与党の地位にありついてきた“利益”を示さなくてはならないのである、自民党と連合して、その反動政治を支えてきたことに対して、そうした“悪事”や“犯罪”に対して、それをごまかすための“成果”を、公明党を支えるプチブル層に貧弱な、実際的な“獲得物”を提示しなくてはならないのである。 共産党も社民党も同じようなものであって、「貸し渋りをどう防ぐか、その対策が必要だ」(共産党)とか、「バラまきではなく、国民生活を救済する政策が必要だ」(社民党)と言うだけである。笑うべきは、共産党も社民党も、それらが実際には政府自民党や公明党の政策と五十歩百歩であり、連中の政策を助けるものである、ということを自覚していないことである。 教育荒廃をもたらした者 中山が、日教組が日本の教育を破壊し、子供たちをだめにしたと発言して、大臣の地位を棒に振ったが、しかしそれ以降も、反動たちは――自民党の“文教族”のボスの一人でもある森もまた――、日教組こそ日本教育の癌だ、日教組を解体せよとわめいている。 日教組が戦後、勤務評定や道徳教育や日の丸・君が代教育に、さらに全国学力一斉テストに反対し、また「反体制的な自虐史観」――これはつまり、“平和教育”や人権教育等々のことだという――を子供たちに吹き込み、政治的な闘争を繰り広げてきたのが、教育の荒廃を招き、子供たちが道徳心や規範意識をなくして、いじめや凶暴な犯罪に走る原因となった、と彼らは言うのだ。 しかし戦後の教育行政を担い、それを推し進めてきたのは、政府自民党であり、文科省(文部省)だったのだから、現在、教育荒廃が深化しているというなら、その責任はまず政府自民党や文科省こそが負うべきであって、それを日教組や野党に転嫁することなどできるはずもないのである。 日教組は政府の教育政策の多くに反対したかもしれない、しかしそのことと、日本の教育行政をだれが担い、教育を支配して来たかということとは、全く別である。 例えば、昭和三〇年代、日教組が組織的、実践的な力がまだ強かった頃(組織率は当時は八〇%を超えていたが、いまは三〇%を切っている)、確かに政府自民党が強行しようとした、勤評や道徳教育に頑強に反対した、しかし実際には、勤評も道徳教育もこの間ずっと実行に移されてきたのだから、政府自民党や文科省の責任と言うしかないのである。 もし日教組の反対闘争が行われ、勤評や道徳教育が実際に行われず、そして教育荒廃が深化してきたというなら、この二つに因果関係があり得ると言えるかもしれないが、そうではなかったのだから、その原因が日教組やその闘争にないことほどに明瞭なことはない。 むしろ、日教組が道徳教育に反対したことこそが正しかった――というのは、抽象的な道徳訓やきれいごとのお説教によっては、子供たちに本当の「道徳」心を育むことはできないことが明らかにされたのだから――ということを教えているだけである(むしろ政府自民党の連中が、腐敗した悪徳の見本の数々を子供たちに見せないことこそ、最良の道徳教育の一つであろう)。 つまり政府自民党の言う「道徳」云々が、本当の道徳――真の社会性を養い、育てること――とは何の関係もないものであり、結局は民族主義、国家主義、愛国主義を“叩き込む”といったものに堕していくようなインチキ――日の丸・君が代の学校現場での強要によって、このことはすでに余りに明らかであるが――でしかなかった、ということである。 個人主義や利己主義をあおりたてるブルジョア社会を擁護しながら――彼らがどんなに「市場原理主義」や「競争万能主義」や「自己責任」のイデオロギーを振りまいて来たかを思い出せ――、日教組のために、子供たちの個人主義、利己主義がはびこり、「公共心」や道徳心が失われたなどとわめくのも笑止千万であり、“ためにする”卑しい議論であろう。 彼らの言う「公共心」とは、国家や天皇に対する忠誠心、国家主義や“愛国主義”といったものであって、例えば、一九三〇年代、四〇年代の世界戦争の時代に、ドイツ・ナチスや日本の天皇制軍部のファシストたちが信奉していたものである。 確かに当時の青少年少女たちは、軍国主義国家や天皇制国家を絶対的なものと盲信し、そのために「自己を犠牲にしても」奉公しなくてはならないと信じた、しかし彼らは戦後、ほとんど例外もなく、自らの戦争中の“道徳”が間違っており、自分たちのやった戦争が正しくなかったことを確認したのであり、そうした“教育”を押しつけた政府や国家に激しい怒りや恨みを抱いたのである。 なぜ朝鮮人を奴隷にように扱い、中国を武力で侵略して植民地化したのが、正義であり、正当な“道徳”なのか、そんな汚い反動戦争を擁護し、正当化することこそ、まさに卑しい利己主義そのもの――民族や国家の名で美化され、神聖化された“集団的な”利己主義そのもの――ではないか、と悟らざるを得なかったからである。 実際、日教組が“平和教育”、憲法教育、あるいは“民主主義”教育(人権や男女平等等々)を「教えた」からといって、なぜ、それが悪いのか、非難されなくてはならないのか。反動たち、中山や安倍や麻生等は、一体何を考えているのか。彼らは途方もない悪党にしか見えないのである。 敗戦後、日本は軍国主義や国家主義を反省し、その“誤り”を認め、新しい憲法のもとに再出発したが、その根本的確認に基づいて、日教組が教育を行おうとしたなら、それは当然のことではあっても、非難に値しないのは自明であろう――その不十分さや限界については批判できるとしても――、しかし政府自民党の連中の言辞は、一九四五年までの国家主義の教育こそが正しく、戦後の教育は間違っているということであり、またそこに帰着するのである。 彼らは、日教組は日本の教育を荒廃させ、破壊したのだから「反省せよ」、「自己批判せよ」と言いはやしているが、根本的に「反省」し、「自己批判」しなくてはならないのは日教組ではなく、政府自民党であり、文科省である。 日教組はすでに九〇年から「柔軟路線」を公然と掲げ、九五年には「教育界の対立解消」を謳って、政府との“協調路線”に移っており、しかも組織率も今や三〇%以下である、とするなら、そんな“弱体な”組織が日本教育に責任を持つことがますますできなくなっているのは自明であろう。 |
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