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●1080号2008年10月19日
【一面トップ】はびこる「資本注入」幻想 はびこる「資本注入」幻想 金融崩壊がやってきて、資本主義的恐慌が勃発するやいなや、今や、金融機関に「資本を注入せよ」、という大合唱がブルジョアたち――とりわけ「自己責任」を問われるべきブルジョアたち――の中で起こっている。米政府が決めたような、公的資金による単なる不良債権の購入では不十分でラチがあかない、深化していく危機に対して効果がない、金融機関が動きがとれなくなっているのは「資本不足」に陥っているからだ、根本的に危機を解消させるためには、金融資本に「資本」を注入して――必要なら腕づくでも――潤沢にすることだ、というのである。ブルジョアたちが大騒ぎしている「資本注入」とは一体何なのか、そしてそれは本当に現在の金融恐慌に対して有効であり、意義があるのか。それを検証してみよう。 ◆資本注入の大喊声 米国家が七十五兆円もの公的資金を使って金融資本救済に乗り出すと決めたにもかかわらず、恐慌は今や、資本主義社会の全体を包括する、全般的恐慌として深化しつつある。 七十五兆円もの救済資金が無力だと考えられたのは、それが金融資本の保有する「不良債権」の買上げのためとされていたからであって、それでは金融資本にとってあまり利用価値がないとみなされたからである。 つまり、国家が「不良債権」を高く買ってくれるならともかく、「逆入札」――より低い価格で不良債権を売る金融機関から、優先的に買い取る――などのやり方で、徹底的に安く買い叩かれるなら、不良債権を売る理由も動機もなく、それを保持し続けるのであって、七十五兆円のカネも「宝のもちぐされ」ということになりかねない。 もちろん、国が非常な高値で買うなら、金融資本はほくほくで、たちまち生き返ることができるであろうが、しかしそんなことをすれば国民全体の憤激はとめどもなく大きなものとなるだろうし、またただでさえ破綻している国家財政は、したがって国家そのものが崩壊し、解体して行くだろう。「モラルハザード」は世界をおおいつくし、ブルジョア支配は根底から動揺しかねない。 ではその中間の“適正な”値段で買うといっても、そんな値段を知っている人も、決定する人もいるはずもないのである。不良債権はそれがろくに値もつかず、“売ること”ができないからこそ不良債権である。企業はそれを市場価格で、つまり二束三文で国に売れば、企業会計に膨大な損失を計上しなくてはならず、自ら墓穴を掘ることにもなりかねない。 だから、不良債権を山と抱える金融資本も、おいそれと国に売ることができないのであって、そのことを見透かされたからこそ、七十五兆円の救済策の後にも株価は急落し続けたのである。 そして今や、ブルジョア世論は、「もっと徹底的な」やり方で、「危機の根元を断て」とか、早急に「施策を総動員せよ」とわめきたてるのだが、その“心”はただ一つ、「資本注入」を実行せよ、ということである。それのみが、現在の金融恐慌を克服できる唯一絶対の手段であり、救世主である、というわけである。 とりわけ、日本のブルジョア諸君、そして麻生らの空っぽな国家主義の政治家たちは、偉そうに、自慢たらたらに、日本がかつて同じような金融恐慌に陥ったとき、この手段を実行することによってうまく危機から抜け出すことかできたと、世界中のブルジョアたち、とりわけアメリカのブルジョアたちに教えを垂れる十分な資格を持っているとつまらない自負心に、うぬぼれにひたることができるのである(相変わらず、見栄や思い上がりに生きる、矮小な日本のブルジョア諸君であることか)。 日本のブルジョアや、官僚に浅薄な知恵をさずけられた麻生らは、自分たちはこの問題ではベテランであり、よく知っているとうぬぼれるのだが、その知恵というのが、ただ一つ、「公的資金を金融資本に注入せよ」(しかも、できるだけ大規模に、できるだけ断固として、できるだけ迅速に)、それですべてオーケーだといった軽率な思い込みでしかないのである。 麻生は、七日、G7に出発する中川に、日本の「体験」を世界に発信して来い、「日本は資本投入して他国に全然迷惑をかけず(金融危機を)くぐり抜けた。堂々と日本が経験を語れることの一つだ」とはっぱをかけた。 この矮小な国家主義者は、こんなことくらいしか、日本が自慢できることを思い浮かべられなかったのである。彼は、日本は「他国に迷惑」をかけなかったが、アメリカは金融破綻を招き、「世界に迷惑」をかけている(しかも、その解消の努力におたおたして、さらに「迷惑をかけている」)、と言うのであり、かくしてちっぽけな自尊心を満足させるのである。 麻生は、「資本投入以外に、米国の金融の混乱は収まることはない」、「資本投入ということになれば一つの大きな進歩だが、米国が乗って来なかった、どことかの国が乗って来なかったら、さらに混乱する」などと、盛んにアメリカを牽制し、圧力をかけているが、それは、日本でも深化しつつある経済的危機や株価の崩落の責任をもっぱら外国に、アメリカに転嫁することによって、自らの責任や無能、無策を隠し、権力をいくらかでも安泰に保とうという卑しい動機があってのことである。 G7で“合意”すれば、資本の「直接注入」が世界中のブルジョア国家で実行され、そしてそれによって、現在の金融危機が一掃されると日本のブルジョアたち、そして麻生や中川らは言いはやすが、しかし資本注入が一体「なんぼのものや」と労働者は言わなくてはならない。 麻生らは――いやしい意図もあって――、盛んに資本の“直接的な”注入の意義や効用をわめき散らしている、しかしアメリカや他の国々でもそれを嫌い、実行をためらう空気も強い、というのは、それが本当の万能薬とは信じられないからであり、あるいは他の有害な副作用が出かねないと思うからであり、さらには市場原理主義の“信念”をなお信奉するブルジョアたち、バブルに踊った資本家や弱小資本家を救済することにいい気のしないブルジョアたちも多いからである。 しかし資本の勢力は今や世界中で、「資本の直接注入」に向かってしゃにむに進んでいるかである、というのは、ブルジョアたちや政治家たちがその意義とか効果とかを本当に信じるからではなく、他にどんなやり方も知らず、展望も見出せないから、「溺れる者はワラをもつかむ」という心境に追い込まれているからである。 麻生等が、つまらない浅知恵を、欧米のブルジョアたちに伝授し、教えを垂れるのだといい気になっているのを見ると、この連中がいかに世間知らずのお坊ちゃんかを確認せざるをえない。そもそも、資本注入というやり方自体、日本が八、九年前に始めたかに思い違いしているが、それ以前、すでにいくらか違った形ではあれ、アメリカで実行されているのであって(例えば、貯蓄信用組合が広汎に破綻して行ったときなど)、日本はそのまねをしたにすぎない、ということも忘れている。 ◆本当に「資本注入」の成果か 彼らは一九九〇年代以降の金融危機を乗り切ることができたのも、さんざん試行錯誤をした末、このやり方にたどりついたからである、と盲信している。最初は、バブルに踊った資本を、国民の税金を投入して救済することに対する国民の反感も強く、九八年頃は小規模のカネを場当たり的に投入したが、それではらちがあかず、金融庁や日銀がしっかり検査をやり、一部の債務超過の銀行を整理した上で、“健全な”銀行に資本注入して、ついに成功した、いまや欧米の資本はこのやり方をそっくり真似るべきだとのたまうのである。 しかし、かつて日本は金融危機にうまく対処することができた、資本注入政策が銀行を救い、日本経済を救ったというのは本当のことなのか。 しかし実際には、金融資本への「資本注入」等々は、この十年、日本経済が、ブルジョア諸君が何とかやって来られたこととはほとんど無関係だったのである。 金融資本が生き返ったのは、まず何よりも、「金融の量的緩和」政策、ゼロ金利政策などによって、事実上巨額の“補助金”が供与されて来たからであった。この間、貯蓄(つまり個人)に支払われるべき利子はほとんど支払われず、何十兆円、何百兆円というカネが大銀行のもとに流れ、その大きな利益の源泉となった、つまりただのようなカネを運用できたのであり、“居ながらにして”笑いのとまらない儲けを手にすることができたのである。 そしてまた一般的に、資本活動にとっての状況の特別な好転があったこと、すなわちアメリカのゆがんだ消費市場の拡大(「"buy now pay later" way of life」といった、つまりまさに寄生的に頽廃していったアメリカの消費生活――ドルの世界中へのバラまきとも結び付いた――を象徴するような人為的に拡大された市場)や、中国やインドなどの新しい、広大な市場が突然に生まれたことによって、輸出を動力にして経済的好況を享受できたこと、等々の“幸運”の結果でもあって、金融資本も一息つくことができたのである。 こうした状況があったからこそ、国の巨額の資本注入政策が何かうまく行ったかに見えたにすぎない。 原稿の締め切りの前になって、一つの証言を見つけることができたので紹介しておこう。原田泰(大和総研理事)は、「愚かな」行動をとってバブルに踊り、自ら破綻した連中を救うのは正しくない(そんなことをすれば、愚かな行動を取るものがいくらでも出てきて、愚かな行動が一層はびこる、つまり過剰信用でもバブルでもいくらでも繰り返される、この社会では、愚かなことをする「自由」も許されているが、しかし「人間は自らの自由の責任を取らなくてはならない」、だから愚かな行動は許されたり、国によって「救われたり」すべきではない云々)、また金融機関を救済しなければ、米経済、世界経済が破綻するといわれているが、「私は、そんな根拠はほとんどないと思う」と断言し、次のように書いている。ブルジョアの中にあげられた、いくらかでもまともな言葉だが、理性的なことは誰が言っても理性的なことであろう。 「日本において、銀行への公的資本注入によって、失われた十年から脱却できたと主張する人は多い。自己資本が毀損していては、貸し出しが増えない限り、不況は終わらないという。しかし、失われた十年からの脱却は2002年からのことだが、貸し出しが増えたのは、05年のことだ。銀行への公的資金の注入は98年のことだが、98年は大不況で、99年後半の回復はITバブルのお陰だった。銀行への公的資金の注入が成果を上げた訳ではない」 彼はまた北海道拓殖銀行の破綻によって、北海道経済が停滞したと言われているが、それも正しいとは言えないと強調してもいる。要するに、資本注入がすべてを救ったといった単純なことではない、ということであろう。 だから、公的資金の注入によって、金融資本がたちなおれたなどというのは幻想もしくは思い違いもはなはだしいのである。実際、銀行経営の立ち直りにとって、公的資金の注入など実際的に大した意義を持たなかったのであって、そんなものは余り意味がない、不要であるとことわった大銀行もあったのである。 実際、国家はかつての資本注入の結果として、まだ大量の(巨額の)株を保有しているが、今、それを売りたくても売れない状況になっている、というのは、大銀行の株価が低落していき、売ればさらに巨額の損失を計上し、確定しなくてはならず、国民負担が実際に明らかになるからである。このこと一つとっても、国による資本注入といったやり方の無責任と許しがたい本性が暴露されている。国は事実上の巨額補助金を大銀行に供与し、性悪金融機関の多くを救ったのだが、果たしてそんな必要があったのかは、誰も確言できないのである。 ◆資本注入が叫ばれる訳 金融資本に対する「資本注入」がもてはやされるのは、金融資本の危機が「資本不足」として、つまり取り付け等々に対処できない危機として現象するからである。銀行などがこうした危機に陥るのは、信用を無闇に膨張させたから、どんな確かさも安全性もないような信用拡大に走ったから、そしてそうすることで濡れ手に粟の儲けを求めたからである。例えば、“レバレッジ効果”といったことが盛んにもてはやされたが、それは、資本金の何十倍といったカネを借りて(“調達”して)――低金利で――、それを高金利で運用して大きな利得を手にするといったやり方である。 しかし高金利で運用していた「商品」――証券化商品等々――が売れなくなり、そこで巨額の損失が出るなら、こうした会社はたちまち行き詰まり、カネはもうどこからも入って来ず(借り入れようとしても貸してくれる者はなく)、また「増資」をして(つまり株式を発行して)、「資本」を増強しようとしても、株を買う人々もおらず、かくして「資本」でもって損失を埋めることもできないとするなら、破産するしかないのである。 金融会社の損失が増えて赤字が拡大するなら、「資本」によってそれを埋める以外ないが、しかしそれが困難となると、企業経営の危機と見なされ、カネの出し手である様々な貨幣資本家からカネの返済を迫られたり、銀行なら預金引き出しの嵐に見舞われるであろう。 かくして、金融資本の危機に対して、「資本注入」こそ万能の救済策だと叫ばれるのである。個々の銀行が自ら「資本」の増強をできないなら、国家が代わってそれをやってやり、銀行の急場を救おうというのである。 今回の危機に対処して、すでにイギリスは大手金融機関八社に、八兆円余の公的資金の注入を決定しているが、こうしたものこそが正しい、唯一のやり方である、というのである。 アメリカもまた、大銀行九社に三五兆円を「注入」する、という。 また、金融機関が借金をするのに、その借金に国家が保証を与えるというやり方も浮上している。つまり金融機関が債券を発行する場合、その償却ができなくなったら、国家が肩代わりでも何でもやるというのであるから、これもまた途方もないことである。 国が株を買ってやり、あるいは債務保証をするのは、金融機関が自ら株式を新規に発行して「資本」を調達できないからであり、また自らの責任で借金をすることができなくなっているからである。つまり金融機関が信用を失っており、株を発行しても誰も買わず、また債券を出すと言っても誰も引き受けないからである。債務に対する国家保証とは、国が企業に返って来ないかもしれないカネを貸すということとほとんど変わりない。 そもそも「市場」が買おうともしない株を――市場では二束三文の株を――国家がそれをはるかに上回るような高値で買っていいのか、そんな「市場のルール」に反したことをしていいのか。 ブルジョアたちはこの間、「市場原理主義」や「自己責任主義」を信奉し、その意義や正当性やメリットを大声で叫んで来たが、実際にはそんなものはお題目であり、都合のいいときだけに唱えていたにすぎなかったのであって、都合が悪くなればそんなものは弊履の如く投げすてられるのである。 今や世界中のブルジョアたちは、「金融システム」を救え、というスローガンを掲げるなら、どんなことも許されるかに、傍若無人に、厚かましく振る舞っているが、これは同じ連中が、好き勝手にバブルに踊ったのと全く同様である。 そして大企業、大金融機関のためのこうした政策が、国民のためのもの、労働者のためのものと、盛んに言いはやされている。もし「金融システム」なるものが破綻したら、機能しなくなったら、そして「貸し渋り」などがまた横行するようになったら、企業――とりわけ中小企業など――はたちまち行き詰まり、破綻して行きかねない(大企業とても同じで、工場の運転休止や操業短縮や大量首切り、賃金の切下げ等々が避けられなくなる)、「金融システム」を救い、大企業を救済するのは、大企業やバブルに踊った金融機関のためというより、実際には国民全体のため、労働者のためである、というのである。 全く冗談ではない。厚かましいブルジョアたちは、自分たちの救済のための政策を、無責任なばらまき政策を、労働者のためといつわるのであり、いつわることができるのである。 労働者は断固として言ってやらなくてはならない、我々はそんな救済策を少しも必要としない、我々の税金で、つまり公的資金で、しかも我々の名を使って、勝手なことをするのは止めるべきである(そんな巨額のカネが余っているというなら、直接に我々のために、我々の福祉や国民教育などのために支出せよ、そうして初めて、労働者人民のためにと言えるのだ)、もし大企業のために、その救済のために支出されないとすると、大企業が破綻して大変なことになるというなら、実際やってみよ、本当にすべての企業が破綻してしまうのか、それを見てみようではないか、と。 すべての企業が破綻するということになったら、本当にそんなときがくるというなら、その時に、ブルジョア諸君よ、また救済策について議論しようではないか。 ◆「資本注入」は言うほど簡単ではない もし国家による資本注入が大規模に行われるなら、それは国家が企業の株を大量に保有することになる。イギリスでは、今回の資本注入によって、過半の株を国に所有される銀行が出ようとしているが、これは事実上、企業の「国有化」であろう(仮に一時的なものであれ)。 国有化まで行かなくても、国家は銀行経営に介入し、あるいはそれを思いのままに繰ることができ、経営者を交代させるのも意のままである。巨額の所得を得ていた旧経営陣は責任を追及され、首にされるだけではない、何らかの処罰の対象にさえされるのである。 だから大銀行は(その現経営者たちは)、国の介入を嫌い、国家資金の「注入」を回避しようとするのであって、資本注入といっても、ことはそれほど簡単ではないのだ。 それに資本注入を甘受する銀行は、それだけで危機にあることを自ら公表するようなものであって、かえって傷を大きくしかねないのである。 そしてここでも不良債権の購入と同じ矛盾が現れる。つまり株を国が低落している時価で買うなら、銀行にとってのメリットなどほとんどないのであって、だから国家は株をいくらかでも高い価格で買わなくてはならないが、そんなものはせいぜい額面くらいにしかならないのである。とするなら、国家の損失とともに、銀行の「資本充実」といっても、思ったほどのものとはならない、気休め程度に留まるということであろう。 ブルジョアたちは、資本注入をするなら、危機が存在するとみなされるあれこれの銀行にするのではなく、一斉に、すべての銀行に対してやらなくてはならない、というのは、あれこれの銀行に資本注入するということは、その銀行が実際上すでに破綻していることを宣告するも同然だからだ、と言いはやしている。 しかしなぜ資本注入など必要としない銀行までもが、資本注入を受けなくてはならないのか。しかもそれが国民の大きな負担を伴うというのに、である。 資本注入は、強制でなく自己申告だとも言われている。しかしそれでは、個別的な救済ということと同じであり、いくつかの銀行は資本注入など要らないと言うであろう。かつて日本でもそれを拒否した銀行もあったし、最近でも、イギリスの資本注入政策に大して、大銀行のHSBCは、資本注入の申請はしないと断言している。そしてこんな銀行がいくつも出てくれば、申請を出す銀行は自ら破綻銀行であることを公表することとなり、ますます申請を出せなくなり、せっかくの巨額のカネも(アメリカ国家が準備したという七十五兆円なども――もっとも、これは直接には不良債権の購入のためであって、ただ政府が勝手に資本注入にも使うと言明しているだけだが)宝の持ち腐れ、ということになる。 かくして、優良銀行はもちろん、危機にあってもまだ破綻していない銀行は、資本注入を拒否するだろう、というのは、それが自ら破綻を認めることであり、また国家の統制や支配の下に入り、経営者の自主権を放棄することであり、さらには経営者の責任を追及され、経営から追放されることでもあるだろうからである。 今や、嫌がる金融機関に、どうやって公的資金の注入を受け入れさせるか、といった途方もない議論が、すでに先走って横行している。 全くばかけだことではないのか。嫌がる銀行に、何のために、むりやりに公的資金を注入するのか、しなくてはならないのか(これが自由主義の社会だというのだからお笑いである)。最初にばかげたこと、不合理なこと、恥ずべきことを始めると、その連鎖として、その結果として、次々とばかけだこと、不合理なこと、はずべきことをしなくてはならなくなるが、まさにこれは典型的なその例であろう。 日本のブルジョアたちは、すべての銀行に資本注入をしたが、しかしその前提として、すべての銀行を調査、評価し、淘汰されるべき銀行と、“健全な”銀行を区別し、後者にのみ注入した、と自分たちのやり方の賢明さを誇っている。 しかし淘汰されるべき銀行と、“健全な”銀行を区別して、後者にだけ資本注入したなどという主張自体、このやり方のナンセンスを暴露していないのか。もし対象銀行が“健全な”銀行であったとするなら、なぜ、何のために「資本注入」したのか、する必要があったのか(そんなものはいらないという銀行も少なくなかったのに)。 淘汰される銀行と、“健全な”銀行が明白だったというなら、なぜ国家が介入する必要があったのか、市場のあの万能の機能にどうして任せておかなかったのか。 こうした説明自体が、「資本注入」といったやり方のナンセンスさを、それが実際的な意味をほとんど持たなかったし、持ちえなかったことを明らかにしている。 公的資金の注入は必要悪だというのが、注入論者の言ってきたことである、つまりこれは、注入は少なければ少ないほどいいということと同じである。ところが、この連中は、注入は必要悪ではあるが、むりやりにも多くしなければならない、多ければ多いほどいいといった理屈を、事実上持ち出すのである。 救済を必要ともせず、またそれを嫌っている資本にまで、それを受け入れるのは経営にとって損失であり、マイナスであると考える資本にまで、何のために、“強制的に”巨額の資本注入をするのか、しなくてはならないのか。全く冗談ではない。こんなことを叫ぶ連中は自らの儲け仕事や特権が失われる恐怖のために、正気を失っているとしか思われない。 米の「裏切り」とは別のことだ 米国が北朝鮮の「テロ国家指定解除」を決定したというので、日本の反動派はいきりたっている。 こわもての国家主義者の中川昭一は血相を変えて、米国のライス国務長官に「そんなことは認められない」と談じ込んだが、軽く鼻先であしらわれてしまった。 しかしそこには、いきりたたなくてはならないようなものは何もない。もともとこの指定自体がナンセンスで、米国にそんな資格も権利もなかったからである。 北朝鮮が「テロ国家」――この概念自体があいまいで、恣意的だ――だというなら、イラク侵攻一つとっても、米国はそれ以上に凶暴な「テロ国家」であることは自明だからである。また北朝鮮に核保有をするなと言うなら、まず米国こそがその膨大な核を廃棄してからにすべきであろう。 北朝鮮が持とうとしている核は米国に比べれば、まるでおもちゃのようなものでしかない。本当に核兵器の恐怖を語るなら、まず米国や中国やロシアの大国の核についてこそ語るべきであろう。北朝鮮――金正日の専制権力などいくらも持たないのだ――が核を持ったところで、そんなものは国際政治の全体から見れば、ほとんど些事である。 米国のライス自身が日本の抗議に対して、「指定解除など、単なる形式だ」とうけ流したが、もともと米国はその程度にしかテロ指定を考えていなかったのである。 だから、指定解除しても実際的な変化はそれほどない、と言うのである。つまり、指定等々を後生大事に信じていた政府自民党や日本国家の方がアホだったのだ。 米国自体、つい最近もインドの強引な核兵器保有を事実上公認したのであって、とするなら北朝鮮の核だけを非難し続けるなどどうしてできようか。 だから、北朝鮮が核兵器の廃棄をぐずぐずし、ごまかしているからといって、それでもって、米国が「テロ国家指定」の解除をためらう、といったことには必ずしもならないのである。ブッシュにとっては、解除はすでに“既定の”方針であり、任期中にどうしてもやっておかなくてはならない政策なのである。 反動たちは、「拉致問題も解決しないのに」と憤っている。「同盟国」なのに、というのである。 被害者家族の増元は、「同盟国民の命を助ける協力をしない裏切り」などと“感情的な”わめき声を上げているが、しかし政治や外交を何一つ知らないことを暴露しているだけである。 一体米国を「裏切り」と叫んで何を要求するのか、米国はテロ国家指定解除で、北朝鮮の核兵器の廃棄に道を開こうとしているが――それが幻想であるか、そうでないかはさておくとして――、しかしそのために、“強硬姿勢”で行くのか、それとも“宥和政策”でやるのかは、情況によるのであって、強硬姿勢でなくてはならない、などと増元が言う資格があるのか、そんな判断が正しいというのか、それとも増元は、北朝鮮の核兵器などはどうでもいい、拉致問題だけが重要だとでも言うのか。 しかし拉致問題が増元らにとって特別に重要だからと言って、人類全体にとって、あるいは日本国民の全体にとってさえ、核兵器の廃棄問題よりも重要だということに必ずしもならないのは自明ではないのか。 増元らは余りに自己中心で、偏狭である。日本が北朝鮮と戦争でも何でもやれ、強硬姿勢こそ正しく、必要だと乱暴なことを言うのだが、そうなればもう政治でも外交でもない、かつての日本軍部のやり方こそ最上だということになるだけである。 一部の拉致された人々が何とか帰ってきたのは、小泉のやり方によってであって、強硬姿勢をわめきたてた安倍によってではなかったことを思い起こすべきだろう。 米国に「裏切り」を云々するのは、拉致問題の断固たる解決だなどと叫びつつ、実際には米国にそれを全面的に依存し、期待していたことの裏返しでしかなく、自らの甘えと見通しのなさを暴露するだけである。 米国は同盟国ではあっても、だからといって、自国の利益や都合の上に、日本の利益や都合を置くはずもない。どんなブルジョア国家でも――日本もまた――そんなことをしないであろう。 実際、米国の軍事的冒険主義に対する、日本の“貢献”を見るなら、日本が「忠実な同盟国」として十分に米国に“協力”したと言えるのか、反動たちはいつも、日本は“国際貢献”を、つまり米国の帝国主義政策に十分協力していないと言いはやして来たのではなかったのか。 それなのに、今さら米国との忠実な「同盟」関係を持ち出すとは、諸君はまた何という甘えた、手前勝手な理屈をこねることか。 米国が自国の利益や立場を優先させ、日本の拉致問題などという“小さな”こと――米国にとって――を無視したからといって、それを憤慨するなら、する方がおかしいのである。 米国もまたブルジョア国家であり、利己的にふるまう場合がいくらでもあるのは当然である。日本にひたすら利己主義にふるまえと扇動する反動派、国家主義の諸君が、こんな単純な真実も理解しないとはあきれたものではある。 しかも、反動派は、北朝鮮を「テロ国家」と呼びながら、侵略と帝国主義戦争に明け暮れた、一九四五年までの日本の天皇制軍国主義国家を理想の国家、立派な国家と呼び、戦後の国家の見直しをわめくのだから(安倍政治を見よ)、矛盾もはなはだしい。実際には、北朝鮮の国家と、一九四五年までの日本国家と、どれほどの違いがあるというのか。天皇制と、金正日の独裁と違うというのか、しかし世襲であり、その権力や権威が絶対化されているところまでそっくりではないのか。 |
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