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マルクス主義同志会機関紙
『海つばめ』◆隔週日曜日発行
一部200円(税込み210円)

定期購読料
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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第51号
2008年1月(定価800円)

・マルクス主義同志会第6回大会−国際情勢・国内情勢
・現代の世界資本主義と21世紀の人類−私利と利己と“利潤”の克服はいつの日か
・人間にとって「言語」とはなにか−ソシュール言語理論批判
・日本共産党と憲法――プチブル党の裏切りの歴史

 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
  お申し込みは、全国社研社
  または各支部・会員まで。
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まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動


●1079号2008年10月5日       1079号全文を読む

【一面トップ】世界恐慌は現代資本主義の必然性だ
 崩壊する“金融”資本主義――米下院は国家の救済案を否決

【主張】暴露される麻生の本性
 かげろうのようにはかない政権

【草枕】小泉の“引き際”
【コラム】飛耳長目
【各地の“草の根”政治】静岡/不毛性明らかに
 教員免許更新講習の試行始まる
【三面トップ】「アジア的生産様式」についてR
 夏、殷、周の生産様式(下)――中国の古代文明とその意義
【三面連載/現場からの報告――介護制度発足から八年(3)】
 ますます強まる給付制限――「自立」や「予防」はまやかし
【四面トップ】格差症候群とは何か
 「格差社会の不健康」を読む
【四面書架】福田衣里子他著『日本の薬はどこかおかしい!』
 ブルジョア医療・薬事行政を告発
【四面連載小説/天の火もがも(8)――林 紘義】
 こはいかに 入学即デモ、全学ストとはG

 1079号全文を読む


世界恐慌は現代資本主義の必然性だ
崩壊する“金融”資本主義
米下院は国家の救済案を否決

 百年に一回かと言われるような資本主義の危機が広がり、金融恐慌が世界を席巻し始めた。“アメリカ発”と言われているが、もちろんアメリカに限定されるものではない。アメリカ政府は、深化する危機に直面し、これまでの「私的企業は救済しない」という公言をたちまち投げ捨てて――何という無原則、無節操、無責任か――、まさに私的企業そのものの救済に大わらわである。しかもベアーに援助の手を差し伸べ、住宅金融機関二社を政府の管轄下に収め、その救済に乗り出したかと思うと、証券投資の大資本リーマンの破綻に対しては、「破綻は自らの責任」とけんもほろろに切って捨てた。しかしその後破綻に直面した保険会社AIGには、「大きすぎる、また影響が世界的に及びかねない」とかいった理由で、またまた大規模な救援に走るなど右往左往したあげく、結局は総額七十五兆円という途方もない税金を投入して、「不良債権」を買い上げるなどして金融大資本の救済に乗り出すという。リーマンだけでなく、大証券会社は破綻するか、大銀行に身売りするなどしてみな無くなってしまい、また大銀行のゴールドマン・サックス、モルガン・スタンレーらも巨額の増資に走って危機回避に懸命である。まさに繁栄と栄華を誇った“金融”資本主義は解体しつつあるかである。金融”資本主義は、そして世界資本主義はどこに向かおうとしているのか、その行く手に果たして救いがあるのか。

 ◆資本主義のもとでは破綻は必然だった

 我々が眼前に見ているのは、間違いなく、資本主義の歴史的な破綻であって、それは、私的所有と資本主義の体制が解決できない矛盾の中にあり、別の体制へ、生産手段の共有を基礎とする共同体的社会へと移って行かなくてはならないことを日々明らかにしているのである。

 国民経済を構成するすべての「経済主体」――まさに何千万の――が自らの判断で、自らの利益獲得と拡大を動機に、“自己責任”で(つまり個人主義的、利己主義的に)行動するとき、一体、ブルジョア社会はいかにして、過剰生産を、バブルを、恐慌を回避することができるのか。彼らがみな、心を入れかえて、自分自身のためにではなく、社会全体の利益や調和のことを考えて行動するなら、恐慌はありえないであろう、しかし実際には、資本主義のもとでは、そうしたことは決して起こり得ないのだから、バブルも恐慌も避けられないのである。

 もちろん、公平で、正義にもとづく“公的”権力が存在していたなら、そしてそれが厳しく個々人や企業の反社会的な行動を摘発し、規制するなら、バブルも虚偽も許さないとするなら、そんな体制が可能だとするなら、資本主義の矛盾の爆発も破綻もないかもしれない、しかし資本の利益が絶対化、最優先される社会では、そんなことは起こりえないであろう。そんな社会は決して資本主義ではないのだ。

 政府がイギリスでもアメリカでも日本でも、実際に世界中で実行に移したのは、大資本の利益のための経済の「自由化」や「規制緩和」や市場原理主義であり、“福祉”の後退や骨抜きであった。

 とするなら、こうした社会がバブルに向かって、したがってまた破綻に向かって突撃したのは一つの必然であったろう。かくして破綻は来るべくして来たのである。

 なぜ人々が、とりわけブルジョア諸君が過度のバブルにまで、したがって恐慌にまでかり立てられるのか、なぜ途中でやめたり、立ち止まったり、自制することができないのか、彼らはそれほどに愚鈍であり、過去の経験や歴史を知らないのか、学ぶことができないのか、なぜこのまま進めばバブルにまで行くしかなく、自ら破綻し、墓穴を掘ることになると気がつかないのか?

 それは、利潤――しかも、より大きな利潤――の獲得という目的への絶対的な従属と、競争と、個々ばらばらの存在が、彼らをしてバブルにむけて、過剰生産、過剰信用にむけてかり立てるからである。競争のまっ只中において、彼らは途中で下車することができないのである。それはとりもなおさず、彼らの企業の、あるいは彼ら個人の脱落であり、敗北を意味するのである。こうした一般的競争に勝ちぬく者のみが「勝ち組」の名に値するのであって、脱落者が「負け組」としてさげすまれたのは、それほど昔のことではない。「勝ち組」の地位がどんなものであれ――それが空虚であり、破綻やバブルにつながっていると自覚しても――、それから下りることもかなわず、とにかく勝利を目指して走り続けなくてはならないのである。

 彼らは他のやり方を知らないのであり、それをやめたら、どうしていいのか分からないのである。真実を知ったら、このブルジョア社会で生きて行くことができないのである。

 だから彼らはあえて真実から目をそむけ、自己をも他人をもあざむきながら――市場原理主義こそ資本主義の繁栄を、永遠性を保証する云々――突進するのである。

 また今回の破綻は、“米国型の”資本主義の破綻でもある、と言われている。金融資本の破綻として現われているかぎり、そのように言えないこともないが、しかしこれはまた、資本主義そのものの破綻であり、解体である。

 つまり、資本の自由な運動こそ最上のものであり、個人や企業の私利の追求、儲けや利潤への――労働の搾取への――「貪欲」や「欲望」、すなわち個人主義や利己主義こそが経済成長や活性化の原動力であり、また競争の中で強い者が勝ち、弱い者が淘汰されることで初めて繁栄がありえ、個々の企業も社会全体の“効率化”も達成される、という資本主義そのものの、市場原理主義や利潤至上主義の破綻である。

 それが“米国型”として現われたゆえんは、“ドル支配”をバックとした金融資本がますます牛耳るようになった米資本主義の特性と結びつき、“ドル”の跳梁跋扈と結びついて出てきたからであるにすぎない。

 実際、現代のブルジョア世界における信用膨張はすさまじいものがある。世界貿易額の何十倍もの貨幣資本が、つまり“ドル”が(かつての言い方によれば“ホットマネー”が)世界中にあふれ、飛びまわっている。石油の値上がりには投機も大きな役割を担ったが、ニューヨークの原油先物市場や商品市場は、世界の株式市場の、わずか五千分の一の規模にすぎない。こんな小さい“実物市場”に貨幣資本が殺到するなら、石油でも穀物でも値上がりしないでいる方がむしろ不思議であろう。あふれる「マネー」はより有利な投資先を求めて、世界中を駆けめぐるのである(しかも、情報伝達手段の驚異的な進化や“金融工学”技術の発達は、貨幣資本の瞬時の移動を可能にしている)。

 日本のブルジョアたちは、今回の信用膨張や金融恐慌は自分たちには責任がない、「アメリカ発の」ものであると無関係を装っている、しかし日本のブルジョア国家もまた、「金融の量的緩和政策」のもと、徹底した低金利政策で「円」を世界中にバラまいただけではない、ドル債券――米国債であれ、証券化商品のようなものであれ――を買いあさり、“ドル”をアメリカに還流させて、ドルの奔流に一役買ったのである、つまり世界金融恐慌の一共犯者以外の何者でもない。

 ◆知っていてなぜ回避できなかったのか

 今や“カジノ資本主義”の虚妄性が、それが、我々が述べてきたように「砂上の楼閣」ならぬ「紙上の楼閣」にすぎないことが、現代資本主義の危うさといかがわしさが、決定的に、事実によって暴露されたのである。いずれにせよ、真実が明らかになることはいいことであり、本当の“改革”への出発点であろう。

 資本の“自由な”運動が、つまり資本家的経済がこのような事態に行き着くということが予想されもせず、知られてもいなかった、などと言うことは決してできない。我々は常に、資本主義的狂乱の、信用バブルの“危険性”を暴露し、資本主義的生産の根底、その矛盾から生じて来るバブルと、その崩壊の必然性を強調してきた。

 また、バブルの中にまきこまれてにわか目くらになった連中はさておくとしても、ブルジョアたちの中でさえ、幾度となく、しかも“責任のある”人々の口によって警告が発せられて来たのである。すでに十年以上も前の九六年に、グリーンスパン連邦準備理事会議長(当時)は、「根拠なき熱狂」を警告したし、〇二年にも「住宅ブームには必ず終わりがくる」と主張し、また再三、政府が支援する住宅公社の膨張を止める規制が必要だと訴えていた。

 現在理事会の議長に昇格したバーナンキも、〇四年のまだ理事にすぎなかった頃、例の住宅抵当公社二社が、金融危機を引き起こすかもしれないと警告を発していたのである。

 だから、バブルとその危険性を知らなかったのではない、知っていたにもかかわらず、バブルはさらに進行したのであり、破綻にいたるまで決して留まることはなかったのである。

 最近、もし知っていたなら、打つべき手があったのではないか、と問われて、グリーンスパンは次のように答えている。

 「政府と中央銀行にブームの進路を変えることはできない。不況を引き起こす意思があればともかく、現代の民主主義社会では有権者がそうした激しい政策を許容することはない」(日本経済新聞九月十四日)

 もちろん、彼らの主張には自己弁護の色彩が強いのであって、文字通り信じられないのだが――例えば、昨年来三・二五%も金利を下げ続け、バブルをさらにあおりたてた政策を、いかにして正当化できるのか――、しかし真実の一面を語ってはいる。

 実際、危機と破綻がやってくると、今さらのように、あと知恵として、証券の購買者に「正確なリスクが伝えられていなかった」、「情報が隠されていた」、「リスクに対する認識が薄れていくようなシステムが故意に作られていた」、といったことか言いはやされている。しかしリスクは自ずから明らかであって――利得が四割にも達した証券化商品の“安全性”といったものを信じる方が奇妙である――、買う方が、ただ安全と信じたかったから信じたにすぎない、といった方がはるかに真実に近いだろう。

 ◆資本の支配のジレンマ――市場原理主義かケインズ主義か

 三十年ほど前、世界のブルジョアジーは、ケインズ主義に反発し、それこそが資本主義的停滞や不況や財政危機や国家の衰退の原因であると決めつけ、資本主義の再生のために、再び資本主義が活性化と繁栄を取り戻すために、新自由主義に、市場原理主義に、競争万能主義に、つまり資本が資本として一層その本性を発揮できる、国や社会による「規制」の少ない社会に戻っていくことを決意し、またそのことによって資本主義の黄金時代を築くと豪語したのであった。

 一九八〇年前後からは、イギリスのサッチャー、アメリカのレーガン、そして日本の小泉らの時代であり、経済の“自由化”と“規制緩和”の時代、低金利と金融緩和の時代、ドルを中心とする通貨がばらまかれた時代(ただし“財政”を通じてよりも“金融”を通じて――といっても、結局は同じことに帰着するのだが)、“金融”資本が大手を振ってまかり通り、世界を睥睨した時代である。

 しかしこの“新”資本主義は今年に入るとともに、全面的な破綻をさらけ出し、“新”資本主義もまた資本主義の根本的な矛盾を回避できないということ、というより、むしろそれを極端なところまで推し進めたにすぎないということが完璧に暴露されてしまったのである。

 資本主義は“バブル”つまり過剰生産、過剰信用をなくすことはできず、それらは必然的に資本主義の破綻として、恐慌として爆発してくること、そしてこうした危機はかつて、二十世紀初頭には帝国主義や第一次世界大戦の勃発へとつながり、また一九二九年の大恐慌はファシズムや軍国主義や新しい帝国主義や第二次世界大戦を結果し、そして今また、世界的な大恐慌の再来である。

 この新しい危機に対して、ブルジョアジーは周章狼狽し、なす術もなく、ジレンマに陥り、どんな展望も見出せないでいる。

 彼らは市場原理主義を捨てるしかなく、ケインズ主義に、国家による介入や救済に期待するしかないのだが、しかしこうしたやり方はすでに彼ら自身が、益よりも害が多く、国家の衰退や解体を準備するものとして、二、三十年ほど前に捨て去ったばかりの立場であり、イデオロギーである。

 国家による“財政政策”、大規模な救済資金の注入だって? しかし日本において特徴的であるが、国家はすでにその無責任な、積年の“バラまき政策”の結果として事実上破産しており、これ以上に財政を膨張させる余裕など全くないところまで来ている。

 “金融政策”だって? すでにこれも日本で特徴的であるが、財政政策でなければ金融政策で、というわけで一貫して「金融の“量的な”緩和」の政策、カネをいくらでも注入する政策や、「低金利政策」が行われてきたのである。

 つまり現代ブルジョアジーは危機に直面して、財政政策にせよ、金融政策にせよ、すでにさんざんに使い古してしまっているのであって、いまさら、そんなものを持ち出してもどんなはなばなしい“効果”も期待しえないことが――そればかりか、次々と多くの弊害をもたらすことが――よく分かっているのである。

 資本主義的恐慌はかつてマルクスも喝破したように、無政府的な資本の運動の中で膨張した経済を“均衡化”する、「暴力的な」手段であり、経済的過程であって、資本主義にとってはまさに“市場メカニズム”の作用そのもの、その貫徹そのものである。恐慌を恐慌として徹底して貫徹させてこそ、市場原理主義の立場であって、まさに十九世紀のブルジョアジーはこの立場に断固として立っていたのである。

 だが中途半端でだらしのない現代のブルジョアたち、自らの市場原理主義にどんな信念も持ちえないブルジョア諸君は、市場原理主義は経済が順調で「正常な」時期のものであって、資本主義の矛盾が恐慌等々として現われるなら、その時には時を移さず、その原理は投げ捨てられなくてはならないと言うのである。

 だとするなら、市場原理主義が主張してきた、市場の働きによる経済の均衡とか、資源やカネの「適正な配分」といったことは、どうなるのか。まさに恐慌を貫徹させることこそが、そうした均衡を回復させることではないのか、というのは、恐慌が勃発するのは、過剰生産、過剰信用つまりバブルによって、「正常な」均衡が全く失われてしまったからにほかならないからである。恐慌自体が市場の最も特徴的な「均衡」への運動ではないのか、政府が「介入」したり「救済」することはかえってこの「正常な」均衡の回復を遅らせ、ゆがめ、経済全体に大きな害悪をもたらす、というのが市場原理主義の立場ではなかったのか。

 もし恐慌が、ブルジョア諸君があんなにも持ち上げてきた、すばらしい、万能の「市場の機能」の、つまりその自然な「自動調節作用」の強力で、中心的な槓杆(テコ)だとするなら、恐慌のときだけは別だと特別扱いをやり、そのときだけは市場原理主義は放擲するのだ、棚上げするのだなどと言うことは、市場原理主義の自己否定、自己矛盾であり、自らの破綻とケインズ主義への追随を、転向を自ら告白するに等しい。

 市場原理主義者でありたいなら、「危機の時代には政府が大いに活躍し、その時期が過ぎ去れば退場すればいい、もし危機の瞬間に拱手傍観するなら、政府は政府の役割を果たしていない」、などと言うべきではない。そんなことを言うなら、市場原理主義の意義はどこにあるのか、ケインズ主義との違いなどないも同然ではないのか。

 新自由主義は“ケインズ主義”に反対し、景気を上昇させるのは財政政策ではなく、その逆のもの、つまり財政健全化であり、また「金融緩和」や「規制緩和」である、と主張してきた。アメリカのグリーンスパンの“公式”であり、また小泉内閣の政策の根底ともなったイデオロギーでもある。

 だがこうした政策によってもたらされたものが、金融バブルであり、その破裂であったとするなら、現代ブルジョアジーは、自らの“経済政策”を支える理論を失ったのである。好景気ではなく、その陰で住宅バブルが起きたのであり、その崩壊によって、米国の金融解体が始まったのである――つまり金融政策優先とは、アメリカの金融資本のための政策、その利益を保証するための政策であった。

 現代資本主義のもとでは、通貨を、つまりドルをいくらでも作り出すことができたのである、というのは、金属貨幣と違って、そのためにはただ「輪転機をまわすだけで」よかったからである。

 ◆雪崩をうつケインズ主義への再転向?

 今危機の中で、一世を風靡した市場原理主義が否定されようとしている。しかしこれは、一九三〇年代以降のケインズ主義を否定して登場したのではなかったのか。ケインズ主義は「人類の英知」であるとか、「理性の勝利」とたたえられたが、それさえも否定して、市場の「自動調節作用」というこっとう品的な(二百年も前の、A・スミスの)原理を復活させた市場原理主義もまた失敗したのである。

 とするなら、ブルジョアジーに一体何が残っているというのか。せいぜい、新自由主義に対抗して、新ケインズ主義でも唱えようというのであろうか。

 フーヴァーからローズヴェルトへの移行の例を引くまでもなく、日本においても、一九二九年の大恐慌を契機に、浜口内閣、井上蔵相の金解禁、“緊縮政策”から、犬養内閣、高橋蔵相の“積極政策”への転換があった。高橋は悪化する経済情勢に対応すべく、日銀引き受けによる国債発行(借金財政)に踏み切り、財政膨張政策に転換していくが、それはまた日本の天皇制ファシズム化、軍国主義化や、中国への帝国主義的な武力進出と結びついて行ったのである。高橋財政は、経済危機からの脱出を可能にしたというが、ただそれは日本経済の“軍事化”や膨れ上がる軍需とともに、十五年戦争の深化とともに、であったことを労働者は確認しなくてはならないのであって、そんなものを美化することはできない。

 今やブルジョアジーたちの、市場原理主義からケインズ主義への転向が雪崩をうっている。ポールソン財務長官下で成立した、住宅金融公社の救済に憤慨したブッシュも、たちまち七十五兆円もの税金による破綻金融機関の救済を、共和党内から強い反発があるにもかかわらず、自ら先頭に立って提案する始末である。

 リーマンを「私企業は救済しない、モラルハザードが起こる」と称して、見殺しにしたポールソン財務長官も、すでに九月十六日には事実上転向し、不良債権の買上げを中心とした政府の救済策を打ち出した。

 実際、市場が「正常に機能している」時だけの市場原理主義といったものはインチキであり、自己矛盾している、というのは、そういう時期にはもともと、政府の「介入」や「救済」は問題にならないからである。もし市場原理主義を心から主張するなら、まさに危機の時代にこそ、その原則を守るべきであり、また守ってこそ市場原理主義の名に値するからである。経済が、つまり「市場」が順調に動いている間は市場原理主義で、そしてうまく行かなくなるなら、政府の救済で、というのでは市場原理主義が泣くというものであろう。

 恐慌の時代、経済危機の時代にこそ、市場原理主義を貫いてこそ、市場原理主義である。彼らは常に、「自己責任」を、つまり自ら利得するのにリスクをかけることも、そして成功することも失敗することも、自らの責任でやるべきであり、それこそが市場経済のメリットであり、経済を活性化し、成長をもたらし、経済的繁栄につながると主張してきたのである。いまさら、経済的繁栄による利得はさんざん享受したが、そのリスクは知らない、そんなものは国が負うべきだといった、都合のいい立場が通用するはずもないではないか。

 だが、現代ブルジョアジーは卑怯で卑劣なやからたちであって、危機の時代がやってくるとたちまち豹変して叫び始めるのである、危機の時代に国家が手を差し伸べるのは当然であって、それは市場原理主義と少しも矛盾しない、というのは、危機の時代は特別の時であって、それを放置しておくなら、危機は拡大、深化し、資本主義体制の根底まであやうくなるだろうからだ、と。

 しかもあきれたことに、国家主義的反動たちほど、市場原理主義からケインズ主義への転向が急速であり、破廉恥である。散々に「自己責任」をわめいて、非正規労働者らを侮蔑し、攻撃してきた産経新聞はわめいている。

 「『自己責任』は、自由主義経済の基本原則である。しかし、平時に通用しても経済そのものが崩壊しかねない金融システム危機には、別の対応を取るのは当然だろう」(九月十八日)

 つまり、労働者には「自己責任」を、好き勝手なことをして来たブルジョアたちには温かい国家支援を、というわけだ。

 また野村総合研究所のリチャード・クーも、産経紙上で次のようにわめき散らしている。

 「住専のときも公的な支援は将来のモラルハザード(倫理感の喪失)を引き起こすという指摘があったが、それはあくまで個別の金融機関などのミクロの世界の話だ。

 マクロ全体ががたつき、すべての金融機関に疑心暗鬼が広がっているような金融システム不安の中では、ミクロのモラルハザードの話をしている場合ではない。先にモラルハザードの話をしてマクロの方から手を引けば、全体がどんどんおかしくなる。これは非常に危険だ。経済の悪化を防ぐには、日本がやったような公的資金の投入しかない」(九月二十一日)

 個々の企業の悪があったとしても、そんなことは今どうでもいいことだ、今問われているのは、この体制の全体であり、それが危機を乗り越え、救われるのかどうかである、というのである。かくして、“身内の”犯罪はどこかにおしやられ、「貪欲」も無責任もすべて免罪となるのである、資本主義の危機の時に、仲間の悪事を言いたてても仕方ない、というわけである。

 しかし「貪欲」で「無責任」な金融ブルジョアたちによって、現在の危機が招来さたれというなら、この危機の克服もまた、彼らの責任と負担によってなされるべきことほどに明白なことがあろうか。なぜ「貪欲で」「無責任な」やつらが救われなくてはならないのか。本当に全体の体制のためなのか、彼らを破綻させたからといって、それがなぜ全体の破綻につながるというのか。仲間うちを救い、そしてまた自分をも救うためのブルジョアたちの狂言ではないのか。

 ◆国家的救済は本当に救いたり得るのか

 危機が勃発するまでは、現代資本主義は健全で、安全であり、今後も永遠に発展し、繁栄していく、バブルや心配するような契機は見当らない、と“楽観論”がいたるところで振りまかれてはいたが、しかし他方では、バブルに対する警告もいくらでも言われていたのである。ただ投機によるボロ儲けの陶酔と熱狂の中にあったブルジョアたちは聞く耳を全く持ち合わせていなかった、というより、故意に耳を閉ざしていたにすぎない。彼らは、当面の大きな儲けに夢中になっており、幻想から冷めることを恐れたのである。

 しかし今や国民をペテンにかけながら――あやしげな証券化商品を、そのリスクを隠しながら高収益でつって、世界中に売りまくったとするなら、それが事実上の詐欺商売でなくて、何だったというのか――、儲けに儲けた金融機関や経営者たち(バブルを演出した金融マンの中には年収五十億円といった連中がゴロゴロいた)を、今や公のカネで救済するというのである。市場原理主義の米共和党員でなくても――彼らは、こうした救済は「共産主義だ」とわめている。しかしなぜふらちな金融ブルジョアたちを、つまり諸君の仲間を救うのが「共産主義」なのか――、こんなことを認めることはできないであろう。

 バブルを演出し、さんざんにうまい汁を吸ってきて、それが破綻すると、その同じ連中が声をそろえて、破綻を放置すると経済全体がだめになる、多くの人々が失業したり、カネを失ったりする、全社会的な問題だ、救済されなくてはならないとわめき散らすのである。

 バンク・オブ・アメリカのあるCEOは、リーマン・ブラザーズの経営者を、「greedy(貪欲だ)」と非難したが、オバマもまた演説の中で、「ウォール街の貪欲と無責任」をあげつらっている。アメリカの典型的なエリートのオバマに、他のブルジョアたちを「貪欲」と非難する資格があるかどうかはさておくとして、こうした「貪欲な」連中を、なぜ税金でもって救済しなくてはならないのかという労働者人民大衆の怒りは大きい。

 市場原理主義者たちのモラルハザードについての主張は、たちまち投げ捨てられて行った。リーマンの破綻の時には、「民間は自力更正」、「安易な救済はモラルハザードを招く」と強調し、救済を拒否したポールソンは、住宅公社やAIGの破綻に直面するや、今度は巨額の公的資金の投入を主張する側にまわってしまった。

 そもそも、救済政策によって本当に救済されるのか、何が救済なのか。九〇年代アメリカで、多くの貯蓄信用組合が破綻して行ったとき、政府は巨額のカネを注入したが、結局は千三百億ドル(約十四兆円)が国民の負担となった。こうした負担で、金融システムを救い、国民経済を救ったというわけだが、しかし今また当時救済されたはずの貯蓄組合が破綻して援助の手が差し伸べられているではないか。とするなら、十年ほど前の救済は一体何だったのか、何のために行われたのか。さらに十年、国家のカネによっていいかげんな経営を延命させたという以外の、どんな意味があったというのか。

 七十五兆円ものカネで、不良債権を買い取るなどして、破綻した金融機関を救済するというが、不良債権をどんどん買い上げて金融機関を「健全化」すればいい、といったものでもない。“道徳的な”問題はさておくにしても、国家が不良債権を買って救済してやるということは、根本的な問題を含んでいる。

 そもそも一体どんな形で、どんな価格で不良債権を買うというのか。市場価格はすでに存在していないか、ひどく崩落している。そんな“時価”で買うなら、企業救済の役には全く立たない。企業は市場で売っても、国家に売っても同じことである、というより、売らないで保有し続けるだろう――破産しないかぎりのことではあるが。

 他方、高い価格で買うなら、企業は救われるかもしれないが――というのは、巨額の補助金をもらうのと同じだから――、しかし今度は国家が巨額の損失を負うことになる。

 つまりどんな価格で国が買うのかという一事を取っても、まともな回答はないし、あり得ないだろう。ここでは“公正な”価格、といったものは最初から存在しないのである。

 不良債権とは、かつての日本の場合と違って、ここでは“複雑怪奇な”証券化商品であって、その「価値」さえはっきりして来ないのである。今では誰も買おうとしないから、その「価値」は暴落したままである。

 そして政府の支援策によれば、不良債権の購買にはあれこれの難しい条件がつけ加えられており、その結果、破綻企業の不良債権を売る意欲を損なうものとなっている。企業経営者も規制や収入制限や事実上の罰則まで盛り込まれているとするなら、ますますかかわりを持ちたくないであろう。

 救済策として機能させようとするなら、破綻した金融企業にこびなくてはならず、こびれば国家財政は大きな負担を余儀なくされ、国民の不満や怒りが膨れ上がるというわけである。他方、「自己責任」といったことも配慮するとすれば、今度は救済策としては機能しないのである。国による救済策といったものは、かくして根本的な矛盾そのものである。

 今やブルジョアたちは大合唱である、できるだけ速く、できるだけ断固として、できるだけ大規模に、救済に乗り出すべきである、今は時間が決定的である、それを逃し、後手後手にまわるなら、取り返しのつかないことになる、実際に大恐慌も避けられない、等々。大急ぎで大規模な救済策を実行に移す場合、つまり危機に対応して湯水のようのに国家のカネを注入する場合、そして不良債権でも何でもどんどん買上げて金融資本を救う場合にのみ、深刻な金融危機も克服できるだろう、等々。

 仮に「納税者」の、つまり国民の負担や犠牲が生じようとも、しかし資本主義経済そのものが瓦解して行くことに比べたら、そんな犠牲は取るにたりないことである。日本の経済も九〇年代以降、「失われた」十年の貴重な経験を通して、このことを学んできたというのである。

 しかし、救済策によって、金融危機が本当に克服されるかどうかはさておくとして、そのために、その一つの代償として、国家機関に八百兆円もの債務が累積し、今ではその元利の支払いは、国家財政を――したがって国家そのものを――機能麻痺に追い込もうとしているのである。金融破綻は克服されたというが、国家破綻はさらに深化したのであって、どちらがましであったかはにわかには判断しがたいほどである。せいぜい言えることは、金融破綻が国家破綻にとってかわられたにすぎず、個々の企業や金融資本の破綻を、国家の破綻に置き換えたに過ぎないということである。

 今や個々の企業の破綻の代わりに、国家の破綻が現われたのだが、ブルジョア諸君にとって、国家の破綻の方がまだましだということであろうか、そんなことを言っていいのであろうか。彼らは今や、八百兆円もの借金を抱えて事実上破産している国家という現実に呆然とし、なすすべも知らないのである、まるでそんな危機は存在しないかにふるまうしかないのである。麻生もまた、国家破綻など大した問題ではない、それよりも「景気回復」だ、さらに国家のカネをバラまけ、とのたまうだけである。麻生は国家をひたすら解体させながら、つまり「国家」をとことんないがしろにしながら、国家主義者を装うのだから、この人間の無原則ぶりはきわだっている。

 ◆“金融”資本主義の行方

 アメリカ金融資本の相次ぐ破綻とともに、今や“米型”の金融資本主義、つまり投資銀行型の金融資本は失敗した、と言われている。そして「貯蓄から投資へ」とわめかれ、それが資本主義の新しい繁栄をもたらすと言われたことがまるで嘘であるかのように、今度は「投資銀行から預金銀行」といったことが、つまり逆戻りせよといったことまで言われ始めている。

 アメリカでは一位から五位までの“投資銀行”(証券会社)が破産したり、身売りしたり、衣替えしたりして、あっという間にいなくなってしまった。一位と二位は証券会社から「銀行持株会社」になり、三位から五位までは破綻したり、吸収されてしまった。

 しかしそもそも一九三三年の銀行法によって、投機的な動きを抑止するために(金融資本の投機こそが大恐慌をもたらしたと理解されたので)、証券業務(投資業務)と銀行業務が分離されたのであるから、この両者の「間の垣根がなくなり」(このことはすでに九九年の金融自由化の大合唱の中で法的に保証されていたのだが)、再び一緒になるというのは、一九三三年以前への逆行に見える。

 しかしもちろん逆行は形式的である。証券会社が銀行に衣替えをするのは、政府の金融支援を受けやすくするためであって、そのためにあえて、政府の規制の強い銀行に転換したのである。その限り、これもまた、市場原理主義の否定を身をもって実行したと言えなくもない。

 アメリカは金融資本の大再編成によって、資本の歴史的な集中、集積を図ることによって、金融危機とその崩壊から脱出しようとし、国家は大企業を救済しつつ、この再編成を徹底的に推進しようというのである。

 問題はこうした動きが、アメリカの金融資本主義の救済となりうるのか、“ドル帝国主義”の防衛となりうるのか、である。

 もちろん、こんなやり方で金融資本主義やドル帝国主義を救うことはできないであろう。あるいは仮に一時的、表面的に救いうるとして、それは一層決定的な破綻と衰退を準備し、そこにつながるという意味での救済にすぎない。金融立国、金融大国は“金融亡国”となるしかなかったが、これは今後も同じであり、またそれは、日本などが財政立国(財政支出による立国)を唱えながら――麻生の戦略について言っているのだ――、“財政亡国”となるしかないのと同様であろう。

 今、日本のブルジョアたちはえらそうに、アメリカは日本の経験から学ぶべきだと盛んに言いはやしている。

 これはつまり、一九九〇年代、当初、金融危機に際して、断固として国家の救済策を採用せず、不良債権の処理のために、銀行の資本強化のために国家のカネをどんどん投入せず、迷ったり、混乱したりしたこと(“失われた十年”)を言っているのである。つまりできるだけ迅速に、できるだけ断固として、できるだけ大規模に、国家のカネを注入せよ、そうすれば金融危機も容易に克服できるだろう、アメリカのブルジョア諸君、迷ったり、停滞したりしてはならないと言いたいのである。

 日本のブルジョアたちは知ったかぶりをして発言しているが、自分たちがどんなにつまらないことを忠告しているのか、分かっていないのである。彼らが金融危機を回避したかわりに、国家的危機と破産と解体をもたらしたことに気がついていないのである。

 ◆最後に――議会は救済案を否決

 この原稿を書きあげた後、米下院が七十五億ドルの金融資本救済法を否決したというニュースが入ってきた。まさかそんなことはありえないと思っていたので、それが成立するという前提で議論してきたが、否決はまさに世界資本主義を震憾させるものであろう。世界中のブルジョア世論は、できるだけ迅速に、できるだけ大規模に、国家による救済策を打ち出すことで世界恐慌を回避すべきだと大合唱してきたのである。

 米下院が救済策を否決したことを、ブルジョア・マスコミなどは盛んに「高い報酬だ、反発が高まっている」、「米国は世界への責任を自覚せよ」などと書き立てている。しかし議会が否決せざるをえなかったのは、バブルに踊り、ボロ儲けにふけりながら、都合が悪くなると国家によって救済してもらおうと考える、厚顔無恥で「貪欲な」金融ブルジョアたちに対する、労働者人民の強烈な怒りがあったからである。「反発が高まっている」とするなら、それは世界中の労働者人民の方であって、ブルジョアたちの「反発」といったものは、卑しいエゴイズムの卑しい発露にすぎないではないか。

 救済策が拒否されたということは、世界恐慌が不可避となったということであろうか。アメリカは大恐慌当時のフーヴァーの“愚挙”を再度繰り返すのであろうか。そして新しいローズヴェルトが登場するのであろうか、そしてその人間によって、新ニューディール政策が行われるのであろうか。深刻な財政危機とドル危機のなかで、はたして新ニューディールが可能であろうか、可能だとするなら、どんな形で可能なのか。

 そしてもしアメリカやフランスが三〇年代にやったようなニューディール政策が不可能な国家は、かつてのドイツや日本のように、再び軍国主義やファシズム国家の道を歩むのであろうか。

 しかし次のことだけは言っておかなくてはならない、つまりマルクスが言ったように、歴史的な大事件は、「一度目は悲劇として、二度目は喜劇として起こる」ということを、である。

 一九二九年に始まる世界恐慌は、ドイツのファシズムや日本の天皇制軍国主義を生みだし、また世界中に新しい帝国主義と侵略戦争等々を、そしてとどのつまりは、死者だけでも何千万人、何億人も出すという、世界的な規模の大戦争を引き起こした、つまり限りない人類の不幸と惨禍に、大悲劇につながった、しかし今回やってくる世界的な恐慌は、茶番として終わるであろうし、世界の労働者階級の闘いによって茶番として終わらせなくてはならないのである。

 我々は最後に、例のAIG(保険大企業)についての、次のような記事を紹介し、金融恐慌をもたらしたものの一端と、破綻企業の救済の意味と、そしてまた、金融再編が何を意味するかについての一つの展望を明らかにしておきたい。日本経済新聞は九月二十六日、『大機小機』欄に、「三角」署名の短い記事を掲載している。

 「今から三年前。米最大の保険会社AIGのウォール街の本社に、当時最高経営責任者のマーティン・サリバン氏を訪ねたことがある。

 AIGは今の金融危機とは別の危機、米金融界をゆるがした不正会計事件のただ中にあった。保険金支払いに備える準備金を実際より多くみせるなどの会計処理を、司法当局が追及。トップに四十年近くも君臨したモーリス・グリンバーグ氏は失脚、サリバン氏は〇五年三月にCEO職を引き継いだばかりだった。

 背景にはグ氏の強力な拡大路線がある。七〇年代から地理的拡大に加え事業の多角化に着手。百を超す国と地域で損害・生命保険だけでなく、他社が手掛けない高いリスクの特殊保険や金融派生商品(デリバティブ)を含む多様な金融サーヴィスに進出。グ氏の名は世界最強の保険・金融コングロマリットを作り上げた立役者として世界にとどろいた。

 だが事業の膨張に見合ったリスク管理ができていなかった。不正会計は市場から『AIGは不測の保険金支払いなどリスクに対する準備金が少な過ぎる』と繰り返し指摘される中で起きた。グ氏らは株価下落を嫌って不正な準備金積み増しに手を染めていったとみられる。

 グ氏退任から三年。AIGは別の形で再び『規模のリスク』にのまれた。ここ数年は、破綻したリーマンなどと同様に、住宅ローン関連や企業の倒産リスクを売買するデリバティブ取引に傾斜。三年前、サ氏は『商品の多様性』と『リスクを恐れぬ経営』が依然としてAIGの強みと語り、拡大路線を継続した。

 米連邦準備理事会から最大八百五十億ドル(約九兆円)のつなぎ融資を受ける事態を招いたのは、デリバティブなどの金融サーヴィス分野での巨額損失だ。不正会計事件以降もAIGの総資産は一貫して拡大、広がる業容の中でリスクが見えなくなった。

 リスク管理を伴わない規模や事業領域の拡大がいかに危険か。AIGの二つの危機は物語る。米国は今、銀行・証券再融合の金融コングロマリット化で危機を乗り切り、金融大国を維持しようとしている。窮余の一策だろうが、それが体の大きいだけで自己管理できぬリスク(病状)複合の『金融メタボリック』を生まないか、心配だ」


暴露される麻生の本性
かげろうのようにはかない政権

 麻生はようやく首相の地位を手中にしたが、総選挙で敗北すれば、ほんの一時期、ただ名目だけの首相で終わるしかない。

 この男の本性は、「所信表明」演説のなかで、この間、政治が停滞し、重要な課題がすべて渋滞したのは民主党のためであり、民主党が国の利益を考えて政府や自民党に協力しなかったからだといった理屈に特徴的に表れている。

 しかし「ねじれ」の政治状況の中で、政府与党の政治が貫徹しなかったというなら、それは自民党が国民の支持を失い、参院選で自民党が大敗したからである、つまり自らの責任以外ではない。麻生は、政府自民党が国民から見放され、参院選で決定的に負けたことを反省するのが先であって、政治の「停滞」の“責任”を民主党に転嫁できるはずもないのだ。

 彼は首相としての最初の演説の中で、「日本の底力」、「強い日本」だ、「決断のときだ」、「誇りと活力のある外交・国際貢献」だ、「暖かい政府」だ、私は「信じて疑わない」、「決して逃げません」、等々の空疎な言葉を連発したが――こんな言葉で、大向こうをうならせようというのだから、世間知らずのお坊ちゃん育ちと言うしかない――、まさに麻生の政治が空っぽで、その場限りの域を決して出ることができないことを暴露している。

 麻生はまた、国連総会の演説後、集団的自衛権の行使を禁じた憲法の“解釈”について、「基本的に変えるべきだ」と公言したが、しかし首相としてこんなこと軽々しく口にしていいのか。

 麻生や安倍らはずっと、問題は“解釈”ではなくて、憲法自体を変えることだ、というのは、現行憲法は集団的自衛権を否定する“解釈”を許すものでよくないから、と叫んで来たのである。

 つまり安倍や麻生らの反動どもは、現行憲法では、集団的自衛権は持てないと“解釈”できるから、自分たちが勝手なことをするために、自分たちの恣意もしくは思い込みによる独断で憲法の“解釈”を変えると言っているのである。

 もちろん、憲法が集団的自衛権どころか、自衛権そのものを否定しているのは“解釈”の問題ではなく、客観的な事実の問題、条文の文章そのものの問題である。

 麻生の発言は、この男の救いようのない皮相浅薄な国家主義を暴露している。

 彼はまた所信表明演説で、日本経済を「三年で再生する」、「三段階で再建する」と大見えを切ったが、どんな確かな根拠も展望もあってのことではない。ただその場かぎりの「言葉」を並べるだけで、無責任そのものであろう。

 そもそも日本経済を「三年で再生する」ということの具体的な内容は何か。財政再建問題は棚上げにし、あるいは多くの労働者の困窮や困難等々を抜きにして、一体日本経済の何を「再生する」というのか。

 彼の主張はただ一つ、財政支出の膨張で、それが日本経済を「再建する」というのである。国家的破産のもとで、さらにそれを促進しながら、国家や経済の「再建」も何もあったものではない、むしろこれは国家破壊の政策、“亡国の”政策そのものであろう。

 なお悪いことに、彼は自分は決して財政再建のことも考えないのではない、しかし「経済成長があって、はじめて財政再建も可能だ」、財政膨張(バラまき政策)をやり、その結果として財政再建もやるのだ、と口先だけのごまかしを並べるのである。

 しかしバラまきの実行と、景気回復とはまったく別の二つのことであって、借金を雪だるまのように膨らませながら国の支出を増やせば、景気が回復するというものではない。

 そうしたやり方で、景気が回復したように見えた場合もあるが、しかしその場合でさえ、景気回復が財政膨張によるものだという、確かな“因果関係”などこれまで明らかにされていないのである。そればかりか、借金財政膨張政策によっては、景気が少しも好転しなかった――かえって悪化した――歴史的経験もまたいくらでもある。

 そしてまた、財政膨張政策でなくても経済的繁栄を謳歌した時代もいくらでもあるのであって、例えば小泉内閣の時代も、財政膨張ではなく、規制緩和や金融緩和を謳ったが、それでも景気は「回復」したのではなかったのか。

 そして、これまでの自民党政権の数十年の経験を見ても、「経済成長が勝ち取られてから、財政再建が進められた」、などという例は一度としてないのであって、「経済成長」の時代でも、せいぜい財政悪化がいくらかゆるやかになった、といった程度でしかなかった、というのは、「経済成長」が戻り、いくらか税金が増加しても、自民党や政府は、それを借金の返済のために、「財政再建」のために用いようとは決してしなかったからである。

 だから、麻生が「経済成長なくして財政再建なし」などと叫ぶのは、余りに見え透いた欺瞞であって、彼は、これが本当に可能であると信じていないし、またそれを可能にする展望など全くもっていないのである。「財政再建」をほんの一歩でも前進させようという意志は最初から皆無である。

 小泉は「構造改革なくして経済成長なし」と喝破した、そして麻生は、この小泉の言い方を形だけまねるのだが、しかし麻生は、汚いバラまき政治を「経済成長」の政治だと強弁し、その上、「財政再建」もやるのだと言って国民をあざむくだけである。

 小泉は中曽根の高齢を口実に、議員身分を事実上剥奪し、中曽根の激怒を買うのも辞さなかったが、麻生は中曽根の愚息――まさに文字通りの意味での――を外相に抜擢して中曽根にこびを売るのである。志の低さ、卑しさはいかんともしがたい。

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