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●1078号2008年9月21日
【一面トップ】茶番の自民党総裁選 茶番の自民党総裁選 「タレント・オーディションだ」、「ただ売名で、手を挙げればいいという感じだ」、「茶番だ」等々とさんざんにくさされながらも、自民党五候補による総裁選挙がたけなわである。『海つばめ』を手にするころには、ちょうどこの選挙も終わって自民党総裁と首相が決まり、いよいよ総選挙といった政治情況になっているだろう。しかし総選挙の行方を展望するためにも、あるいはその後の政治情況を明らかにし、労働者の闘う道をさぐるためにも、この総裁選の様相を検討してみることは極めて重要であろう。 自民党の総裁選は今や全くの“出来レース”になり、その上、ひどく不真面目なもの、労働者ばかりか、国民全体からそっぽを向かれるようなものに退廃してきている。 今や自民党は、総裁選は党の総裁を選ぶためのものではなく(総裁は事実上すでに決まっている)、総選挙にむけての大キャンペーンだと理解するのである。 自民党の五候補は、東京に始まり、全国の大都市で街頭演説をして回っているが、一体何のためか。自民党総裁選挙は、国民全体にかかわる問題ではなく、自民党の“私的な”問題である。何を勘違いしているのであろうか。 麻生はまだ総裁選挙が終わってもいないのに、候補者を内閣に取り込み、重要な地位を提供すると言い出すほどに無神経であり、増長慢である。 彼らはこんな総裁選をして、総選挙に向けて何か有利なことをやっているつもりなのだが、実際には国民をばかにし、愚弄し、白けさせ、実際には国民をますます自民党から遠ざけていることに気がつかないのである。 真剣に総裁選挙戦をやらないなら、つまらない馴れ合いの“出来レース”にしてしまうなら、総裁選を通じて自民党に対する支持率をあげるという目論見自体が無意味なものになる、という最も大事なことが分かっていないのである。全く何という愚昧な党、“空気の読めない”党、国民から完全に遊離した党であることか。 候補者はそれぞれ歯切れよく啖呵を切っているが(もちろん麻生のように、ようやく手の届くところに来た権力のために、ひたすら事なかれ主義に徹している俗物もいる)、それを見るなら、この総裁選挙の意味もいくらかははっきりしてくる。彼らは共同して国民をたぶらかし、この機会を利用して、ブルジョア的政治、反動政治の大キャンペーンを行おうというわけである。 麻生は一年前福田と対抗したときは、「自主憲法を日本人の手でつくる」、「日本国の主権をかけ、日本人の生命を守るという国家にとっての最重要な課題として」らち問題を解決する等々の“勇ましい”発言をふりまき、自民党内の反動派、国家主義派の威勢のいいチャンピオンとして登場したが、今回は、まさに“古い”自民党の代表として、財政膨張、利権や利益誘導政策、国民買収政策、バラまき政策の担い手として出現するのであり、そうした無原則を少しも意に介しないのである。彼にとっては権力こそがすべてであって、“政策”や“原則”などどうでもいいのである。 だからこの無節操な権力妄者は、福田と争ったときの勢いはどこへやら、ひたすら“低姿勢”とまあまあ主義を貫き、国家主義的発言などは石破ら他の候補に任せてしまった。 この男は頭のてっぺんから爪先までエリート根性にこり固まっており、自民党の中でさえ「やくざ貴族」の名で呼ばれているような政治家である。祖父(吉田茂)にあやかってか、キューバの葉巻をもったいぶってふかし、高級ブランドの靴やバックで身を固めながら、そのくせ、卑俗な“マンガ趣味”や“べらんめえ”口調で俗世間の人気を得ようとするような徹底した俗物、“お坊ちゃん組”の一人であり、労働者人民の生活や労働のことなど何も知っていないのである。 彼が自民党内部の最も腐敗した要素、つまり族議員や反動議員たちの衆望を一身に担って登場してきたことは少しも意外ではない。それこそがこの低俗な男にふさわしい役割なのである。 政府自民党はすでに補正予算について大まかなことを決めているが、そこで四千億円の国債を六年ぶりに発行するという。この数年間、「財政再建」ということで自粛してきた、借金による補正予算を“復活”したのである、つまり「財政再建」の“しばり”をすでに完全に放棄しつつある。もし麻生が首相に成り上がれば、こうした傾向は野放しになる以外ない。 麻生の無節操と卑しさは、三年三段階で「経済再生」を誓っている、その主張に特徴的である。彼は財政膨張の景気刺激策を批判されると、ケインズ主義的政策に走るのは第一段階だけであって、その後には、財政を再建する第二段階、さらに「改革による経済成長」を図る第三段階があるのだ、といった主張を持ち出したのである。 もちろん、自分の本当の政治、つまり小泉以前の腐った自民党政治に復帰するのをごまかすため、自分のやり方によっても、他の候補者が約束している「財政再建」や「経済成長」も可能になる、自分もやるつもりである、と言わんがためである。 問題は麻生が、第二段階、第三段階のことなどまじめに考えていないし、可能であるとも、まして実行しようと意図してもいないということである。そんなことは彼にとってはどうでもいいことである。当面、口先だけで表面を取りつくろい、ごまかせばいいのである。 彼はまた、今年の春、月刊誌で基礎年金の税方式論を、そして消費税についても一〇%引上げを示唆したが、総裁選の主張では、それを封印している。負担増を言うことは不利ということであろうが、彼の無原則を教えて余りある。与謝野の言葉を借りるなら、ただ「迎合する」だけの、どんな一貫した信念も定見もない、つまらない政治家ということだ。 沈黙する麻生に代わって国家主義的煽動の役割を担ったのは、元防衛庁長官の石破である。 彼は「テロとの闘いを忘れるな」を呼号し、そのためには軍備の増強と海外派兵こそが必要であり、日本の国際的任務である、とわめきたてた。彼の発言はすでに煽情的で、ひたすら非合理的な情緒や感情に訴える卑しい煽動となっており、ブルジョア支配階級が、そして政治家たちが再び手段を選ばず、国民を軍国主義に動員しようとし始めていることを暴露するものとなっている。 彼は立会演説会といった、半ば“公式的な”場で、湾岸戦争のとき、日本は国民一人あたり一万円、総額一兆円余を出しながら、武力貢献をしなかったため、日本人として非常に恥ずかしかったなどと言いはやすのである。 「ある米国人から『息子は湾岸戦争で命を落とした。カネをやるなら命を返してくれるか』と言われたときの恥ずかしさ、悲しさ、悔しさを忘れられない。今、その日本に戻ろうとしている」 彼は「外交と安全保障」こそが重要であり、国家がしっかりと「防衛」されていなければ国民の安全も経済の繁栄も何もない、まず国家の「安全保障」こそが重要であり、そのためにも「国際貢献」を断固として果たさなくてはならない、「世界の若者たちがテロとの闘いで血を流しているのに、なぜ日本だけ逃げるのか」とわめきたてたのである。 この男はこんな皮相な煽動によって、イラクに自衛隊を送ったのは全く正しかった、インド洋での給油活動から手を引くべきではない、衆議院解散を来年の任期ぎりぎりまで伸ばしても(そうすれば、民主党が反対しても衆議院で再議決できるが、総選挙をしたら自民党は少数派になるか、仮に多数派になっても三分の二以下になり、再議決もできなくなる)、インド洋給油活動の継続を追求すべきだ、とわめいたのである。 しかしお気の毒なことに、インド洋での給油問題で公明党が動揺し始めているのだから、総選挙を伸ばしたからといって、展望がそれほど簡単に開けるわけではない。 石破のいやらしいところは、「テロと闘う」と言いながら、アメリカなどブルジョア大国の「テロ」については、それを正義の暴力とみなしていることであって、例えば、アメリカのイラク侵攻についてはそれを正当化して、何ら矛盾しないと思い込んでいるのである。 しかしイラクにどんな「大量破壊兵器」も見つからなかったことからも明らかなように、アメリカ国家の(したがって日本国家の)「テロとの闘い」などインチキであって、実際には、それは後進的国家の民族主義的、宗教的急進派の「テロ」とは違う、もう一つの「テロ」、つまりブルジョア大国の帝国主義的「テロ」でしかないのである。彼らはこの真実を隠すのであり、隠さなくてはならないのである。 石破は、ただ自民党だけが「安全保障」政策をやることができる、その意味では自民党だけが「責任政党」だ、平和主義にこびを売るような野党は国の「安全保障」をないがしろにするから政権を任せられない、どんなことがあっても「国を守る」ことが最優先だ、とわめくためだけに、総裁選に名乗り出たのである。 彼にとっては、イラクにアメリカとともに自衛隊を送りこんだり、給油活動を継続することが、こうした形で「テロと闘う」ことが、「日本の安全保障」だそうである。何という狭隘さ、何という皮相浅薄さであることか。その逆が「日本の安全保障」である場合がいくらでもあるだろうに。 つまり自民党の腐敗政治を「国家主義」によって“止揚”しようというのであり、それを追いつめられた自民党の唯一の救済策、挽回策として持ち出すのである。 石破は「困ったときの愛国主義頼み」というブルジョアたちの伝統的で、常套的なやり方を代表するのであり、その意味で、石破は最も反動的で、許しがたい役割を担って登場したのである。彼の軍国主義は“お坊ちゃん育ち”の安倍の比ではなく、さらに危険で、“筋金入り”のものである。 もちろん、国家主義、民族主義を鼓舞する点では麻生らも同様で、麻生も石原も「日本の底力」といったものに期待し、そんなものについて語っている。小池もまた元防衛庁長官として、日本の“防衛”の重要性について語らないわけがない。 さてそれでは、麻生に反対する与謝野、小池、石原らはどうであろうか。 与謝野の景気のいい決まり文句は、「国民に対して迎合しない、私は堂々たる政治を目指す」といったものだが、しかしその内容は、福祉拡充だといっても財源がないまま、無責任に論じられている、消費税率の引き上げを、それしかないことを「正直に」言うべきだといったことでしかない。 消費税増税が、与謝野の言う「国民に迎合しない」政治というのだから、この男のレベルも自ずから明らかである。国民から大収奪をするなら、確かにいくらでも「財源」はあるだろう、しかしだからといって、それで国民の、つまり労働者人民大衆の「福祉」が増大すると、どうして言えるのか、せいぜいよくて一方で収奪し、他方でお慈悲をたれているにすぎないというのに、そしてブルジョアたち、金持ちたちが一層豊かになり、「格差が拡大」していくだけだというのに。 とは言っても、与謝野もまた消費税率の引き上げをすぐやるというのではない、というのは、それが全く不人気であり、そんな政策提案を掲げて総選挙を闘うことができないことをよく知っているからである。 にもかかわらず、彼が立候補して、消費税率の引き上げをわめくのは、政府自民党の財政崩壊や福祉崩壊の責任を回避し、その原因は自分たちにではなく、“国民”全体にあると、“国民”に責任転嫁しようとするからである。そして、もし国民が「高福祉」を要求するなら「高負担」を覚悟すべきだと国民を“脅迫”するのである。 しかし財政から十兆円ものカネを、国債を保有する金融資本や金持ちたちに「右から左へ」と流しながら(我々は国債への利子支払いを言っているのだ)、「財源がない」も何もないのである。また大規模な戦争など存在しないのに(そして簡単に起こるような世界情勢でもないのに)、軍事費に数兆円も支出しているのである。こうしたむだカネだけで十数兆円あり、その他の余計な費用、緊急でない費用も数えるなら、二、三十兆円のカネがまさに“無駄”に支出されているのである。与謝野等は、大衆収奪の消費税など言う前に、まずその一掃を主張すべきであろう。 しかしそのためには、自民党の権力を打倒しなくてはならないし、政治に対する大資本の影響力を一掃して労働者の支配を打ち立てなくてはならないのは言うまでもないことである。 麻生に対するもう一方の批判派は小池(や石原)に代表される「上げ潮派」もしくは小泉派であるが、しかし彼らは“柳の下に二匹目のドジョウはいない”という単純な真理を理解しないのである。 彼らは、借金をしなくて「福祉」を充実することができ、また増税がなくても「財政再建」が可能であると言いはやすのだが、それは「構造改革」であり、「経済成長路線」だとおっしゃりたいのである。 石原には印象的なスローガンが見られない、つまりこの男は、麻生や国家主義派にこびを売って「仲間の国々に対して国内事情で『テロとの闘いを放棄する』と言えるのか」などと、意味不明なことをわめく一方で、労働者人民が「コツコツ働いてもなぜ報われないんだろう、との思いを抱く社会をつくってしまった」ことを謝罪しつつも、規制緩和、行政改革、財政再建路線こそ、つまり「スリムで効率的な社会」こそが必要だとお説教をたれるだけである。 彼が引き継ぐという(?)小泉路線が、多くの労働者の地位を引き下げ(地位の不安定で、資本に過酷に搾取される“非正規の”労働者群の急増を見よ)、その生活を破壊したと謝罪しながらも、そうした事態を招いた「構造改革」路線をさらに追求するというのだから、この男の言っていることも支離滅裂、混乱と矛盾そのものである。 最後に小池は小泉の支持をようやく取り付け、「小泉は自民党をぶっ壊すと主張し、ほぼぶっ壊した。次は私が『霞が関』をぶっ壊す」と威勢のいい啖呵を切るが、小泉にあやかろうという立場は完全に裏目に出ている、というのは、小泉“改革”などというものを信奉する人々はますます少なくなっており、その“神通力”などとっくに消えうせているからである。 小池は「霞が関をぶっ壊せ」というスローガンで、具体的に何を言いたいのか。小泉の「自民党をぶっ壊す」という啖呵が空疎な――そして国民をぺてんにかける――空辞であったと同様に、小池のスローガンもまた、内容のない空文句にすぎない。最近問題になった、単なる官僚の天下りを規制するといったことなのか。それとも別の内容があるのか。小池は語らないし、語ることはできないだろう。 というのは、国家官僚機構を「ぶっ壊す」ということは、国家権力そのものを「ぶっ壊す」決意なくしては不可能であって、小池らのブルジョア政治家ができることではないからである。彼らは国家官僚と不可分に、内的に結び付いている、ただこのことだけからも、小池のスローガンの虚妄性は明らかであろう。 彼女は「北朝鮮によるらち問題の解決は、私が必ず実現する」、とどんな根拠も見通しもなく断言している。しかしいかにしてか、という点については何も語らないのである。小泉がやったように、北朝鮮に乗り込んで話し合えば「解決する」とでも考えているのだろうか。偶然、そうしたやり方がいくらかうまく行く場合があるにしも、それは、小泉や小池がたまたま北朝鮮に行ったからではなく、そこに、多くの国内的、国際的な諸条件が成熟したからにすぎない。 そしてこの連中は、「埋蔵金」といったものまで持ち出すのだが、それについては、候補者の一人の与謝野でさえ次のように明瞭に批判している、つまり真実がどこにあるかということは、自民党の連中にさえ分かっているのである。 「埋蔵金がどこにあるかを証明した人はいない。妙な楽観論がはやるのは将来にとって好ましくない」 この哀れな連中は、「経済成長があればすべてがうまく行く」という、古くさい歌を歌う以外、どんな能力もなく、またどんな言葉も知らないのである。「増税や借金などしなくても、経済成長を可能にすれば、いくらでも税金が増える」、「パイをまず大きくすれば国民の生活も向上する、国民も幸福になり、国も富む」、と約束する。中川秀直の言葉によれば、「成長路線こそ、格差是正の良薬である」。 しかし「経済成長」さえはかばかしくない時代(それどころか資本主義が解体して行きかねない時代)を迎えて、今ではこんなスローガンもすっかりかげってしまったことに、彼らは気がつかないのである。新自由主義つまり資本の“自由な”運動が、資本の露骨な利潤の追求が何を意味するかが、現実の中ですっかり暴露されてしまったのである。 資本は一層肥え太ったが、労働者の生活は一層悪化しただけではない、搾取が飛躍的に強化されたが、それを象徴したものこそ、労働者の地位がひどく低下し、低賃金、無権利で、しかも何の希望も持てない“非正規の”労働者が急増し、労働者全体の三分の一にも達したことである。 資本の“自由な”運動の結末は、世界恐慌として爆発してくるかもしれないのである。 こうしたことは、まさに新自由主義の、市場原理主義の横行の結果であった、つまり資本主義の本性の発露であった。 小泉「改革」が、つまり「規制緩和」等々が成功して、「経済成長率」が上がった結果が、つまり資本主義的繁栄の他の一面が、労働者階級の困難と窮乏化の増大であり、「格差拡大」や「痛み」や「ギスギスした関係」の広がりであり、そしてまた「経済成長」の結果が金融パニックや長びく不況であったとするなら、またまた小池や石原のように、「規制緩和」や「市場原理主義」や「経済成長」路線に救いを求めることほどにナンセンスで、ピントはずれのことがあろうか。 資本の繁栄は労働者階級の貧困と苦悩の増大であったが、彼らは資本の繁栄だけ残して、その矛盾をなくし、労働者階級の貧困や困難だけをうまく解決する、「格差是正」もやると言うのであるが、こんな「うまい話」を誰が信じられるのか。 もし資本の繁栄が、つまり高い“経済成長率”の反面が労働者階級の貧困の増大だとするなら、すなわち両者は盾の表裏であって切り離すことがでないとするなら、労働者は自らの生活の防衛と未来のために、資本の支配を否定し、葬り去る以外ない、というのは、資本の自由や「規制緩和」や「成長」や繁栄とは、とりもなおさず労働者の不幸であり、窮乏化を意味することがこの間、決定的に明らかにされてしまったからである。 黄昏の資本主義 ケインズ主義を止揚して新しい経済発展と繁栄をもたらすと賛美されてきた“新”自由主義――またの名、市場原理主義――の破綻がようやく明らかになってきた。 日本でも小泉「改革」を否定して、オールドケインズ主義に“復帰する”麻生等の主張がかしましいが――麻生が意識的に“古い”ケインズ主義にたち戻ったのか、それとも単なる便宜主義と迎合的“ポピュリズム”を発揮しているかの詮索はさておくとして――、アメリカでも“新”自由主義の破綻と“古い”ケインズ主義的資本主義への回帰が顕著である。 米財務省は今月始め、破綻に直面した住宅金融二社(ファニーメイとフレディマック)に対する救済策を決意したが、それは企業活動は国家の介入なしに、自由に行われてこそ最善、という“新”自由主義の信念と原則をないがしろにし、この間の彼らの言動に真っ向から背反するものであった。 この救済策は、二社の国家管理や、巨額の公的資金の注入を謳ったが、それはかつて日本の金融危機に際して多用されてきたやり方と同じものであった。 そして米国は世界中の金融機関や政府に対して、保有する二社の債券を売らないでほしいという要請までやり始めたのである。 二社は米住宅ローンの過半に当たる五兆ドル(五百三十兆円ほど)に関連しているが、そのうちの三割、一兆五千億ドル(百数十兆円)が海外の中央銀行や金融機関によって保有されているからである。 もし海外の保有機関が二社の債券をどんどん売り始めたら二社はたちまち破綻し、さらにはドルは崩落し、世界経済の破綻につながって行くかもしれないのである。 それを避けようと、投売りされる二社の債券を国家が「買い支える」などということになれば、国庫の支出は急増し、ただでさえ破綻している国家財政はどうなるか分からない。 それにしても、なりふり構わず世界中に二社の債券保有の継続を要請するとは、一体どこに“新”自由主義の面影が、メンツや誇りがあるのであろうか。 日本の金融機関――十五兆円余の二社の債券を保有していると見られる――はこの間、徐々に目立たない形ではあれ、二社の債券を減らそうとしてきたが、それは企業体として当然の、避けられない自己防衛策ではなかったか。 日本で最大保有者の農林中金は三月末から六月末にかけて、二社の債券保有を約五兆六千億円へと三千億円減らした。また、日本生命保険は六月末から二ヵ月で二兆九千億円のうちの一千億円、第一生命保険も一兆三千億円のうちの三千億円を、それぞれ売却してしまった。損失を恐れてのことである。 民間金融機関だけでなく、政府金融機関も大量の二社の債券を保有し続けているが、しかしその実態をへ理屈をつけて隠している。米国の国家的要請では断われないということか、しかし二社の債券価格が暴落して巨額の損失をこうむったら、どうしてくれるのか。 “新”自由主義の“誇り高き”原則からするなら、自国の企業の救済のために巨額のカネをバラまくだけではない、他国の民間企業に(公的な機関に)「自由な経済活動をしないでくれ」などと要請する――アメリカの場合は、バックに強大な権力があるのだから、事実上、“強要する”――ことなどあっていいものか。 彼らは一貫して、“ケインズ主義”の限界とその止揚を叫び、規制緩和だ、国家の経済過程への介入は排除せよ、自由競争と市場原理こそ至上のものであり、最高の経済原則であって、それさえちゃんと保証されれば経済は自ずからうまく動き、繁栄する、景気も上昇し、その結果、労働者の生活もよくなり、財政状態も好転する、と言いはやしてきたのだ。 レーガン政権、サッチャー政権、そして日本でも小泉内閣の政策の根底となったのはこの“原理”であり、それによって、資本主義は新しい活力を取り戻し、よみがえったのだ、そして資本主義の新しい黄金時代、“グローバリズム”と“市場原理主義”の段階がやってきたのだ、等々とさんざんに賛歌が奏でられてきたのである。 しかしこの“新”資本主義も、戦後のケインズ主義がもてはやされた時代の資本主義と同様に、その矛盾をさらけ出し、“砂上(紙上)の楼閣”にすぎなかったことを暴露し、今や崩壊と解体のふちにまで追いつめられたのである。 米国家が恥も外聞もなく二社の救済に乗り出さざるをえなかったのも、その破綻を放置しておくなら、米資本主義はもちろんのこと、世界資本主義の全体が深刻な危機に陥り、またドルの凋落が現実のものとして出てくるのが余りにはっきりしていたからである。 しかし国家による二社の救済にもかかわらず、金融危機は依然として継続、深化しており、またまた米国の巨大証券会社リーマン・ブラザーズの破産のニュースが飛び込んできた。 かねてから危機をささやかれ、株価が急落していたこの金融会社は、他の企業から支援や救済をすべて断られ、また国家からも見捨てられて破産する以外なかったのだが、それは、米国の金融危機が、否、米資本主義そのものの危機がさらに深化しつつあることを明らかにした。 驕り高ぶり、世界に覇を唱えてきた米資本主義の瓦解の姿であるが、それはまた同時に、米資本主義を中核に成り立ってきた世界資本主義の解体の始まりでもあろう。 ケインズ主義でやってもだめ、“新”自由主義(市場原理主義)もまた破綻に通じただけだというなら、その意味するところはただ一つ、資本主義には結局救いはない、ということである。 何人もこの実際の歴史的経験と検証からくる結論を回避することはできない。 |
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