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●1077号2008年9月7日
【一面トップ】解体に向かう自民党権力 解体に向かう自民党権力 福田が突然辞任を表明した。安倍についで福田も同じような形で政権を投げ出さなくてはならなかったことは、国家と政権の深刻な危機と解体状況を暴露している。こうした事態は、自民党政治と権力が崩壊して行きつつあることを教えるとともに、ブルジョア民主主義体制、議会制度そのものが矛盾を深め、機能麻痺に陥りつつあるということであって、日本資本主義の政治経済体制が、いくらかでも安定していた時代から、階級闘争、政治闘争が異常に激化する激動と動乱の時代に突入しつつあることを語るものであろう。戦後六十年余、日本資本主義は“相対的”安定の時期を終えて、今や決定的な曲がり角に立ったのだ。 福田の辞任会見の発言は特徴的であって、単に福田内閣の本質的なものだけでなく、自民党権力そのものが頽廃し、その終焉に近づきつつあることをも明らかにしている。 「この臨時国会では、この対策〔「経済・景気問題」や「物価高騰」に対する対策〕を実施するために補正予算や消費者庁設置法など、国民生活にとって一刻も猶予ない重要な案件を審議する。先の国会では民主党が重要案件の対応に応じず、国会の駆け引きで審議引き延ばしを行った。その結果、決めるべきことがなかなか決まらない。そういう事態が生じ、何を決めるのもとにかく時間がかかったということは事実だ。 今、日本経済は、また、国民生活を考えた場合に、今度開かれる国会ではこのようなことは決して起こってはならない。そのためにも体制を整えた上で国会に臨むべきであると考えた」 だから、辞めることを決意した、というのである。また言う。 「私が続けて行くのと、新しい人がやるのと、これは間違いなく違うと考えた結果だ」 「私が続けて、国会が順調にいけばいい。そういうことはさせないと野党が言っている限り、私の場合は大変困難を伴うのではないかと思う。政治空白をつくらないためには、今が一番いい時期。私が、いろいろ考えて判断した結果、新しい人に託した方がよりよいという判断をした」 だから自分はよく考えた上で、しかも後継のことも見通した上で、主体的に辞めるのであって、安倍のように追いつめられて辞めるのとは違う、と虚勢をはることは忘れないのである。 要するに、自民党が総選挙を勝ちぬき、政権を維持し続けるには、自分よりも麻生らがやった方がいいだろう、麻生なら、“国民的な”人気もあるし、公明党などにも受けがいいのだから、ということにすぎない。福田は辞任表明の直前、その意思を麻生に伝え、次のように語ったという。 「この難局で首相を続けることは難しいので辞めようと思う。華々しい総裁選をやって君の人気で自民党をよみがえらせてほしい」 これは、自分はもうやる気が失せたし、情勢を切り開く信念も熱意も展望もないから投げ出す、麻生に任せる、ということでしかない。 しかし麻生に“国民的な”人気があるとか、麻生なら国会運営をスムーズにやることができ、総選挙で勝つことができるとかは、すべて福田の幻想にすぎない。麻生にどんな“国民的な”人気があるかどうかは、すぐに明らかになるだろう。 辞任の記者会見で、福田は、「私は自分のことは客観的に見られる、皆さんとはちがう」と色をなして発言したが、実際には、彼は自分のことも、自民党がどんなに危機的状況に追いつめられているのかも、またその深刻さもほとんど理解していない。 福田は民主党が「国のことを考えて」話し合いにも協調にも応じなかったとか、公明党が横車を押したとか、議会政治がうまく動かなかったのを、他の党のせいにしたが、しかしそれは自民党と福田や安倍の――もう少しさかのぼれば小泉の――責任であって、他党に転嫁することなどできるはずもないのである。 福田には、民主党も突き詰めれば自民党と同じ考え、同じ政治的立場なのだから、「衆参のねじれ」といった異常事態、困難な状況にあっては協力して当然で、小沢は虚心坦懐に話し合い、「大連立」でも何でも真摯に検討すべきだった、それこそが議会政治が「円滑に」動く鍵を握っていたのだ、それを拒否したのだから、悪いのは民主党であると思い込むのであり、だからこそ民主党(や公明党)に対する恨み言を並べ、不満を口にするのである。 しかし自民党に、民主党に協力をお願いするような資格がはたしてあったろうか。もし衆議院の三分の二以上の圧倒的な多数が、本当に自民党に対する、安倍内閣や福田内閣に対する支持であったなら、衆院多数派の自民党が参院多数派の民主党に協力を迫ることもできたかもしれない。 しかし実際には、この衆院の自民党多数派は小泉が郵政選挙で国民をぺてんにかけて勝ち取った多数、いんちき多数であって、そんなものを背景に、自分たちは衆議院で権力を握っている(衆議院の優先権は憲法でも保証されている)、民主党は協力し、話し合いに応じるべきだとなどと言っても、民主党がおいそれと応じるはずもないではないか。 そんな理屈が通用すると思い込むところに、自民党の思い上がりとひとりよがりと公正さに対する鈍感があるのだ。 実際には、一番近い国政選挙、つまり昨年の参院選で民主党は自民党に勝利しているのであって、これこそが“国民”の本当の意思であると、民主党は主張する完全な権利を有していたのである。 福田がもし選挙で勝利してその後に、民主党に協力を要請したなら、それを民主党もむげに退けることができなかっただろうし、「大連立」でも何でもありえたかもしれない。民主党の幹部がそれを拒否したら、民主党自身が分裂し、解体して、持たなかっただろう。 だから、“民主主義”の精神をいくらかでも尊重する公正な政治を志すなら、安倍にせよ、福田にせよ、まず虚構の多数派、いんちき多数派を清算することから始めるべきであって、新たな選挙によって得られた多数派なら、衆議院で再度の決議をして“重要法案”を成立させても、それを非難することは難しかったかもしれず、同情は民主党にではなく自民党に集まったかもしれない。 民主党も最後まで抵抗することはできず、あるいは民主党が“強硬”路線を貫くなら、この党はたちまち分裂、分解に向かったかもしれないのである。 だが、自民党は無責任なニヒリスト・小泉のばくち選挙の結果に安住し、そのインチキ“多数派”を一日でも長く保持しようとしたのであり、その結果として、自らをますます政治的袋小路に追い込んで行ったのである。 福田は、どんな正当性も主張できない衆議院の多数をバックに、民主党を懐柔できると考えたのだが、すでにこのこと自体が、福田という政治家が客観的な状況を全く理解しておらず、また理解する能力も持っていないこと、ひ弱な“おぼっちゃん”政治家、全く甘い“世襲”政治家でしかないことを教えていた。 民主党と「協力」して事態の打開を勝ち取れる、と考えた時点から、すでに福田内閣の“戦略”的破綻と立ち往生は決っていたのである。 そしてまた、辞めた直接の動機は公明党に押し切られて、自分ではやりたくない定額減税をやるはめになったのに嫌気がさしたからだとも言われている。公明党は、容赦なく、自分たちのあれこれの要求――それがどんなに道理に合わないものであれ――を受け入れないなら協力も見合わせるなどの圧力をかけてきた。事実、福田は公明党にも恨み言を吐いている。 だが、もし福田が財政再建路線だけは維持したいというのだったら、どうしてその信念を断固として貫かなかったのか、公明党の“不当な”横車などに負けて引き下がるのか。何の意志も実行力もないことを暴露しただけで、情けないとしか言いようがないではないか。財政再建路線の維持といっても見せ掛けだけだ、ということを白状しているも同然である。 彼は「国民の目線で考える、それで改革をやる」とか大そうなことを言ったが、その実際的な内容は、「消費者庁」といった空っぽなものを、むだな官庁をまた一つでっちあげるということでしかないのだから、この男が、“国民”のことを、つまり労働者人民の困難や生活のことをほんのわずかでも理解していたとは思われない。 福田は、麻生なら「人気」があるから、また公明党ともうまく行っているようだから、困難な「ねじれ」国会もたくみに乗り切って行ける(自分にはできないが麻生なら大丈夫だ)と考えているかに見える、しかし福田にできなかったことを、麻生ならどうしてやれるのか。 そもそも麻生に人気がある、などと思い込むこと自体、福田の判断力の貧弱さを暴露している。これはちょうど、“後継者”に安倍を選んだ小泉と同様な暗愚さというものであろう。小泉もまた安倍なら大丈夫だと思ったのだが、しかしその安倍が馬脚を露すのに、大した時間も必要なかったのである。 麻生の政治はすでに明らかである。幹事長として、彼は軍国主義や国家主義に加えて、全く無原則なバラマキ政治の新たな旗手として、腐敗した族議員の頭目として登場し、そのことによって党内の空っぽの人気と支持をかき集め、また公明党などともうまくやろうとしている。これはちょうど、「マンガ」によって政治意識の低い青年の評判を勝ち取ることができると考えるのと同様な軽薄さと無節操というものであろう。 要するに、権力に到達できるなら「何でもあり」なのであって、麻生はどんな原則とも無縁な権謀術数と権力主義の政治家としての、卑しいポピュリスト(あるいはボナパルチスト)としての本性をますます明らかにしている。 実際、小泉政治の果たした役割は犯罪的とも言えた。政治の無原則、無節操は、大衆に卑俗にこびる“ポピュリズム”の政治は、このときに始まるといって決して言い過ぎではない。彼は何ごとにも責任を負わない“ニヒリスト”として、「政治をもてあそんだ」のだが、自民党は、安倍や福田はその後遺症に苦しんでいるのである、もっとも小泉の「郵政選挙」というはったりとばくちのお陰で、自民党権力はいくらか延命でき、悪政を続けることができた、と言えなくもないのだが(安倍が強行した教育基本法の改悪等々を見よ)。 福田が苦しんだ「ねじれ現象」は続いている。総選挙によって、それは解消するなどというのは幻想であろう。自民党が勝つとしても、それは薄氷の勝利でしかないだろうから、自民党権力はますます困難を加えて行くしかない。 そしてもし仮に民主党が勝って衆参で多数派となり、政府を組織するとしても、それが自民党よりましなものになる保証は全くない、というのは、小沢民主党が多くの面で、あるいはある意味で自民党以上に反動的であり、バラマキ政治によってのみ支持を広げようと、ひどい権謀術数のやり方に傾いているからであり、民主党全体がそんな小沢に追随しているからである。 小沢民主党の掲げる政策が、自民党政権以上のバラマキであり(それしかない、といってもいい)、しかも「財源は政権についてから考える」といった無責任なものでしかないからである。小沢は、「政権を握れば、財源なんてどうにでもなるものだ」とうそぶいている。 だから、「このあたりで一度政権を交代すべきではないのか」、「交代して見るのもいいのではないか」ということで、仮に民主党が政府を組織したところで、自民党政権より悪くなることはあり得ても、良くなることは決してないのである。 これが日本の政治の現実である。 そして労働者はこうした現実から出発し、ここから実践的な結論を引き出すしかないのである。今こそ、マルクス主義同志会の掲げるスローガンの決定的な意義を確認すべきときである。 古い“バラマキ”に復帰 自民党内閣が、総額十一兆五千億円の「総合経済対策」を決めるとともに、一・七兆円の補正予算も決定した。定額減税も今年中に行うというが、その金額は多ければ数兆円規模にも達する。自民党は総選挙対策として、財政的な保障もないまま、巨額の“バラマキ”政策を強行しようとしている。八百兆円もの国家機関の債務が累積しており、国家が破産に瀕しているときに、である。 十一年までにプライマリーバランスを実現するという公約も、投げすてたも同然である。 プライマリーバランスの実現とは、貸借関係を除いた、税収と実際的な財政支出を均衡させるということである。つまり五十兆円の税収があるなら、実際の支出もその範囲に収めることである。 今、予算規模は約八十兆円、そのうち約三十兆円を国債発行つまり借金に頼っている。税収は約五十兆円である。 支出をみれば、八十兆円のうち、二十兆円ほどが「国債費」である(うち、借金の返済と利子支払いがほぼ半々)、つまり累積した国債の元利の支払いであり、全く非生産的に、ただ金融資本や金持ちたちを一層富ますためだけに支出されている。十兆円は税収で足りない実質支出をカバーするためのものであり、バランスの回復とは、この十兆円の借金を、ただそれだけをなくすことであるにすぎない。 だから仮にバランスが達成されても、やはり二十兆円の「国債費」は残り、そしてそれを埋めるために二十兆円の新規の国債も発行されなくてはならないのである。 結果は、国債の発行が「国債費」の範囲内に収まる、ということでしかない。やはり二十兆円の借金はなされ続けるのであり、利子の分だけは、借金は増えていく計算になる。 こんなものが、政府自民党の財政再建の内容であるが、今、自民党政府や麻生は、このいいかげんな財政再建の課題(彼ら自身が「第一歩」と言っている)までも放棄するというのである。 自民党権力の新しいバラマキの金額が十兆円か十数兆円か知らないが、そんなものは景気のためにも、国民のためにも、ほとんど意義を持たないだけではなく、財政再建の追求という課題をも空文化するだろう。 国家財政の破産はもはや救いようのないものになり、自民党権力は、急速なインフレ以外(インフレが進めば進むほど国家の負担は軽減される、というのは国の借金が目減りして行くからである)、どんな財政再建の展望も見えなくなっている。 自民党が政権を維持するために、国家は解体し、破産し、そして滅ぶのである。もちろん、労働者はそれを恐れないが、ブルジョア階級はそれでいいのか。 彼らはそれでは困ると考えたからこそ、曲がりなりにも「構造改革」や「財政再建」を唱えた小泉を権力の座に押し上げたのではなかったか。 しかし始まったばかりの「構造改革」はたちまち棚上げされただけではない、安倍内閣を経て、福田内閣にいたり、むしろその反対の、利権にたかる“古い”自民党政治が完全に復活し、バラマキ政策こそ選挙で勝つ最善の策であると叫ばれる時代に逆戻りした。 小泉の「構造改革」路線や自民党を「ぶっ壊す」云々がまっ赤なぺてんであったことも、今では完全に暴露されてしまった。こんな自民党に帰着したのだから、小泉「改革」は「改革」でも何でもなく、自民党とその権力を丸ごと温存しただけではない、強化さえした、ということである。 もし自民党権力が「国債費」を凍結するか、せめて借金の利子支払いを止めて(仮に、一時的でも)、そのカネ(約十兆円ほど)で、減税をするのだ、景気のために財政を出動させるのだと主張したなら、評価する余地がいくらかでもあったかもしれない。 財政が毎年二十兆円もの、全くむだな負担をしなくてはならなくなっているのは、この数十年、自民党の政治家たちが、自分たちが権力と議員身分のために国家財政を食い物にし、借金をして財政を膨張させてきたからである。八百兆円にもなる国家の借金を積み上げて、国家を破綻に追い込んできたのは、自民党の政治家たちの責任以外の何ものでもない。 その結果の一つが、財政支出の二五%にもなる「国債費」という全く無用な支出である。 彼らはなぜ二十兆円の「国債費」を、あるいはせめて十兆円の利子支払いを凍結しないのか、そしてそうすることで巨額の「財源」を確保しようとしないのか。 現在の国家予算は八十兆円であるが、実際には六十兆円である、というのは、後の二十兆円は全く国と国民のために支出されていないからである。 とするなら、政府自民党は「国債費」を凍結するとともに、この十兆円の穴を埋めるような政策を、財政再建を断固としてやりぬくべきであって、“バラマキ”政策に走っているような状況ではないのである。 これくらいのことをして、初めて、最低の「構造改革」であり、財政再建政策と言えるのだ。 もちろん、無責任なのは自民党だけではない、小沢民主党は自民党以上のバラマキ政策で自民党権力に代わろうとけちくさい策動にふけるだけであり、あるいは公明党は自民党に定額減税を必死で働きかけ、認めさせて悦に入るだけである。 民主党は、先の参院選では農家への戸別所得保障といった、自民党にも劣らない“バラマキ”を謳ったが、今また、十数兆円から二十兆円もの「政策経費」(別のバラマキ政治)を盛んに売り込んでいる。彼らは自民党政治に反対だというが、それはただ自民党政治をそのまま復活するためである。 |
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