マルクス主義同志会は、08年メーデーに向けて以下のようなビラを配布します

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マルクス主義同志会は、08年メーデーに向けて以下のようなビラを配布します●2008年4月23日
今こそ階級的労働者党の建設を押し進め、その闘いを組織せよ
参議院選挙は民主党の圧勝、自民党の惨敗に終わった。
自民党が敗北したのは、安倍が労働者人民から徹底的に嫌われ、その卑しい本性が明らかになったからである。安倍は自分が敗北したのではない、たまたま年金とか閣僚の“不祥事”がつづいたからである、自分はやめるわけには行かない、まだやらなくてはならないこと、やると約束したことがある、と開き直っている。彼は選挙中にもわめき立てたように、自分の方が首相として小沢よりも百倍も千倍もふさわしいと信じ、「美しい国」づくりや「戦後体制の転換」は自分でなくては誰がやるのかという“使命感”になおも取り付かれているのである。
しかし敗北したのは、まさに安倍とその国家主義路線(「美しい国」づくり路線)であって、単にたまたま年金問題が浮上したから、格差問題があったから、閣僚の不祥事が続いたからといったことではない。この点を自覚しない安倍は単なるピエロの役割を演じるだけであり、事実演じている。
彼は年金問題などが浮上し、その説明に時間を取られて、自分の思うがままの選挙ができなかった、こんな選挙は自分の本意ではない、と敗北の弁を語ったが、もちろん、こうした泣き言を並べること自体、安倍の“甘さ”(無能とひとりよがり)であり、彼が表面だけは威勢がいいが、内容のない“おぼっちゃま”
政治家でしかないことを暴露している。
安倍は自らの国家主義路線、「美しい国」づくりの展望を語る時間やも余裕がなかったのではなく、それができなかったのである。もし安倍は、それが本当に自分の勝利の道と信じたのであれば、どうしてそれを断固としてやらなかったのか。年金問題で「一人残らず、遺漏なく年金を保証します」などと“うそっぽく”わめくよりも──というのは、年金問題をきちんと処理しなおすなどということは当たり前のことであり、一言やると言えばそれだけで終わることであって(そして、より重大なことは年金制度全体の改革であった)、「一人残らず」などというのは、政治ではなく単なる願望もしくは決意表明、さもなくば無意味な空文句でしかなかったからである──、確かに安倍の勝利を保証したはずではなかったか。だから、問題は年金問題で時間を取られた、といったことでは全くなかったのである。こうしたおかしな弁解や言い訳を持ち出して本質問題を避けて通り、ごまかすのが“安倍流”であって、まさにこうした安倍の卑しい本性が国民全体から嫌悪され、忌避されたのである。
安倍は例えば、従軍慰安婦問題を選挙で訴えることができたであろうか。もちろんできたのである。アメリカの議会がそのことで安倍内閣非難決議をしようとしているときだったのだから、選挙で自らの「美しい国」づくりの根幹にかかわるこの問題を徹底的に訴えることができたばかりではない、むしろまた安倍の信念と立場からすればやるべきであったのである。あるいは沖縄住民の集団自決の問題はどうだったろうか。彼は軍の関与がなかったと叫んで来たのだから、そして従軍慰安婦問題や集団自決の問題は彼の政治的立場の根幹に、つまり「美しい国」の観念の根底にかかわることだから、どうして選挙で公然と訴えなかったのか。
安倍はそれができなかったのである。年金問題の説明に時間を取られたからできなかったのではなく、それをしたら自分への支持がさらに溶けてなくなってしまい、敗北に拍車がかけられることを恐れ、戦慄したのである、そんな訴えをして、劣勢を挽回できるなどと信じられなかったのである。つまり自分の「美しい国」の主張や路線にどんな自信も信念もなかったのである。彼はおはこの「教育改革」についても、教育基本法に次いで、終盤国会で教育三法などを次々と成立させ、「実際の成果をあげてきた」のであり、それを誇って選挙闘争を勝ちぬく──勝ちぬける──はずであり、またそうした“戦略”でやってきたはずである。しかし彼は選挙で何千万の国民を前にしたとき、それを正々堂々と主張し、公然と訴えることも、国民を納得させることもできなかった、というより、その自信が持てなかったのである。
しかしこの愚劣矮小な人間はいまなお自己をいつわり、「訴える時間がなかった、だから、自分は本当は負けてはいない」などと考えるのであり、考えることができるのである。人間として、政治家として本質的なものを欠いているとしか思われない。
閣僚が悪いというが、しかし松岡にせよ、赤城にせよ、柄の悪い閣僚たちはみな安倍の「同志」──つくる会と手を取り合って、国家主義議員たちの先頭に立って教科書問題でグループを作って以来の──であり、その連中で内閣を固めて、「美しい国」づくりに邁進するための“お仲間”だったのである。その閣僚の品のない本性──「ばれなければいい、形だけ法律に違反しなければ何をしてもいい」と、権力のかげに隠れて不道徳と悪事を重ねる──がたちまち明るみに出たからといって、それは安倍の下劣な品性の投射であり、その写しでしかないのは余りに明らかであろう。閣僚の“不祥事”は直接に安倍のそれであって、本来なら、閣僚の不祥事の責任を取って安倍がやめてしかるべきなのである。とにかく、閣僚の不祥事は安倍の“お仲間”がどんな連中であるか(そんな連中ばかりであるか)を明らかにしたのであって、安倍が負けたのは自分のせいではない、たまたま閣僚の不祥事が重なったからだ、などと言えるはずもないのである。
だから、安倍の敗北は安倍路線の、つまり「美しい国」路線の敗北ではない、などと思っているとするなら、安倍は根本から間違っているのである。
もちろん、安倍がそう思い込む根拠はある。国会の中だけで見るなら、自民党と与党は立派な多数派であり、自分は自民党の圧倒的多数を得て総裁に、そして首相に選ばれたのである。民主党の中にさえ、安倍の国家主義路線に共鳴し、それを支持するごくつぶしがいくらでもいるのであり、他方“社共”などは取るに足りない勢力であり、日和見主義に終始しているのだから、恐れるべきものは何もないのである。だから、安倍が自らの思想や路線が万能であり、磐石であると信じ込める条件はいくらでもあったのだ。そして“おぼっちゃん”の安倍は自分の完敗が信じられないのである、あるいは信じたくないのである。
確かに民主党が相手だとするなら、どうして負けたかの、安倍はいまだにきちんとした総括もできないでいる。たまたま負けたのであって、もう少しやって行けば、こんどは自分が大勝するすることができる、その巡り合せのはずだ、小泉だって郵政選挙で大逆転をやってのけたではないか、こんなはずではない、と思いまどうのである。
実際安倍は民主党くんだりに負けるはずはなかったのである。自民党が民主党に負けたのは、民主党が支持されたのではないと安倍らが思うのは正しい、しかし民主党が勝ったのは安倍が国民全体から徹底的に──「美しい国」づくりという観念論も含めて──拒否されたのである、ということを認識できない限り、安倍にはどんな救いもなく、安倍への支持が戻って来ることはないであろう。
もちろん、民主党の勝利は民主党が支持された結果ではない、というのは正当である。しかし安倍は、それは自民党が支持されなかったからだ、と言うのを忘れている。自民党に対する反感が余りに強かったので、他の“選択肢”がなかったから、多くの労働者はやむをえず民主党に投票したにすぎない。だから、民主党の勝利は一昨年の郵政選挙における自民党の勝利と同様に、空っぽの勝利、内実の伴わない勝利であって、積極的なものをほとんど含んでいないのである、どんな積極的な未来も展望も欠いている、全く空虚な勝利にすぎないのである。郵政選挙で衆議院が愚劣な議員が右往左往するだけの伏魔殿となったと同様に、今回の参議院選挙によって、今度は参議院が、権力主義だけ旺盛の空っぽのろくでもない議員たちがはびこる、愚者の宮殿に転化したのである。
小沢はかつての自民党政治(小泉がいくらか否定するふりしをした政治)、バラまきの政治、保護主義の政治を“復活”させることで──すなわち国政を前に進めるのではなく、後に引き戻すことで──“地方”や農山村の支持をかき集め、自民党から議席を奪ったが、しかしそれが日本のブルジョア政治を一層頽廃させ、腐らせる以外のどんな意義も持たないのである。
民主党で当選した、自民党から鞍替えした鳥取の新議員(彼は、郵政選挙で自民党から追い出され、落選したのたが)は当選の挨拶で、「地方に仕事を持って来るために頑張る」と堂々と宣言をしていたが、こんな“保守”の連中をかき集めて勝ち取った勝利が、果たして本当の勝利であろうか。小沢はどんな原則もなく、ただ「勝つためだけの」選挙戦をやったとも言えるが、そんなやり方がただ一時的な成功しかもたらさないこと、成功したと見えた途端に破綻していくようなガラスの勝利であることは余りに明らかであろう。この男は、その場その場での“戦術的な”発想しかできないのであり、ただそれだけの無内容な人間である。
民主党の政治が財政破綻に対しても、福祉破綻に対しても、労働者の貧困化に対しても、全く無力であり、矛盾しており、一層の混乱や解体や貧困につながらないという保証は何もないのである、否、それをますます促進し、深化することは余りにはっきりしている。労働者は民主党の相矛盾し、原則を欠くどんな政治にも政策にも全く信を置かないし、置くことはできないのである。そもそもこの党はその出発点から、議員になる上がることだけを目的とした卑しい連中の寄せ集め政党であり、そして今もってそうであり、内部的に分裂したままである。民主党のごくつぶしたちの目的は、議員になること自体、権力を獲得すること自体であって、“国民”つまり労働者階級(働く生産階級)の利益や労働条件や生活や、ましてその究極的な解放つまり根本的な社会改革といった理想など全くどうでもいいのである。
今回の選挙におけるほど、客観的に、労働者階級の生活や利益が最重要の問題になったことは、終戦直後を除けばなかったといっていい。困難で非人間的な状態に苦しむ、何千万にも達しようという“非正規の”の労働者や数百万と言われる「ワーキングプア」の登場は、彼らを代表し、彼らの生活と利益と権利を守って一貫して闘う党派が緊急に要請されていた、だが、労働者階級の利益や生活改善やその闘いの前進といったことは正面切って問題にされなかったし、されることはなかった。民主党や“社共”は、それらについていくらか語ったが、しかしそれは労働者の票がほしかったから、儀礼的に、あるいは口先だけで問題にしたすぎなかった。
この社会を根底から支える労働者階級、生産階級の利益や立場は放っておかれたのであり、事実上無視されたのである。本当は、彼らのことこそが、そのきつい労働やむくわれない賃金や生活が第一義的に論じられ、その生活の改善が、地位の向上が、負担の軽減が熱く語られるべきであったにもかかわらず、であるのに。
こうした状況を見るなら、自覚した労働者の任務は一層重要であり、我々が課題とした労働者の政治的、組織的闘いの展開は緊急の要請であり、現時点における労働者の闘いの核心であるということはますます明らかである。
我々は今こそ全国の多くの労働者に、この課題を共に果たすために結集し、闘いを開始するように呼び掛ける。
《参議院選挙の結果を踏まえ全国の労働者に訴える》マルクス主義同志会代表委員会●2007年7月31日
“官製”ファシズムが
登場しつつある
労働者諸君、
今こそ反撃のための
戦線につけ!
安倍内閣は、高校での教科の履修漏れや、教育基本法のためのタウンミーティングの「やらせ」など、政府や文科省の不潔な悪行がはびこる中で、新しい教育基本法を強引に成立させた。数々の政府や文科省の“不祥事”──事実上の権力犯罪──が明らかになった時点で、こうした法案が廃棄され、政府は総辞職すべきなのは余りに明らかであった、というのは、彼らがそもそも教育基本法をあれこれいじくる資格はおろか、それについて語る資格さえないことがとことん暴露されたからである。一体、タウンミーティングの「やらせ」といったことを平気で行うことができるような不道徳の、腐敗したごくつぶしども、事実上の犯罪者どもに──彼らが罪を問われなかったのは、権力の側の人間であり、権力によって保護されていたからであって、普通なら逮捕され、裁判にかけられて当然であったのだ──、教育基本法を作り、国民に押しつけるどんな資格があったというのか。
だから、政府や国家の汚いぺてんと虚偽と腐敗の中で強引に誕生させられたこの新法は、まさに最初から教育基本法の資格のない、汚れた、空疎な法律、教育にとって「百害あって一利なし」の反動法であり、そうなるしかないのである。
それは、もったいぶって公共心や愛国主義を謳いながら、他方では、「教育」もまた市場原理によって動かされるべきたとして、子供たちに競争を強い、競争に駆りたてるような、根底から矛盾し、混乱した法律である。競争原理を謳い、国民を相互に競い合わせながら、それは個人主義や利己主義でもなく、それらを煽りたてるものでもないと思い込むような、愚劣で、自家撞着した法律である。
そして、それは法律で「道徳」や「愛国主義」などを押しつけられると妄想する、徹底的に観念的な法律、そして国家が国民や子供たちに「思想信条」までも強要できると考える、とんでもない“官製”ファシズムの法律である。
この法律は、“公”の精神を謳っているが、しかし実際には、その根底は二重の意味で卑しい個人主義、利己主義の精神で貫かれている。
まず第一に、この法律は、決して個人主義、利己主義を否定しないで、資本主義社会の根底である競争や市場原理を持ち上げ、教育の中にまで、そうしたブルジョア的原理を持ち込もうとしている。
そして第二に、彼らの謳う“公”とは、「愛国主義」の強調にも明らかなように、国家主義であり、軍国主義、帝国主義であるにすぎない、つまり支配階級の、ブルジョアたちの国家的、集団的な形を取った個人主義、利己主義でしかないのである(自国中心主義、自国だけは特別であり、自国だけは愛されるべきであり、また自国の歴史だけは何があろうと正当化される等々の狭い、偏跛な観念である)。しかし利己主義を違った形で説きながら、“公”の精神について、“社会性”について語ることは決してできないのである。
こうした二重の意味において、この新しい教育基本法もまた卑しいブルジョア的“原理”を根底を置いているのであって、決して子供たちを健全な本当の社会的人間として育てようというのではないし、またそんなことは決してできないのである。
戦後の教育は、基本的に個人主義、自由主義に基づいてきた、そして反動たちは、この個人主義や自由主義こそが、教育への適用こそが、子供たちを、国民を堕落させ、頽廃させてきた、国家を解体させてきたと言い続けてきた(過度の自由主義、個人主義の弊害だ等々)。彼らは自らの体制のイデオロギーが、意義を失っていくのに深刻な危機意識を抱くのであり、抱かざるをえないのである、というのは、それはまた本当の階級的イデオロギー、マルクス主義や共産主義の進出の条件とも成りえるからである。
だから、彼らは口先では自由主義や個人主義を批判してみせてくれる、そして“公”や“規範意識”や“道徳”についてもったいぶって“がなり立てる”のであり、自由主義や個人主義をそれで置き換えようとわめくのである。
しかし実際には、こうした反動たち(つまり安倍や中川昭一やつくる会の連中)こそ、もっとも腐敗した、もっともえげつない利己主義者であり、権力主義者であるのだから噴飯ものである。彼らは“偏向教育”についてさんざん騒ぎ立ててきたが、しかし自分たちが“責任をもって”教育について語る段になると、これまでの“戦後教育”あるいは“自由主義”教育など問題にならないような、えげつない、そして空疎な“偏狭教育”しか提出できないのだからあきれたものである。
彼らは個人主義、自由主義の教育とは、資本の支配と決して矛盾するものではないこと、それゆえにこそ、それが戦後の「教育の憲法」となり得たことは百も承知である、しかし資本の体制の頽廃、腐敗や、教育の荒廃を目の前にして、彼らは、自由主義、個人主義、利己主義を、このブルジョア的生活原理を非難し──その恩恵に充分に預かってきたくせに──、“公”の原理に止揚しようと叫ぶのであり、叫ばざるを得ないのである、というのは、そうしないで放置しておくことは危険であり、労働者人民大衆がますますマルクス主義や共産主義の影響を受け──というのは、これまでのブルジョア教育、つまり自由主義的原理の破綻は明らかだから──そこに刈り取られてしまいかねないからである。
しかし彼らの“公”とはいつわりのもの、偽造品であって、ただ別の形での個人主義や利己主義、つまり「愛国主義」や国家主義等々でしかないのである(どうして、そうならないわけがあろうか、彼らはブルジョアに追随して、本当の社会的立場を、つまり社会主義を拒否したのだから)。
だから、彼らの教育基本法は本質的に自己矛盾した、表裏ある、卑しいぺてんであり、またぺてんとして登場するしかないのである。彼らの謳う“公”といったものが、全くのまやかしものでしかないゆえんである。
実際、新しい教育基本法はいたるところで矛盾しており、混沌そのものであって、たちまちその破綻を暴露して行かざるを得ないであろう。
例えば、教育は“公的な”ものであると言いながら、私学教育を重視すると言ったり、「家庭教育」こそ「第一義的だ」なとどのたまったり──それなら、「教育」はなぜ必要なのか、単なる「家庭教育」の補助だというのか──、また教育は「不当な介入」を排除せよと謳いながら、政府や法律の名を借りた反動や政党の介入は正当であると強調したり(つまり事実上、「不当な介入」をいくらでも容認したのである)、教育は「真理」──新しい教育基本法もまた、この言葉を厚かましくも導入している──を愛する心を養うといいながら、自国の歴史については、事実に基づいて客観的に評価するのは“自虐史観”であると攻撃し(つまり十五年にわるた、犯罪的で、とことん利己的だったかの反動的な帝国主義戦争を否定し、それを正義の戦争であるかにいつわり)、世界のすべての人々が正当であり、真実であると認める客観的な歴史の真理があるかもしれないが、しかしそんなものは日本には関係ない、そんな歴史はあってもなくてもどうでもいいものだ、日本には日本の歴史があり、歴史観がある、日本にとって意味がある歴史のみが真実である、などわめくのである。
そして、彼らがこうした珍奇な法律を作った本当の動機は、政府や自民党にとって、目の上のタンコブであった日教組を粉砕し、教員たちを管理し、支配するところにあったのだから、最初からこの法律が低俗なものとなったのは当然であって、その卑しい動機やあさましい政治的意図は一目瞭然である。それが教育の根底を規定した法律であるなどと言うのは、言うも恥ずかしいほどである。
政府自民党は「教育」について、どんな明確な観念ももっておらず、ただ混乱し、矛盾した内容をそこに盛り込んだにすぎず、これを具体化するなどと言っても、ただ愛国主義、国家主義を強要するという以外の、どんな意義ももちえず、また「教育」に対してどんな積極的な役割を果たすこともできないであろう。それは必ずや、広汎な労働者人民に憎まれ、呪咀され、いつの日か廃棄される運命にある。
そして安倍内閣は、新教育基本法を突破口に、憲法改訂を企むのである。そもそも安倍内閣が教育基本法をまず改訂したのは、その方が手っ取りばやく、安易に行われ得るからであって、これを小手調べとして、先導役として、憲法改訂をやりとげようという意図もあってのことであった。
しかしもちろん、教育基本法を“先行させた”ことは、政府自民党にとって必ずしもうまくやったということにはならないのだ、というのは、それは労働者階級に断固たる反撃の準備──思想的、実際的な──の時間を与えたかもしれないからであり、新教育基本法によって、政府自民党の企むことの本当の意味を理解させたかもしれないからである。
ブルジョアや政府や国家が反動化していくなら、それはまた労働者人民の反発が高まるということであり、その階級的な闘いが発展するということでもある、そして新教育基本法の成立は、労働者階級の危機意識を呼び覚まし、まさに新たな、断固たる闘いの出発点となり得るのである。ブルジョア支配の反動化が一つの段階を画すなら、労働者階級の闘いもまたそうであるし、そうでなくてはならない。
したがって新教育基本法はブルジョアの反動化が新しい段階に達したことを教えるとともに、労働者の闘いもまたさらに前進した段階にたどりつくし、つかなくてはならないことを明らかにしたのである、今こそ、労働者階級が断固たる反撃に移っていくべきときであることを告げ知らせたのである。
自覚した労働者の諸君、自らの歴史的な任務を自覚し、闘いにおける自らの役割を反省せよ、しかして同志会に結集せよ。
《えせ教育基本法成立に際して訴える》マルクス主義同志会代表委員会●2006年12月22日
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