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1956〜60年の学生運動
その転換の内容と意義について 

  60年安保闘争と第一次共産主義者同盟を記念する6月15日が再びめぐって来た。我々がこの日を記念するのは60年安保闘争と第一次ブントが、日本の“反体制派”の政治闘争の決定的な転換点となったからであり、この時を境に社会主義をめざす新しい連動が生れ発展したからである。23回目の6月15日を迎えて、56〜60年の学生運動の意義とそれが担った“転換”の意義及びその限界をごく簡単に総括してみよう。それは、我々の現在おかれている地点を反省する一つのきっかけともなるであろう。

■56年に開始された転換

 我々はこの転換が学生運動を媒介にして行われたこと、そしてまさにそれ故に、それに特有の優越性と欠陥を持っていたことを認めざるをえない。

 「学生運動の転換」なるものは、1956年からわずか2〜3年の間におこっている。この転換が開始されたのは56年4月の全学連第八回中央委においてであり、6月の第九回大会はそれを承認しその意義を確認した。九回大会の報告は言っている。

 「そして、この全学連の永い間の誤りの集中的表現ともいえる七中委(55年9月)の方針が徹底的に批判された。“学生の身近な要求をとりあげ無数の行動を組織して行けば、学生の統一ができる”という意見、“自治会は学生の要求をとりあげて、それにサーヴィスすればよいのであって、情勢分析や、政治的方針の提起なと行うべきでない”という考え方、“又平和運動などとり上げるのはいいが、学生がついて来ないので自治会が浮いてしまう”という意見、更には“平和と民主主義の行動をおこすのはよいが、まず自治会が強くなってからとりあげる≠ニいう段階的考え方等々の意見を徹底的に批判し、学生の最も基本的な要求は平和と民主主義とよりよき学生生活を守ることであり、もし、全学連、自治会が正しい情勢分析の下に正しい方針を大胆に提起していけば、必ず日本の学生は立ち上がるであろうし、このことによって自らの利益を守るであろうこと、そしてこの闘いの中でのみ全学連自治会は強化されるであろうという意見を確認しつつ、過去の反省の上に立ち全国の学生諸君に応え、平和と民主主義のために強い決意をもって運動の先頭に立ち、新しい第一歩を踏み出すことを誓ったのである」(第九回大会報告決定集)。

 つまり56年の転換とは、共産党の指導の下に「“平和と友情”という合言葉で、スポーツ、娯楽に学生が参加したことをもって平和運動が前進した」(同報告)と考えて自己満足するたわいもない幻想を排して、平和運動を大衆運動、政治闘争としてまっ正面からとりくむ方向への“転換”であり、この限りでは、まだ共産党の民族主義や平和主義と決定的に対立する方向への“転換”ではなかったのである。

 だが、平和運動を学生運動、政治運動としてとりくむなかで学生たちは「敵は誰か(何か)」と自問し、帝国主義者こそがその敵であると結論づけて行った。そして彼らは、「この一年間、永い間の国際緊張が大きく緩和の方向へ向い、我々の前に恒久平和の現実性が生まれた」(同)、従って学生運動の役割は、この平和への歴史の流れに逆行する動きと闘い、恒久平和の流れを確実なものにするところにあるといった56年当時の幻想――共産党がそのころさかんにふりまいていた平和主義的空論――と手を切って行ったのである。

■“転換”は深められたが…

 60年の3月に開催された全学連十五回大会は4〜6月の安保闘争の最終段階の方針を決定したが、そこでは、九回大会以降の全学連の前進が次のように総括されている。

 「それは政治的課題を民族的な枠内だけでしかとらえられない傾向がばっこしている中で、問題を何よりも国際的な観点からとらえ、平和運動を、敵のない話し合い運動に解消する傾向に抗した。帝国主義者の反動戦争政策に対決する任務を全学連の闘争の中心任務にすえ、把握したことは画期的なことであった……。今日では誰もがその『第一義性』を口にする平和もそれが現実に日々変遷する諸階級の国際的闘争の現実からはなれて固定化されるならば、闘いの正しい発展をおしとどめていくようになる。『戦争と平和』ですべてを割り切りドグマティックに情勢を分析し、方針の(平和擁護闘争)を立案する立場から脱却して、我々をとりまく情勢は実は資本家階級と労働者階級の激しい闘争の世界であること、その渦中の学生の諸要求も労働者階級との闘いと固く相互に結合しあってその発展が保障されること、従って我々はすべての情勢を平和擁護の課題をひきだす見地からではなく、その時期における労働者と資本家の力関係及び対決点(それは政治情勢を左右する)を明確に把握しつつ学生の運動の方向を導きださねばならないことが次第にあきらかにされていった。十一回大会から十四回大会にいたる一年間は、勤評闘争、警職法闘争の実践の試練の中で、このような正しい思想がより深刻に追求されていく過程であった。

 従ってこの第十四回大会をめぐる論争は、まさにこのような学生運動の発展の方向を正しくすすめようとする部分と、おしとどめようとする部分の対立として行われた。そしてそれは同時に、日本資本主義がその発展途上、国際的地位の確立を狙って行って来たところの安保改定に対する闘争をより正しい方向に大胆に発展させるか否かの対立としてあらわれたのである」(第十五回大会報告決定集)。

 56年に始まる“転換”は、58年から59年にかけて“完成”された。56年には学生運動は全社会的な意味をもつ“平和と民主主義”のための政治闘争にとりくむことが第一義的に重要であると確認したが、すでに安保闘争の時代(59〜60年)には、この政治闘争は、抽象的な「平和と民主主義」のためのカンパニアにとどまらず、大独占の勢力に対する階級闘争でなくてはならず、従って学生運動は労働者の階級闘争と固く結合して闘わなくてはならないというところまで自覚は「高まった」のであった。

 具体的には、安保闘争を、日本のブルジョアジーの「階級的攻撃」と本質的に規定し、階級闘争として闘うか、それとも共産党のように、民族独立と平和のための闘いとして闘うかという鋭い対決として、この“転換”は表現されたのであった。学生たちがいつまでも“古い”立場に固執する日本共産党を激しく非難攻撃したのも当然といえば当然であった。

■当時の共産党の観点

 当時共産党は、「二十三回の統一行動」や署名・請頼などの「多面的な闘争」を美化し、安保阻止闘争国民会義に参加した団体や「地域共闘会議」の数を数えあげ、それの増加が安保闘争の発展であるかの空論を並べたてながら、「安保改定」を次のように評価していた。

 「今日まであきらかになっている今回の改定方向は、若干の形式的な双務化をとるということで独立を求める人民の要求をごまかしつつ、本質的には日本の独立をますます困難にするものである。それは、戦争と従属の体制であるサンフランシスコ体制の本質が維持されるだけでなく、とくに軍事的にはアメリカの戦略体制にいっそう固く結びつけられる点で、きわめて危険な方向である」(三中総)。

 ブント系の急進主義者は、安保改定が復活した日本独占資本の要求であり、日米関係を自らの力量に応じて再編しつつ帝国主義的な再登場をめざしての日本の独占の策動であると規定したが、共産党は、それは“対米従属”を一そう強め、米国の行う戦争に日本が「まきこまれる」危険性の増大、この限りでの平和の危機の拡大としてとらえ、安保の改定に反対することより安保を破棄することの方が重要であり、そのためにこそ反帝反独占の民族民主統一戦線とそれに立脚する政府が必要であとさけんだのであった。

 学生急進主義者と共産党の立場が決定的に対立しており、両者が折れ合い、妥協できなかったことは明らかである。学生たちは、共産党が、自分たちがすでにはなれて来た立場にいつまでもとどまりながら自分たちを「トロツキスト」とか「挑発」とか「反革命」とか中傷しているのをみて、いっそう激こうし共産党の日和見主義と混乱に対する反発をエスカレートして行ったのである。

■“転換”の完成は同時に学生急進派の破産となった

 もちろん、共産党の側にどんな真実も正当性もなかったということ、この党はただ反動と足をひっばる役割を果たしただけであったことについてはどんな疑問の余地もない。

 学生たちが56年から2〜3年をかけてなしとげた“転換”は偉大であり、一つの飛躍であった。それは民族主義的な平和主義的ドグマと決定的に手を切り、民族的国民的闘争(従って平和主義的闘争)ではなくて階級闘争こそが第一義的な意義をもっているという自覚にまで到達したのであった。

 だが学生“共産主義者”たちが進歩的であったのはここまでであった。学年急進主義者にとって、階級的立場に立ち、階級闘争を謳うこと――これこそが“転換”の論理的な結論であったのだが――はジレンマであった。彼らはせいぜい「労働者階級の闘いと固く相互に結合しあって」進むことを強調しえたにすぎなかった。もし彼らが一貫した階級的認識に立つなら、学生の運動が労働者の運動の代理を行うことはできないこと、「労働者の解放はただ労働者自身の事業である」ことを自覚し全く新たな次元に立った運動を開始せざるをえなかったであろう。そしてこれはすなわち、彼らが学生運動家としての(政治的急進主義者としての)自らを止揚することであったろう。

 だがすべての急進主義者はこの決定的な飛躍を行うことができなかった。それは彼らにとって余りに困難な過程であった。彼らは、“政治闘争”から出発して、その政治闘争は抽象的な「平和と民主主義のための闘い」であってはならず、労働者の階級闘争でなくてはならないという全く正当な結論にまで到達し、共産党の民族主義や平和主義をラジカルに否定した。

 だが彼らはこれ以上前進することができず、ここでたちどまってしまった。彼らの「プロレタリアートの階級的立場」は、黒田寛一の哲学に象徴されたように単なる観念的なおしゃべりの域を一歩も越えられなかった。かくして、この時点で、学生運動も急進主義者も反動的となり、彼らに残されたものは頽廃と後退でしかなかった(その政治的表現がテロルへの傾斜や「三里塚」であり、道徳的表現が連合赤軍の“仲間殺し”、中革派、解放派、革マル派の内ゲバであった。こうした腐敗堕落の最も深い原因は、政治的急進主義者が前進することができなくて反動的な存在へと転化したところにあるといえよう)。

 学生運動を媒介にして“転換”が行われたのは、1945〜50年の労働者の闘いの時代と、その挫折を総括して新しい共産主義運動を開始することが、労働者の階級闘争の高まりの中でこの新しい運動が結晶しはじめスタートしていたら、全体の過程はもう少し異っていたであろう。客観的には、50年の共産党の分裂がその契機となるべきだったろう。だがそれは不毛な単なる分裂と対立、内容のない単なる権力争いに堕てしまった。国際派も所感派もただそれだけ矮小な存在でしかなかったということだ。だからこそ、学生運動の1957〜60年の高揚は同時に、新しい共産主義運動を求める連動と結びつき重なったのであり、日本の革命運動にとって一つの特別の意義を持ちえたのである。そして“転換”が学生運動と結合してはじまったことはそれに一定のラジカルな側面を与えると共に、他方では大きな困難を――労働者階級の闘いの外で、先進労働者の殆んど参加しない所ではじまったという――残すことになったのである。

 マル労同の闘いは、この“転換”の論理を徹底させたところからはじまっている。我々は、急進派のように途中で立ちどまったり、多くの学年活動家たちのようにあともどりして“体制”の中に埋没するのでなく、直接かつ組織的に労働者へ働きかけ、労働者に対して社会主義的革命的宣伝・煽動を貫徹する闘いをおし進めて来たのである。 

(林紘義)

●『火花』第593号、1983年6月12日